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'''松永英明'''は、オウム真理教信者シュッケバンゴウ971。2chの工作員として知られている。
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'''松永 英明'''(まつなが ひであき、1969年 - )は、日本のライター、文士、事物起源探究家。『絵文録ことのは』を初めとする一連のブログ群の日本のブロガー。京都大学文学部(言語学専攻)中退、放送大学教養学部卒業[1]。
  
==略歴==
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2003年から、松永英明のペンネームで、ライターとしての活動と共にブログを運営。1996年から2000年までの間は河上イチローのペンネームでウェブサイトを運営し、ライターとしての活動もあった。
===河上イチロー時代 2001年まで===
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オウム真理教を一時脱会した1996年以降、河上イチローのペンネームで、自前コンテンツと電子掲示板から構成される破防法問題、通信傍受法案、軍事・諜報関連やネットの規制問題やマスメディア批判をはじめとして幅広いジャンルの話題を扱ったサイト『Der Angriff』(デア・アングリフにちなむ)を開設した。Nシステムについてのウェブページが朝日新聞の社会面で取り上げられ、「紀宮清子内親王殿下の御座所」のページが週刊誌等で報道されるほどの知名度を元にして、当時の個人サイトを中心としたネット文化の魅力を紹介する書籍を著した。
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==概要==
===福井利器時代 2002年まで===
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オウム真理教が名称変更したアレフへ2000年に復帰して以降、河上イチローとしての活動を終息させた。アーレフへ復帰後は、教団公認の個人サイト「半跏思惟」を開設すると共に、教団関連会社である東山出版の代表取締役社長も務めた。が、なあぷるが摘発され松葉裕子とともに国賠に失敗。
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京都大学文学部在学中にノベルズ編集者と知り合い、書いた小説をその編集者に見せていたという。本人はそのうち小説を出版できるのではないかとする手応えを感じていたが、オウム真理教に入信し、出家する道を選んだことからノベルズ編集者と連絡を取ることはなくなり、小説を出版することはなかった。(佐々木俊尚の取材に対して本人が語ったところによる)[2]
===松永英明時代 2008年まで===
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松永英明のペンネームでは2003年に文筆業を開始した。 2005年2月に、松永はアルファブロガー・セカンドチームに選出され、2005年10月には民主党のブロガー懇談会に出席するなど著名なブロガーとして知られることとなった。2006年3月4日に、オウム真理教及びアーレフの信者としての過去がブログと写真週刊誌で報道された。死ぬ死ぬ詐欺を頻繁に行うが死んでいない。
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松本・地下鉄サリン事件のときには、オウム第一上九・第5サティアンにいて「郵政省出版」に属し、新雑誌「ヴァジラヤーナ・サッチャ」の創刊の準備をしていた。
===御堂岡ヒロアキ時代 2014年1月まで===
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昼夜を問わずPC、携帯、スマホに張り付き、20代以降の今までの人生の半分をネットストーカー、掲示板荒らしとして過ごす。 気に食わない相手を片っ端からネット掲示板で誹謗中傷するだけでなく、相手の個人情報を勝手に調べ上げて、個人情報を掲示板にバラ撒く、さらには殺人予告をする。 それだけにとどまらず、相手の自宅付近を徘徊、相手の勤務先に意味不明電話をする、押し掛けるなどのいやがらせを行い、被害に遭った人達からストーカー、名誉棄損、威力業務妨害等、警察に提出された被害届は数知れず。このすべてが松永英明の命令によるものであることが発覚。その直後に御堂岡が死亡。
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オウム真理教を一時脱会した1996年以降、河上イチローのペンネームで、自前コンテンツと電子掲示板から構成される破防法問題、通信傍受法案、軍事・諜報関連やネットの規制問題やマスメディア批判をはじめとして幅広いジャンルの話題を扱ったサイト『Der Angriff』(デア・アングリフにちなむ)を開設した[2][3]。Nシステムについてのウェブページが朝日新聞の社会面で取り上げられ[4]、「紀宮清子内親王殿下の御座所」のページが週刊誌等で報道されるほどの知名度を元にして、当時の個人サイトを中心としたネット文化の魅力を紹介する書籍を著した[5][6]。
===岡部タケシ時代 2014年2月以降===
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詳しくはこれらのリンクを参照。
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オウム真理教が名称変更したアレフへ2000年に復帰して以降、河上イチローとしての活動を終息させた。アーレフへ復帰後は、教団公認の個人サイト「半跏思惟」を開設すると共に、教団関連会社である東山出版の代表取締役社長も務めた。
https://archive.today/fx10book.blogspot.com
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https://archive.today/fxsystemtrader.blogspot.com
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松永英明のペンネームでは2003年に文筆業を開始した。ブログツールを使用したウェブサイトであることのは編集室を開設したのち、ブロガーとして認知されるようになった。ブログ記事において、また執筆活動を通じて、多くのブログ入門記事を書いていった。やがて、松永はブログ関連書籍の著者として著名になっていった。その執筆活動は、ブログをはじめとするウェブ関連のほか、ジェームズ・アレンをはじめとする成功哲学関連の翻訳、その他女子十二楽坊関連を中心とした音楽関連など幅広いジャンルに及ぶ。ブロガーとしては、文化圏をキーワードとしたウェブ社会の考察や独自レポートなどを多く書いている。 2005年2月に、松永はアルファブロガー・セカンドチームに選出され、2005年10月には民主党のブロガー懇談会に出席するなど著名なブロガーとして知られることとなった。
https://archive.today/fxsystemtrader.cocolog-nifty.com
