ウラジーミル・プーチン

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[[Image:プーチン2.jpg|300px|thumb|プーチン]] [[Image:プーチン3.jpg|300px|thumb|プーチン]] [[Image:プーチン4.jpg|300px|thumb|プーチン]] [[Image:プーチン5.jpg|300px|thumb|プーチン]] '''ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン'''、[[1952年]][[10月7日]] - )は、[[ロシア|ロシア連邦]]の[[政治家]]。第2代[[ロシア連邦大統領]](在任[[2000年]] - [[2008年]])。第5代および第9代[[ロシアの首相|政府議長(首相)]]、[[統一ロシア]]党首([[2008年]]より)。'''[[ベラルーシ・ロシア連合国家]]'''(正式名称は「'''連合国家'''」)の[[閣僚評議会議長 (ベラルーシ・ロシア連合国家)|閣僚評議会議長]](首相)。[[サンクトペテルブルク]]の副市長を務めたこともある。 == 概説 == [[学歴|最終学歴]]は[[サンクトペテルブルク大学|レニングラード大学]][[法学部]]卒業。[[学位]]は[[学士|法学士]]([[サンクトペテルブルク大学]])、経済学博士候補([[1997年]]、ただし、ロシアにおける「博士候補」は欧米諸国の「博士(Ph.D.)」に相当する)。[[軍隊における階級呼称一覧|階級]]は予備役[[大佐]]。 [[柔道家]]でもあり、[[段級位制|段位]]は柔道五段(来日時に柔道六段を[[講道館]]柔道において贈られるも辞退。詳細は後述)。[[称号]]は、[[サンボ (格闘技)|サンボ]]と[[柔道]]のロシア連邦[[スポーツマスター]]。[[2005年]]12月より[[ヨーロッパ柔道連盟]]名誉会長を務める。 [[1999年]][[12月31日]]の[[ボリス・エリツィン]]の大統領辞任により大統領代行を務めたのち、[[2000年ロシア大統領選挙]]に勝利して正式に大統領に就任する。[[2004年ロシア大統領選挙|2004年の大統領選挙]]では再選を果たし、2008年[[5月7日]]まで大統領を務める。そして後任の大統領である[[ドミトリー・メドヴェージェフ]]の指名により同月8日に首相に就任した。 8年間のプーチン政権でロシア経済は危機を脱して大きく成長し、ロシア社会から高い支持と評価を受けている。実際、[[国内総生産]](GDP)は6倍に増大([[購買力平価説]]では72%)し、貧困は半分以下に減り、平均月給が80[[ドル]]から640ドルに増加し、実質GDPが150%になった。 その一方で、[[第二次チェチェン紛争]]での[[人権蹂躙|人権侵害]]などにより、ロシア国外の政府や[[人権団体]]からロシアの[[人権]]と[[自由]]について追及されている。またロシア経済についても、[[ウラジーミル・ヤクーニン]]のような[[:en:Political groups during Vladimir Putin's presidency|プーチンと親密な関係にある人物たち]]による統制がマスメディアの取材で明らかになっている。こうした統制は、[[ボリス・ネムツォフ]]らプーチン政権の反対派によって厳しく批判されている。 == 出自 == [[ファイル:Vladimir Putin as a child.jpg|thumb|right|140px|少年時代のプーチン]] [[ファイル:Spiridon Putin.jpg|thumb|left|140px|祖父スピリドン]] [[1952年]][[10月7日]]、レニングラードにて、父ウラジーミル・スピリドノヴィチ・プーチン([[1911年]] - 1999年)と母マリア・イワーノヴナ・シェロモーワ(1911年 - [[1998年]])とのあいだに生まれる。母は工場などで働いていた。父は[[ロシア海軍|ソ連海軍]]に徴兵され、[[1930年代]]には潜水艦隊に配属となり、[[第二次世界大戦]]では[[内務人民委員部]](NKVD)の破壊工作部隊に所属し、[[独ソ戦]](大祖国戦争)で[[傷痍軍人]]となった。