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御堂岡が死んだため、2014年2月以降は本格的に岡部タケシを用いるようになる。それとは別に堀切ヨウコ名義の工作も用いている。
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2006年3月4日に、オウム真理教及びアーレフの信者としての過去がブログと写真週刊誌で報道された[7]。写真週刊誌の記事は「オウム真理教の現役信者であるMが民主党の宣伝戦略を指南していた」とするものであった。これをうけて、松永は、民主党のブロガー懇談会に出席した時点で教団の信者であったことを含む教団の信者としての経歴について大筋で認めた上で、報道時点ではすでに教団を離れているとし、松永英明名義で行っている活動はオウム真理教とは関係させないように行ってきたとの釈明を行った[8]。なお、暴露に至るきっかけとなったとされるきっこの正体探しとの関係では、きっことの関係を完全に否定した。また、写真週刊誌での報道の当日に開かれた自民党の懇談会に参加しており、民主党の宣伝指南役という報道の趣旨についても否定した。
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本人が上記の事項を認めたことをうけて、オウム真理教の信者が主要政党主催の懇談会に参加していたことや、ブロガーの泉あいがブロガージャーナリズムを基盤とした報道機関設立構想について松永に助言を求めていたことをめぐり、インターネット上で議論が行われた[9][10]。この件に関しては、歌田明弘により週刊誌コラムで取り上げられた。この論争のなかで、前記の報道機関設立構想は立ち消えとなった。一連の論争(通称ことのは事件)はその後、佐々木俊尚の著書の一部として纏められた[2]。
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論争と並行して、松永は過去に対立していた滝本太郎弁護士とも会って脱会についてのアドバイスを受け、2006年6月までには正式な退会届の提出や教団関連会社である東山出版社長の退任手続きを行った。本人は、「公安調査庁に提出される教団からの活動報告から完全に名前が削除されていることで公的に証明されている」との認識を示し、「この活動報告は、虚偽があれば教団の活動停止処分等につながる重大なものであり、信憑性は極めて高い。」との認識も併せて示した。また、2006年4月末から4ヵ月間、松永は病気療養のため長期入院となり、論争からは退いた形となった。
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2007年2月にブログの更新を一時休止。2007年8月、複数の雑誌においてオウム真理教の元信者であったことや河上イチローのペンネームを使用していたことを明示した記事等が発表された。
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2008年6月、ブログの更新が再開され、松永英明のペンネームにより活動を継続することが宣言された。また、ブログ上で滝本太郎弁護士に依頼してオウム真理教3派に対して脱会確認通知書を送付したことを発表した。
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2008年9月から、まぐまぐより有料メールマガジン「「場所の記憶」「都市の歴史」で社会を読み解く――松永英明のゲニウス・ロキ探索」を発行していたが、2010年9月に無料化し、タイトルも「松永英明のゲニウス・ロキ探索――「場所の記憶」「都市の歴史」を歩く、考える」に変更した。
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==経歴==
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*1969年2月 - 奈良県斑鳩町に生まれる。
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*1988年4月 - 京都大学文学部入学。
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*1991年12月 - 京都大学文学部在学中にオウム真理教に入信。翌1992年5月、京都大学を中退し、オウム真理教に出家。
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*1994年 - オウム真理教で省庁制が採用され、教団の「郵政省」出版部に配属される。「ヴァジラヤーナ・サッチャ」等の一般向け教団雑誌の記事を執筆。また、ホーリーネーム「カーマ・アニッチャ・パンニャッタ・パンニャーヤ・ムッタ・デーヴァ」を授与され、「サマナ長」のステージに認定される。
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*1995年3月 - 地下鉄サリン事件。強制捜査の時点で第5サティアンにいたという。
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*1995年9月 - オウム真理教を一時脱会。脱会届も提出したとされる。その後、ライターとして活動。
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*1996年6月1日 - 反破防法サイト「Stop! Stop! 破壊活動防止法」を開設。その後総合情報サイトとして発展し、1997年10月、サイト名を『Der Angriff』に変更した。ペンネームは河上イチロー。
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*1997年1月 - 教団関連会社とされる株式会社なあぷるが設立される。設立には(元)信者が関わっていた。なあぷるでは別名義にて書籍を執筆。
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*1998年12月 - 最初の著作『サイバースペースからの挑戦状』を雷韻出版から発行。
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*1999年5月 - 『サイバースペースからの攻撃』を雷韻出版から発行。
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*2000年4月 - 上祐史浩からの誘いに応じ、宗教団体アレフに復帰。
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*2000年9月 - 教団活動に専念するため、事情を明かさないままサイト『Der Angriff』を常連閲覧者数名に呼びかけて譲渡する作業をはじめた。
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*2000年10月23日 - 『Der Angriff』一部コンテンツを閉鎖したところ、信者であると暴露され、全サイトを閉鎖。これをもって河上イチロー名義での活動を終了。10月30日、 9月中に行われていたサイバッチによるオウムとの関係についての独占インタビューが公表された。
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*2000年11月9日 - 週刊新潮11月16日号に『オウム出家信者が主催者だった「紀宮様ホームページ」』が掲載された。本人コメントを含む記事。
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*2001年8月 - 上祐史浩の書籍を発行するための出版社である東山出版が設立され、代表取締役社長に就任する。
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*2001年10月3日 - 宗教団体アレフの出家信者として、ムッタ・デーヴァ名義で個人サイト『サイト・半跏思惟』を開設。
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*2003年1月11日 - サイトの更新停止。その後サイトは閉鎖される。
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*2003年6月 - このころ反上祐派に転じたという。
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*2003年9月9日 - 松永英明名義でブログ『ウェブログ@ことのは』開設。以降の対外活動は全て松永名義。ライターとしての活動を開始する。
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*2003年12月 - Blog of the Yeah!2003 アーティクル部門3位受賞。
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*2004年5月3日 - 『絵文録ことのは』に改名。
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*2005年2月7日 - アルファブロガー・セカンドチームに選出。
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*2005年10月31日 - 民主党のブロガー懇談会に出席。後にこの行為は、アーレフ現役出家信者の政治への接触として波紋を呼び、ネットの一部で議論されるようになる(いわゆる「ことのは騒動」と呼ばれる)
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*2006年2月1日 - 宗教団体アーレフに脱会の意図を伝えた上で、烏山の教団住居から転居。後に、本人はこの時点をもって脱会したとの認識を示している。
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*2006年3月7日 - FLASH3月21日号に野田敬生による『オウム信者が民主党に「宣伝戦略」を指南!』が掲載されるも、同日自民党の懇談会に出席。
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*2006年3月13日 - 過去の経歴を認めると同時に、松永名義の活動はオウム真理教とは関係ないとの釈明を行った。
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*2006年4月 - 東山出版(教団関連会社)社長の退任手続きが完了。
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*2006年4月25日 - 結核を原因とする腸腰筋膿瘍の手術のため、九段坂病院に入院。
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*2006年5月15日 - 本人によれば、この日の前後に宗教団体アーレフから公安調査庁に提出された活動報告書(4月30日時点での内容)において氏名が削除されているとのことである。本人は、「この事実」をもって公的な文書において脱会が確定したとの認識を示した。
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*2006年9月5日 - 退院。
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*2007年2月 - 一部ブログとのトラブルにより、鬱に陥り、自殺未遂騒動を起こす。ここには滝本太郎弁護士も救援に駆けつけた。その後、2008年6月に至るまでブログ活動が休止される。
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*2007年8月16日 - 「漫画実話ナックルズ」(10月号vol.55 ミリオン出版)に、シガチョフ事件を題材にとった「元信者が激白する!!オウム公安が爆破テロを阻止した日」掲載。松永は原作と記事を担当。「教団を脱会したライター」として、主人公として登場している。
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*2007年8月31日 - 『ワールド・インテリジェンス』vol.8(『軍事研究』2007年9月号別冊)に、河上イチロー時代の情報収集方法等に関するインタビュー記事が掲載された。最後に軍事・諜報分野への復帰について現在考えていないことを表明した。なお、河上イチローの名義が使われているのは、記事の性質上、「本人」がインタビューに答えたことを明らかにするためであり、河上イチロー名義での活動を復活させたというわけではない。
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*2008年6月20日 - ブログ記事が2006年度の県立長崎シーボルト大学と2007年度の金城学院大学(現代文化学部情報文化学科・一般公募制推薦入試小論文)の入試問題に採用されたことを発表[11]。
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*2008年6月24日 - 本人ブログにおいて、滝本太郎弁護士を差出人とし、アレフA派、アレフ中間派、ひかりの輪、およびオウム真理教破産管財人を宛先とする、「2006年2月 1日頃既に脱会している」「今後とも、オウム真理教の教え、ないし麻原彰晃こと松本智津夫に帰依や観想したりまたその分派に入るものではないし、自ら分派とすることも所謂「一人オウム」であることもない」旨の脱会確認通知書が公開された。通知書の日付は2008年6月23日となっている[12]。
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*2008年9月 - まぐまぐより有料メールマガジン「「場所の記憶」「都市の歴史」で社会を読み解く――松永英明のゲニウス・ロキ探索」を発行開始。
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*2010年9月 - メールマガジンを無料化し、「松永英明のゲニウス・ロキ探索――「場所の記憶」「都市の歴史」を歩く、考える」に改称。
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*2011年3月 - 放送大学(教養学部)卒業。
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==著作==