戦後は機械技師としてレニングラードの鉄道車両工場で働いた。2人の兄は、いずれもプーチンが生まれる前の1930年代に死亡(1人目は幼くして、2人目は[[レニングラード包囲戦]]のあいだに[[ジフテリア]]で死亡)していたため、プーチンは一人っ子として育つ。プーチンの父方の[[祖父]]であるスピリドン・イワノヴィチ・プーチン([[1879年]]{{ndash}}[[1965年]])はプロの[[料理人]]であり、[[ヨシフ・スターリン]]の[[ダーチャ]](別荘)の1つにて給仕しており、それ以前は[[ウラジーミル・レーニン]]に仕えていた。 プーチンは自伝で少年時代を振り返り、家庭環境はあまり裕福でなく、少年時代はレニングラードの共同アパートで過ごしたと語っている。[[1960年]][[9月1日]]に共同アパートと同じ通りにある第193小学校に通い始める。小学生だったプーチンに[[ドイツ語]]を教えていた教師によると、プーチンは母親似であるが、頑固で勤勉な性格は父親から受け継いでいたという。また、記憶力は抜群で頭の回転も速かったが、問題児で悪ふざけを繰り返していたと証言している。プーチン自身も後に幼少時代は相当な悪童であったと告白している。しかし6年生になると変化し、成績も上がり、[[ピオネール]]入団も許可された。この頃にはサンボと柔道も始めている。小学校卒業後、プーチンは[[化学]]の中等専門学校に入学した。 == KGB時代 == [[ファイル:Vladimir Putin with parents in 1985.jpg|200px|thumb|[[1985年]]、[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]に出発する前に。父ウラジーミル・スピリドノヴィチ、母マリア・イヴァーノヴナと]] やがてプーチンは映画や小説から[[スパイ]]に憧れを抱き、[[ソ連国家保安委員会]](KGB)への就職を考えるようになる。14才の9年生(日本でいう中学3年生)の時に彼はKGB支部を訪問し、応対した職員にどうすればKGBに就職できるのか質問した。職員は少年の質問にきわめて真率に対応し、KGBは自ら志願してきた者を絶対に採用しないため、今後は自分からKGBにコンタクトしてはならないこと、[[大学]]の専攻は[[法学部]]が有利であること、言動や思想的な問題点があってはならないこと、スポーツの実績は対象者の選考で有利に働くことなどの現実的な助言を与えた。プーチン少年は以後そのアドバイスを忠実に守り、柔道に打ち込み、[[サンクトペテルブルク大学|レニングラード大学]]では法学部を選択し、在学中も自分からはKGBに接触しなかった。そして大学4年生のときにKGBからのリクルートを受け、プーチンは[[1975年]]に同大学を卒業後、KGBへ就職する。KGBでの任務は、[[諜報]]・[[防諜]]・国内治安対策・思想統制のほか、[[国境警備隊]]による国境警備と[[通関業務]]、旅券発行および外国人の旅券紛失証明に関する事務手続きといった、一般にイメージされる諜報機関よりも業務は幅広い。法学部の需要があるとはいえ、必ずしも法学部優先とは限らない。また、情報工作員に関してはリクルートの段階から秘密裏に行っており、細部は不明であるということを付け加える。。 KGBでは、最初にレニングラード支部事務局、その後訓練を経て対諜報活動局に配属される。それからさらなる研修を受けた後、第1総局(対外諜報部)レニングラード支部に勤務する。そして外国で[[諜報活動]]を行うために[[対外情報アカデミー|KGB赤旗大学]]で学び、[[1985年]]に[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の[[ドレスデン]]へと派遣される。東ドイツには[[1990年]]まで滞在し、政治関係の情報を集める諜報活動に従事したとプーチン自身は語っている。しかし[[ドイツ再統一|東西ドイツ統一]]によりレニングラードに戻り、母校のレニングラード大学に学長補佐官として勤務することになった。このころに、大学生の頃に教わっていた[[アナトリー・サプチャーク]]と懇意になる。 == 政界へ == [[Image:プーチン6.jpg|300px|thumb|プーチン]] 1990年、プーチンはKGBに辞表を提出し、レニングラード市[[ソビエト]]議長だったサプチャークの国際関係担当顧問となった。[[1991年]][[6月]]にサプチャークがレニングラード(同年[[11月]]にサンクトペテルブルクに名称を変更)市長に当選すると、対外関係委員会議長に就任する。その後、[[1992年]]にサプチャークによりサンクトペテルブルク市副市長、[[1994年]][[3月]]にサンクトペテルブルク市第一副市長に任命された。サンクトペテルブルク市の職員としてプーチンは外国企業誘致を行い外国からの投資の促進に努めた。またサプチャークの下で陰の実力者として活躍したため、「灰色の[[枢機卿]]」と呼ばれた(ロシアでは、[[ゲンナジー・ブルブリス]]など陰の実力者に対し、このようなあだ名が付けられることがある)。 [[1996年]]にサプチャークがサンクトペテルブルク市長選挙で[[ウラジーミル・ヤコブレフ]]に敗れて退陣すると、プーチンはそれに伴い第一副市長を辞職する。ヤコブレフによる慰留もあったが、結局はそれを拒否した。その後、[[ロシア大統領府]]総務局長の[[パーヴェル・ボロジン]]による抜擢で([[アナトリー・チュバイス]]説もある)ロシア大統領府総務局次長として[[モスクワ]]に異動した。プーチンはこの職に就任して法務とロシアの保有する海外資産の管理を担当した。[[1997年]]3月にはロシア大統領府副長官兼監督総局長に就任した。 1997年6月、プーチンは[[サンクトペテルブルク国立鉱山大学]]に「市場経済移行期における地域資源の戦略的計画」という論文を提出し、経済科学準博士の学位を得る。この論文の内容は、「豊富な資源を国家管理下におき、ロシアの内外政策に利用する」というものだった(この論文に関しては、[[2007年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の学者が盗作説を主張するも、その後立ち消えとなる)。 1998年[[5月]]にプーチンはロシア大統領府第一副長官に就任した。ここでは地方行政を担当し、地方の[[知事]]との連絡役を務めたが、後にプーチンはこの職務を「一番面白い仕事だった」と振り返っている。同年[[7月]]にはKGBの後身である[[ロシア連邦保安庁]](FSB)の長官に就任。この時、ボリス・エリツィン大統領(当時)の[[資金洗浄|マネーロンダリング]]疑惑を捜査していた[[ユーリ・スクラトフ]]検事総長を女性スキャンダルで失脚させ、[[ロシアの首相|首相]]だった[[エフゲニー・プリマコフ]]のエリツィン追い落とし[[クーデター]]を未然に防いだ。この功績によりプーチンはエリツィンの信頼を得るようになる。 == 首相職(1999年) == [[ファイル:Vladimir Putin with Boris Yeltsin-2.jpg|thumb|200px|[[1999年]]、大統領代行就任に伴い[[ボリス・エリツィン]](左)からロシア連邦憲法の大統領専用の複写を渡されるプーチン]] プーチンはエリツィンによって1999年[[8月9日]]に第一副首相に任命された(同日[[セルゲイ・ステパーシン]]が首相を解任されたためそのまま首相代行に任命)。この時、エリツィンはプーチンを自身の後継者とすることを表明していた。さらに1週間後の[[8月16日]]には正式に首相に任命される。首相に就任すると[[ロシア高層アパート連続爆破事件]]をきっかけにして勃発した第二次チェチェン紛争の制圧に辣腕をふるい、「強いリーダー」というイメージを高め国民の支持を獲得した。当時、次期大統領選のプーチンの有力な対抗馬として元首相のプリマコフがいたが、同年[[12月19日]]に行われた[[1999年ロシア下院選挙|ロシア下院選挙]]で、プーチンを支持する[[与党]]・「統一」の獲得議席数がプリマコフらによって結党された「[[祖国・全ロシア]]」の議席数を超えて[[ロシア連邦共産党]]に次ぐ第二党となったことにより、プーチンは次期大統領の座にさらに近づいた(後にプリマコフは次期大統領選への出馬を断念した)。そして同年12月31日に健康上の理由で引退を宣言したエリツィンによって大統領代行に指名される。 == 大統領職 == === 1期目(2000年~2004年) === [[ファイル:Vladimir Putin taking the Presidential Oath, 7 May 2000.jpg|thumb|150px|[[2000年]]、大統領就任式典で就任宣誓を行うプーチン(左)。右は前大統領のエリツィン]] 大統領代行となったプーチンが最初に行ったのは、大統領経験者とその一族の生活を保障するという大統領令に署名することだった。これは、エリツィンに不[[逮捕]]・不[[起訴]]特権を与え、エリツィン一族による[[汚職]]やマネーロンダリングの追及をさせず、引退後のエリツィンの安全を確保するものである。 プーチンは2000年の大統領選挙で過半数の得票を受け決選投票なしで当選した。正式に大統領となったプーチンは「強いロシア」の再建を目標とした。まず、地方政府に中央政府の法体系と矛盾した法律を乱発されるなど、地方政府への制御が利かなくなっていたため、プーチンは中央政府の権限を強化する政策を打ち出す。2000年5月、ロシア全土85の地域を7つに分けた[[連邦管区]]を設置し、各地域の知事を大統領全権代表に監督させた。ほかに知事の[[連邦会議 (ロシア)|上院]]議員兼務禁止、大統領への知事解任権付与などの政策を実行した。プーチンはこれらの政策により[[中央集権]]化を推進し、「垂直統治機構」と呼ばれるシステムを確立した。さらに、同年12月に[[ソビエト連邦の国歌]]の歌詞を変えて[[ロシアの国歌|新国歌]]に制定した。これはロシア国民に「強かった時代のロシア(ソ連)」を呼び起こすためだとする意見がある。このような強い指導力は反対派からは「強硬である」と批判されたが、ロシア国民の支持を受けた。 1998年の[[ロシア財政危機|ロシア金融危機]]で打撃を受けた[[経済]]が回復し成長を続けたことも、多くのロシア国民がプーチンを支持する一因となった。経済成長は[[原油価格]]の上昇によるところが大きいが、プーチン政権下でさまざまな経済改革が行われたことも理由として挙げられる。[[所得税]]率を3段階による課税から一律13%の[[フラット・タックス]]制に改革したり、[[法人税]]や[[消費税|付加価値税]](消費税)を引き下げたりするなどの税制改革は、税負担の軽減により、横行していた[[脱税]]を減少させ、国家財政再建に寄与した。また、これらの税制改革や土地売買の自由化など法制度の整備によって外国からの投資を呼び込み、ロシア経済が活性化した。 ==== 財閥との対決 ==== [[ファイル:Vladimir Putin 31 May 2001-2.jpg|thumb|200px|[[2001年]]、オリガルヒの代表格だった[[ミハイル・ホドルコフスキー]](右)と]] エリツィン時代はエリツィンと側近および支持基盤の[[ロシアの新興財閥|新興財閥]]「オリガルヒ」の時代であった。[[エゴール・ガイダル]]、アナトリー・チュバイスの急進的[[資本主義]]化は、急激な価格自由化がハイパー[[インフレーション|インフレ]]を招き、[[年金]]生活者を中心に民衆が大打撃を受けたり、金融危機を招くなどロシア経済の混乱と国民の[[経済格差]]拡大を招いた。このような状況の中で台頭したのは[[国有財産]]であった[[企業]]を資本主義化の過程において廉価で手に入れたオリガルヒである。オリガルヒは莫大な資産を所有した上、国有財産を私物化するようになり、エリツィン[[政権]]との癒着によって政治的影響力を強めていった。こうした癒着は腐敗を生み、オリガルヒの納税回避により国家財政は危機に陥り[[ロシア連邦軍|軍]]の弱体化や金融危機の原因となった[[国債]]乱発を引き起こした。 しかしエリツィンに首相として引立てられたKGB出身のプーチンが大統領になると、プーチンは警察・軍出身者の[[シロヴィキ]]を登用しオリガルヒと対決した。オリガルヒは所有するメディアでプーチンを攻撃したが、プーチンは脱税・横領などの捜査で[[ウラジーミル・グシンスキー]]や[[ミハイル・ホドルコフスキー]]といったオリガルヒを逮捕して制圧。恭順を誓った企業と和解し、恭順企業にメディアを支配させた。プーチンは企業の政治介入を排除し、恭順を誓ったオリガルヒに納税させ国家財政と崩壊寸前だったロシア軍を再建した。