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;河上イチロー名義
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*サイバースペースからの挑戦状(1998年、雷韻出版)
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*サイバースペースからの攻撃(1999年、雷韻出版)
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その他、宮崎学『対談集「反・市民」講座?資本主義を生き抜く行動学 』(2000年、リトル・モア)に宮崎学との対談が収録されている。
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;松永英明名義
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*新選組の謎を斬る(一部執筆)
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*ウェブログ超入門!(2004年)
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*はてなの本(共著)
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*「パクリ・盗作」スキャンダル読本(一部執筆)
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*「へんな会社のつくり方」(共著)
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*できる100ワザ ブログ(共著)
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*Web 2.0 キーワードブック(一部執筆)
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*SNSの研究(一部執筆)
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*Movable Type WEBデザインの新しいルール(共著)
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*できる100ワザ ブログ 改訂版(共著)
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==翻訳==
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*「意志」と「人生」の法則(2004年、ジェームズ・アレン)
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*「思考」が運命を変える(2004年、ジェームズ・アレン)
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*最高にすてきな人生(2004年、ジェームズ・アレン)
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*幸せと成功への扉(2004年、ジェームズ・アレン)
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*幸福に通じるひそやかな道(2005年、ジェームズ・アレン)
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*お金持ちになる科学(2005年、ウォレス・D・ワトルズ)
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その外、ジェームズ・アレン著作数冊の編集協力を担当。
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==ムック・雑誌等への寄稿==
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;みんなのブログ
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*ユリイカ(「ブログ作法」「文科系女子カタログ」)
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;連載誌
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*ASCII dotPC(『な?るほどねぇ人物伝』、『な?るほどねぇ報道局』担当、連載終了)
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;その他
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*女子十二楽坊ファンクラブ会報に記事を掲載し、全米デビューアルバムのライナーノーツ原文を担当した。
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==脚注==
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^ 松永英明 (2011年4月5日). “放送大学を卒業しました。/社会人が大学で生涯学び続けるということ・絵文録ことのは”. 2011年4月5日閲覧。
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^ a b c 佐々木俊尚 『フラット革命』 講談社、2007年、p.213-281。ISBN 978-4-06-213659-4。
 +
^ "軍事/諜報サイトの元祖『デア・アングリッフ』謎の主宰者「河上イチロー」が当時を語る"、『ワールド・インテリジェンス』vol.8(『軍事研究』2007年9月号別冊)、ジャパン・ミリタリー・レビュー、2007年8月31日
 +
^ “設置場所ネットに流す 広域犯罪捜査に威力 ナンバー読み取り装置”. 朝日新聞. (1998年7月29日)
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^ 河上イチロー 『サイバースペースからの挑戦状』 雷韻出版、1998年。
 +
^ 河上イチロー 『サイバースペースからの攻撃』 雷韻出版、1999年。
 +
^ 野田敬生『オウム信者が民主党に「宣伝戦略」を指南!』、FLASH3月21日号、光文社、2006年3月4日
 +
^ 松永英明 (2006年3月13日). “一連の疑惑について”. 2008年6月28日閲覧。
 +
^ 歌田明弘『われわれはみな「隠れオウム」の容疑者』、「仮想報道」vol.436、週刊アスキー6/13号、アスキー、2006年5月30日発行
 +
^ 歌田明弘『われわれがオウム事件で忘れていること』「仮想報道」vol.437、週刊アスキー6/20号、アスキー、2006年6月6日発行
 +
^ 松永英明 (2008年6月20日). “(本当に)試験に出るブログ・絵文録ことのは”. 2008年8月2日閲覧。
 +
^ 松永英明 (2008年6月24日). “脱会確認通知書”. 2008年7月1日閲覧。
  
 
==外部リンク==
 
==外部リンク==
*絵文録ことのは
+
 
**http://www.kotono8.com/
+
絵文録ことのは
*備忘録ことのはインフォーマル
+
http://www.kotono8.com/
**http://d.hatena.ne.jp/matsunaga/
+
 
*松永英明さんへインタビュー(1)(Grip Blog)
+
備忘録ことのはインフォーマル
**http://gripblog.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/__b8d1.html
+
http://d.hatena.ne.jp/matsunaga/
*半跏思惟  
+
 
**http://web.archive.org/web/20050310021015/http://deva.aleph.to/
+
松永英明さんへインタビュー(1)(Grip Blog)
**http://web.archive.org/web/20031001204344/deva.aleph.to/profile.html
+
http://gripblog.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/__b8d1.html
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半跏思惟  
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http://web.archive.org/web/20050310021015/http://deva.aleph.to/
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http://web.archive.org/web/20031001204344/deva.aleph.to/profile.html
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オウム・アレフ(アーレフ)の物語
 
オウム・アレフ(アーレフ)の物語
**http://web.archive.org/web/20060826143540/http://aum-aleph.g.hatena.ne.jp/matsunaga/20060317  
+
http://web.archive.org/web/20060826143540/http://aum-aleph.g.hatena.ne.jp/matsunaga/20060317  
*Der Angriff
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**http://web.archive.org/web/20000817013800/http://www2.baynet.or.jp/~aasasaa/
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Der Angriff
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http://web.archive.org/web/20000817013800/http://www2.baynet.or.jp/~aasasaa/
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{{DEFAULTSORT:まつなか ひてあき}}
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[[Category:ブロガー]]
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[[Category:1969年生]]

2018年11月30日 (金) 20:42時点における最新版

松永 英明(まつなが ひであき、1969年 - )は、日本のライター、文士、事物起源探究家。『絵文録ことのは』を初めとする一連のブログ群の日本のブロガー。京都大学文学部(言語学専攻)中退、放送大学教養学部卒業[1]。

2003年から、松永英明のペンネームで、ライターとしての活動と共にブログを運営。1996年から2000年までの間は河上イチローのペンネームでウェブサイトを運営し、ライターとしての活動もあった。

概要[編集]

京都大学文学部在学中にノベルズ編集者と知り合い、書いた小説をその編集者に見せていたという。本人はそのうち小説を出版できるのではないかとする手応えを感じていたが、オウム真理教に入信し、出家する道を選んだことからノベルズ編集者と連絡を取ることはなくなり、小説を出版することはなかった。(佐々木俊尚の取材に対して本人が語ったところによる)[2]

松本・地下鉄サリン事件のときには、オウム第一上九・第5サティアンにいて「郵政省出版」に属し、新雑誌「ヴァジラヤーナ・サッチャ」の創刊の準備をしていた。

オウム真理教を一時脱会した1996年以降、河上イチローのペンネームで、自前コンテンツと電子掲示板から構成される破防法問題、通信傍受法案、軍事・諜報関連やネットの規制問題やマスメディア批判をはじめとして幅広いジャンルの話題を扱ったサイト『Der Angriff』(デア・アングリフにちなむ)を開設した[2][3]。Nシステムについてのウェブページが朝日新聞の社会面で取り上げられ[4]、「紀宮清子内親王殿下の御座所」のページが週刊誌等で報道されるほどの知名度を元にして、当時の個人サイトを中心としたネット文化の魅力を紹介する書籍を著した[5][6]。

オウム真理教が名称変更したアレフへ2000年に復帰して以降、河上イチローとしての活動を終息させた。アーレフへ復帰後は、教団公認の個人サイト「半跏思惟」を開設すると共に、教団関連会社である東山出版の代表取締役社長も務めた。

松永英明のペンネームでは2003年に文筆業を開始した。ブログツールを使用したウェブサイトであることのは編集室を開設したのち、ブロガーとして認知されるようになった。ブログ記事において、また執筆活動を通じて、多くのブログ入門記事を書いていった。やがて、松永はブログ関連書籍の著者として著名になっていった。その執筆活動は、ブログをはじめとするウェブ関連のほか、ジェームズ・アレンをはじめとする成功哲学関連の翻訳、その他女子十二楽坊関連を中心とした音楽関連など幅広いジャンルに及ぶ。ブロガーとしては、文化圏をキーワードとしたウェブ社会の考察や独自レポートなどを多く書いている。 2005年2月に、松永はアルファブロガー・セカンドチームに選出され、2005年10月には民主党のブロガー懇談会に出席するなど著名なブロガーとして知られることとなった。