そして[[右派連合 (ロシア)|右派連合]]等オリガルヒ系政党を少数派に追いやり、与党・[[統一ロシア]](前述の「統一」と「祖国・全ロシア」が合併して結成)に支持され[[権力]]を確立した。プーチン政権当初に首相を務めた[[ミハイル・カシヤノフ]]など、プーチン政権内のオリガルヒと密接な関係にあるとされた政治家も遠ざけ、代わってシロヴィキやプーチンと同郷のサンクトペテルブルク出身者(サンクト派)を重用した。 === 2期目(2004年~2008年) === [[ファイル:Putin talk 05 09 2005 v2.jpg|thumb|200px|[[2005年]]、[[クレムリン]]にて[[ロシアの首相|首相]](当時)の[[ミハイル・フラトコフ]](左)、[[連邦会議 (ロシア)|上院]]議長の[[セルゲイ・ミロノフ]](右)と]] [[ファイル:Vladimir Putin 9 January 2007-2.jpg|thumb|200px|[[2007年]]、クレムリンにて閣議を行うプーチン]] [[ファイル:Vladimir Putin, Klaus Schwab - World Economic Forum Russia CEO Roundtable 2007.jpg|thumb|200px|2007年、[[世界経済フォーラム]]ロシア[[最高経営責任者|CEO]]円卓会議にて主宰の[[クラウス・シュワブ]](右)と]] [[ファイル:Vladimir Putin 8 February 2008-4.jpg|thumb|200px|[[2008年]]、クレムリンで行われた国家評議会にて「[[2020年]]までの発展戦略」を発表するプーチン]] [[ファイル:Vladimir Putin 2 March 2008-2.jpg|thumb|left|200px|2008年、[[2008年ロシア大統領選挙|大統領選]]に勝利した[[ドミトリー・メドヴェージェフ]](右)とともにロックコンサート会場で支持者の声援を受けるプーチン]] [[ファイル:Vladimir Putin 15 April 2008-2.jpg|thumb|200px|2008年、第9回統一ロシア党大会にて拍手の中で立つプーチン]] プーチンは2期目となる2004年の大統領選挙に70[[%]]以上の圧倒的な得票率で再選した。再選後、同年[[9月]]に[[ベスラン学校占拠事件]]が発生したことから、ロシアの国家統一の必要性を理由として、地方の知事を直接選挙から大統領による任命制に改め、より一層の中央集権化を進め、大統領権限を強化した。 ロシア経済は原油価格の高騰に伴い2期目も実質GDP成長率で年6~8%台の成長([[2004年]]{{ndash}}2007年)を続けた。ただしその多くがエネルギー資源に依存していたため、その経済構造を是正し、より一層の経済発展を達成することを目的として、プーチンは2005年7月に製造業とハイテク産業の拠点とするための[[経済特区]]を設置する連邦法に署名した。それによって同年12月に6箇所の経済特区が設けられた。 また、ロシア政府は2005年に[[国際通貨基金]](IMF)からの債務、[[2006年]]に[[パリクラブ]]からの債務を完済し、ロシア経済は安定して国際的な信用を取り戻した。この対外債務返済に大きく貢献したのが2004年に創設した[[ソブリン・ウエルス・ファンド|政府系ファンド]]の「[[ロシア連邦安定資金|安定化基金]]」である。この基金は原油価格下落のリスクに備えるのを目的とし、原油の輸出[[関税]]と採掘税の税収を原油価格の高いときに基金に繰り入れ、資金を積み立てる構造になっていたが、この基金を利用することにより対外債務が返済された。その後2008年に安定化基金は原資となる税収に天然ガスと石油製品の輸出関税と[[天然ガス]]の採掘税を追加した上で「準備基金」と「国民福祉基金」に分割された。前者は従来のように原油価格下落時の対応を目的とし、後者は年金支払いの補充など国民福祉向上のために使われることを目的としている。 