2006年3月4日に、オウム真理教及びアーレフの信者としての過去がブログと写真週刊誌で報道された[7]。写真週刊誌の記事は「オウム真理教の現役信者であるMが民主党の宣伝戦略を指南していた」とするものであった。これをうけて、松永は、民主党のブロガー懇談会に出席した時点で教団の信者であったことを含む教団の信者としての経歴について大筋で認めた上で、報道時点ではすでに教団を離れているとし、松永英明名義で行っている活動はオウム真理教とは関係させないように行ってきたとの釈明を行った[8]。なお、暴露に至るきっかけとなったとされるきっこの正体探しとの関係では、きっことの関係を完全に否定した。また、写真週刊誌での報道の当日に開かれた自民党の懇談会に参加しており、民主党の宣伝指南役という報道の趣旨についても否定した。

本人が上記の事項を認めたことをうけて、オウム真理教の信者が主要政党主催の懇談会に参加していたことや、ブロガーの泉あいがブロガージャーナリズムを基盤とした報道機関設立構想について松永に助言を求めていたことをめぐり、インターネット上で議論が行われた[9][10]。この件に関しては、歌田明弘により週刊誌コラムで取り上げられた。この論争のなかで、前記の報道機関設立構想は立ち消えとなった。一連の論争(通称ことのは事件)はその後、佐々木俊尚の著書の一部として纏められた[2]。

論争と並行して、松永は過去に対立していた滝本太郎弁護士とも会って脱会についてのアドバイスを受け、2006年6月までには正式な退会届の提出や教団関連会社である東山出版社長の退任手続きを行った。本人は、「公安調査庁に提出される教団からの活動報告から完全に名前が削除されていることで公的に証明されている」との認識を示し、「この活動報告は、虚偽があれば教団の活動停止処分等につながる重大なものであり、信憑性は極めて高い。」との認識も併せて示した。また、2006年4月末から4ヵ月間、松永は病気療養のため長期入院となり、論争からは退いた形となった。

2007年2月にブログの更新を一時休止。2007年8月、複数の雑誌においてオウム真理教の元信者であったことや河上イチローのペンネームを使用していたことを明示した記事等が発表された。

2008年6月、ブログの更新が再開され、松永英明のペンネームにより活動を継続することが宣言された。また、ブログ上で滝本太郎弁護士に依頼してオウム真理教3派に対して脱会確認通知書を送付したことを発表した。

2008年9月から、まぐまぐより有料メールマガジン「「場所の記憶」「都市の歴史」で社会を読み解く――松永英明のゲニウス・ロキ探索」を発行していたが、2010年9月に無料化し、タイトルも「松永英明のゲニウス・ロキ探索――「場所の記憶」「都市の歴史」を歩く、考える」に変更した。

経歴[編集]

  • 1969年2月 - 奈良県斑鳩町に生まれる。
  • 1988年4月 - 京都大学文学部入学。
  • 1991年12月 - 京都大学文学部在学中にオウム真理教に入信。翌1992年5月、京都大学を中退し、オウム真理教に出家。
  • 1994年 - オウム真理教で省庁制が採用され、教団の「郵政省」出版部に配属される。「ヴァジラヤーナ・サッチャ」等の一般向け教団雑誌の記事を執筆。また、ホーリーネーム「カーマ・アニッチャ・パンニャッタ・パンニャーヤ・ムッタ・デーヴァ」を授与され、「サマナ長」のステージに認定される。
  • 1995年3月 - 地下鉄サリン事件。強制捜査の時点で第5サティアンにいたという。
  • 1995年9月 - オウム真理教を一時脱会。脱会届も提出したとされる。その後、ライターとして活動。
  • 1996年6月1日 - 反破防法サイト「Stop! Stop! 破壊活動防止法」を開設。その後総合情報サイトとして発展し、1997年10月、サイト名を『Der Angriff』に変更した。ペンネームは河上イチロー。
  • 1997年1月 - 教団関連会社とされる株式会社なあぷるが設立される。設立には(元)信者が関わっていた。なあぷるでは別名義にて書籍を執筆。
  • 1998年12月 - 最初の著作『サイバースペースからの挑戦状』を雷韻出版から発行。
  • 1999年5月 - 『サイバースペースからの攻撃』を雷韻出版から発行。
  • 2000年4月 - 上祐史浩からの誘いに応じ、宗教団体アレフに復帰。
  • 2000年9月 - 教団活動に専念するため、事情を明かさないままサイト『Der Angriff』を常連閲覧者数名に呼びかけて譲渡する作業をはじめた。
  • 2000年10月23日 - 『Der Angriff』一部コンテンツを閉鎖したところ、信者であると暴露され、全サイトを閉鎖。これをもって河上イチロー名義での活動を終了。10月30日、 9月中に行われていたサイバッチによるオウムとの関係についての独占インタビューが公表された。
  • 2000年11月9日 - 週刊新潮11月16日号に『オウム出家信者が主催者だった「紀宮様ホームページ」』が掲載された。本人コメントを含む記事。
  • 2001年8月 - 上祐史浩の書籍を発行するための出版社である東山出版が設立され、代表取締役社長に就任する。
  • 2001年10月3日 - 宗教団体アレフの出家信者として、ムッタ・デーヴァ名義で個人サイト『サイト・半跏思惟』を開設。
  • 2003年1月11日 - サイトの更新停止。その後サイトは閉鎖される。
  • 2003年6月 - このころ反上祐派に転じたという。
  • 2003年9月9日 - 松永英明名義でブログ『ウェブログ@ことのは』開設。以降の対外活動は全て松永名義。ライターとしての活動を開始する。
  • 2003年12月 - Blog of the Yeah!2003 アーティクル部門3位受賞。
  • 2004年5月3日 - 『絵文録ことのは』に改名。
  • 2005年2月7日 - アルファブロガー・セカンドチームに選出。
  • 2005年10月31日 - 民主党のブロガー懇談会に出席。後にこの行為は、アーレフ現役出家信者の政治への接触として波紋を呼び、ネットの一部で議論されるようになる(いわゆる「ことのは騒動」と呼ばれる)
  • 2006年2月1日 - 宗教団体アーレフに脱会の意図を伝えた上で、烏山の教団住居から転居。後に、本人はこの時点をもって脱会したとの認識を示している。
  • 2006年3月7日 - FLASH3月21日号に野田敬生による『オウム信者が民主党に「宣伝戦略」を指南!』が掲載されるも、同日自民党の懇談会に出席。
  • 2006年3月13日 - 過去の経歴を認めると同時に、松永名義の活動はオウム真理教とは関係ないとの釈明を行った。
  • 2006年4月 - 東山出版(教団関連会社)社長の退任手続きが完了。
  • 2006年4月25日 - 結核を原因とする腸腰筋膿瘍の手術のため、九段坂病院に入院。
  • 2006年5月15日 - 本人によれば、この日の前後に宗教団体アーレフから公安調査庁に提出された活動報告書(4月30日時点での内容)において氏名が削除されているとのことである。本人は、「この事実」をもって公的な文書において脱会が確定したとの認識を示した。
  • 2006年9月5日 - 退院。
  • 2007年2月 - 一部ブログとのトラブルにより、鬱に陥り、自殺未遂騒動を起こす。ここには滝本太郎弁護士も救援に駆けつけた。その後、2008年6月に至るまでブログ活動が休止される。
  • 2007年8月16日 - 「漫画実話ナックルズ」(10月号vol.55 ミリオン出版)に、シガチョフ事件を題材にとった「元信者が激白する!!オウム公安が爆破テロを阻止した日」掲載。松永は原作と記事を担当。「教団を脱会したライター」として、主人公として登場している。
  • 2007年8月31日 - 『ワールド・インテリジェンス』vol.8(『軍事研究』2007年9月号別冊)に、河上イチロー時代の情報収集方法等に関するインタビュー記事が掲載された。最後に軍事・諜報分野への復帰について現在考えていないことを表明した。なお、河上イチローの名義が使われているのは、記事の性質上、「本人」がインタビューに答えたことを明らかにするためであり、河上イチロー名義での活動を復活させたというわけではない。
  • 2008年6月20日 - ブログ記事が2006年度の県立長崎シーボルト大学と2007年度の金城学院大学(現代文化学部情報文化学科・一般公募制推薦入試小論文)の入試問題に採用されたことを発表[11]。
  • 2008年6月24日 - 本人ブログにおいて、滝本太郎弁護士を差出人とし、アレフA派、アレフ中間派、ひかりの輪、およびオウム真理教破産管財人を宛先とする、「2006年2月 1日頃既に脱会している」「今後とも、オウム真理教の教え、ないし麻原彰晃こと松本智津夫に帰依や観想したりまたその分派に入るものではないし、自ら分派とすることも所謂「一人オウム」であることもない」旨の脱会確認通知書が公開された。通知書の日付は2008年6月23日となっている[12]。
  • 2008年9月 - まぐまぐより有料メールマガジン「「場所の記憶」「都市の歴史」で社会を読み解く――松永英明のゲニウス・ロキ探索」を発行開始。
  • 2010年9月 - メールマガジンを無料化し、「松永英明のゲニウス・ロキ探索――「場所の記憶」「都市の歴史」を歩く、考える」に改称。
  • 2011年3月 - 放送大学(教養学部)卒業。

著作[編集]

河上イチロー名義
  • サイバースペースからの挑戦状(1998年、雷韻出版)
  • サイバースペースからの攻撃(1999年、雷韻出版)

その他、宮崎学『対談集「反・市民」講座?資本主義を生き抜く行動学 』(2000年、リトル・モア)に宮崎学との対談が収録されている。

松永英明名義
  • 新選組の謎を斬る(一部執筆)
  • ウェブログ超入門!(2004年)
  • はてなの本(共著)
  • 「パクリ・盗作」スキャンダル読本(一部執筆)
  • 「へんな会社のつくり方」(共著)
  • できる100ワザ ブログ(共著)
  • Web 2.0 キーワードブック(一部執筆)
  • SNSの研究(一部執筆)
  • Movable Type WEBデザインの新しいルール(共著)
  • できる100ワザ ブログ 改訂版(共著)

翻訳[編集]

  • 「意志」と「人生」の法則(2004年、ジェームズ・アレン)
  • 「思考」が運命を変える(2004年、ジェームズ・アレン)
  • 最高にすてきな人生(2004年、ジェームズ・アレン)
  • 幸せと成功への扉(2004年、ジェームズ・アレン)
  • 幸福に通じるひそやかな道(2005年、ジェームズ・アレン)
  • お金持ちになる科学(2005年、ウォレス・D・ワトルズ)

その外、ジェームズ・アレン著作数冊の編集協力を担当。

ムック・雑誌等への寄稿[編集]

みんなのブログ
  • ユリイカ(「ブログ作法」「文科系女子カタログ」)
連載誌
  • ASCII dotPC(『な?るほどねぇ人物伝』、『な?るほどねぇ報道局』担当、連載終了)
その他
  • 女子十二楽坊ファンクラブ会報に記事を掲載し、全米デビューアルバムのライナーノーツ原文を担当した。

脚注[編集]

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^ 松永英明 (2011年4月5日). “放送大学を卒業しました。/社会人が大学で生涯学び続けるということ・絵文録ことのは”. 2011年4月5日閲覧。 ^ a b c 佐々木俊尚 『フラット革命』 講談社、2007年、p.213-281。ISBN 978-4-06-213659-4。 ^ "軍事/諜報サイトの元祖『デア・アングリッフ』謎の主宰者「河上イチロー」が当時を語る"、『ワールド・インテリジェンス』vol.8(『軍事研究』2007年9月号別冊)、ジャパン・ミリタリー・レビュー、2007年8月31日 ^ “設置場所ネットに流す 広域犯罪捜査に威力 ナンバー読み取り装置”. 朝日新聞. (1998年7月29日) ^ 河上イチロー 『サイバースペースからの挑戦状』 雷韻出版、1998年。 ^ 河上イチロー 『サイバースペースからの攻撃』 雷韻出版、1999年。 ^ 野田敬生『オウム信者が民主党に「宣伝戦略」を指南!』、FLASH3月21日号、光文社、2006年3月4日 ^ 松永英明 (2006年3月13日). “一連の疑惑について”. 2008年6月28日閲覧。 ^ 歌田明弘『われわれはみな「隠れオウム」の容疑者』、「仮想報道」vol.436、週刊アスキー6/13号、アスキー、2006年5月30日発行 ^ 歌田明弘『われわれがオウム事件で忘れていること』「仮想報道」vol.437、週刊アスキー6/20号、アスキー、2006年6月6日発行 ^ 松永英明 (2008年6月20日). “(本当に)試験に出るブログ・絵文録ことのは”. 2008年8月2日閲覧。 ^ 松永英明 (2008年6月24日). “脱会確認通知書”. 2008年7月1日閲覧。

外部リンク[編集]

絵文録ことのは http://www.kotono8.com/

備忘録ことのはインフォーマル http://d.hatena.ne.jp/matsunaga/

松永英明さんへインタビュー(1)(Grip Blog) http://gripblog.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/__b8d1.html

半跏思惟 http://web.archive.org/web/20050310021015/http://deva.aleph.to/ http://web.archive.org/web/20031001204344/deva.aleph.to/profile.html

オウム・アレフ(アーレフ)の物語 http://web.archive.org/web/20060826143540/http://aum-aleph.g.hatena.ne.jp/matsunaga/20060317

Der Angriff http://web.archive.org/web/20000817013800/http://www2.baynet.or.jp/~aasasaa/