それでも依然として多くのロシア国民(2009年の時点で6人にひとりとも)が最低生活水準を下回る生活をしていることや、[[死亡率]]の高さにより[[人口]]が減少傾向にあることを憂慮し、2005年[[10月]]に「優先的国家プロジェクト」を大統領令によって立ち上げた。これは保健・教育・住宅建設・農業の4分野で改革を行って社会基盤を整備し、生活水準向上を目指す計画である。具体的には、このプロジェクトに沿って、保健分野では子育て支援や医師と看護師の給料増額など、教育分野では新大学の設立や奨学金制度の確立など、住宅分野では[[住宅ローン]]の規模拡大や住宅建設への融資など、農業分野では若い農業専門家に対する住宅の保障などが計画された。このプロジェクトを推進するため、大統領府長官の[[ドミトリー・メドヴェージェフ]]を同年11月に第一副首相に任命した。 しかしプーチン政権の2期目は、経済成長の達成の裏で、その政治手法が強権的・[[独裁]]的だとして欧米諸国から強い非難を浴びることになる。オリガルヒが逮捕・投獄された後にオリガルヒが所有していた天然資源会社を政府の強い影響下に置いたことは大きな波紋を呼んだ。前述のように、[[2003年]]に[[ユコス]]社の社長ミハイル・ホドルコフスキーが逮捕された後、ユコス社は脱税による追徴課税が祟って2006年[[8月1日]]に破産に追い込まれ、2007年[[5月3日]]に資産が競売により国営企業の[[ロスネフチ]]に落札された。だがこのような手法は、オリガルヒに膨大な富が集中したことに対して不満を持っていたロシア国民から支持を受けている。 また、プーチン政権を批判していた人物が次々と不審な死を遂げ、ロシア政府による暗殺説が浮上したことも、欧米諸国にマイナスイメージを持たれる一因になった。2006年10月、反プーチンのロシア人女性[[ジャーナリスト]]の[[アンナ・ポリトコフスカヤ]]が、自宅アパート内にてルスタム・マフムドフによって射殺された。この事件にはロシア政府による何らかの関与があったとする見方がある。一方、プーチンはこの事件を「恐ろしく残酷な犯罪」としたうえで、「犯人が罰せられないことがあってはならない」と述べた。なお、この事件は2008年6月に容疑者4人が起訴され、捜査の終了が発表された。この事件のほか、プーチンを批判して[[イギリス]]に亡命し写真が公開されたKGB・FSBの元職員[[アレクサンドル・リトビネンコ]]が2006年11月に死亡している。死亡原因として、「多量の放射能物質[[ポロニウム]]を食事などに混合されて摂取したため」とイギリス警察が発表し、[[トニー・ブレア]]首相(当時)がロシア政府に対し協議したいと要望した。FSBによる暗殺だとする説も浮上した。イギリス政府内では、ロシア政府による暗殺との見方が強い。イギリス警察当局は、この事件で主犯とされる旧KGB元職員アンドレイ・ルゴボイ容疑者と実業家のドミトリー・コフトゥン容疑者の身柄引き渡しをロシア政府に求めた。ロシア側はこれに対し身柄引き渡しを拒否した。さらに、2007年[[6月21日]]にはイギリスに[[亡命]]したオリガルヒである[[ボリス・ベレゾフスキー]]への暗殺計画が発覚し、その容疑者がロシアに強制送還される事件が起こっている。 ロシアの大統領は連続3選が憲法により禁止されているため、大統領退任後の去就が注目されていたが、2007年10月に開かれた与党・統一ロシアの第8回党大会で、大統領退任後は首相に就任して政界にとどまることに意欲を示した。 同年[[12月2日]]に行われた[[2007年ロシア下院選挙|ロシア下院選挙]]では統一ロシアの[[比例代表]]名簿第1位に記載され、同党の選挙大勝につながった。[[12月10日]]には後継として第一副首相のメドヴェージェフを指名し、[[2008年ロシア大統領選挙|2008年の大統領選挙]]で支持することを表明。2008年[[2月8日]]には「[[2020年]]までの発展戦略」を発表し、大統領退任後も政界にとどまる姿勢を見せた。この中でプーチンはエネルギー資源依存型経済から[[イノベーション]]主導型経済への移行と、そのための人的資本蓄積を教育改革と福祉の充実によって達成する必要性を説いている。同年3月、大統領選挙でプーチンが支持したメドヴェージェフが70%以上の得票を集め大勝した。同年[[4月15日]]の第9回統一ロシア党大会でプーチンは同党の党首に就任することを受諾した。 == 首相職(2008年~現在) == [[ファイル:Vladimir Putin 8 May 2008-1.jpg|thumb|left|200px|2008年、首相承認に先立ち、[[ドゥーマ|連邦議会下院]]で演説を行うプーチン]] [[ファイル:Dmitry Medvedev 12 May 2008-3.jpg|thumb|200px|2008年、メドヴェージェフ、[[第2次ウラジーミル・プーチン内閣|第2次プーチン内閣]]の閣僚たちと]] 2008年5月7日に大統領を退任したが、新しく大統領となったメドヴェージェフによって首相に指名され、翌日[[ドゥーマ|連邦議会下院]]で承認された。承認の前に下院で行った演説では、年金・最低賃金の引き上げや免税、インフレ率の抑制に努め、ロシアが世界有数の国際[[金融センター]]になることを目標にすると発言し、近い将来にロシアがイギリスを凌ぐ経済大国になると予測した。 首相就任によりメドヴェージェフとの[[タンデム体制]]となったが、プーチンは大統領を退いた後も事実上最高権力者として影響力を行使していると見られる。[[5月15日]]には、首相が議長となる「政府幹部会」を設置した。この会には副首相だけでなく大統領が管轄する外相や国防相も参加し、事実上の最高意思決定機関となる。また2000年に制定していた連邦管区大統領全権代表は代表権を失って首相のコンサルタント的な地位になり、さらに大統領による任命制に改められていた地方の知事を国家公務員にして首相の管轄下に置いた。 2008年[[11月5日]]に大統領のメドヴェージェフが年次報告演説を行い、その中で大統領の任期を4年から6年に延長することを提案したため、プーチンの大統領復帰説が流れ始めた。同年[[11月20日]]の第10回統一ロシア党大会では[[世界金融危機 (2007年-)|世界金融危機]]の対応に積極的な姿勢を見せ、[[外貨]]準備や前述の「準備基金」と「国民福祉基金」を利用して景気対策を行うことを提言した。また、「準備基金」からIMFに10億[[ドル]](約950億円)を拠出する意向を示した。このような積極的な姿勢も、プーチンの大統領復帰説を強くする一因となった。プーチンは自身の大統領復帰説に対し、同年[[12月4日]]に行われた市民との[[タウンミーティング]]において、「[[2012年]]になれば分かる」として明言はしなかった。翌2009年には2012年の次期大統領選挙について出馬する最も強く示唆する発言を行い、経済危機にも関わらず、有権者の間ではプーチン首相の人気は絶大で政界に君臨し続けている。次期大統領の任期は6年となったため、2012年に就任すれば2024年まで就任が可能となる。 2010年1月30日、[[カリーニングラード]]にて、10,000人の市民が抗議集会を行った。 彼らは、「プーチンと彼の政府は違法行為と虚偽で出来ている」と主張した。この抗議には様々な団体が参加しており(多くの団体の旗が掲げられた)、「[[連帯 (ロシア)|連帯]]」、「[[ヤブロコ]]」、「[[ロシア連邦共産党]]」、「[[ロシア自由民主党]]」などが抗議に参加した。 [[2010年]][[12月17日]]、プーチンは[[2015年]]までにロシア政府が使用するコンピュータのソフトウェア([[オペレーティングシステム|OS]]を含む)を、[[フリーソフトウェア]]に置換するよう命じた。コンピュータのソフトウェアをアメリカの企業である[[マイクロソフト]]に依存している現状からの脱却を目指すものであるとされている。 [[2011年]][[9月24日]]、モスクワで開催された統一ロシアの党大会で2012年大統領選挙に立候補を表明した。 == 政治姿勢 == === 内政 === [[ファイル:Vladimir Putin with Alexei II-1.jpg|thumb|220px|2000年、[[救世主ハリストス大聖堂]]にて[[ロシア正教会]][[モスクワ総主教]]の[[アレクシイ2世]](右)と]] [[ファイル:Vladimir Putin 21 February 2001-2.jpg|thumb|220px|ロシア国内の宗教指導者達と。左から[[仏教]]、[[イスラーム]]、[[正教]]([[アレクシイ2世]])。(2001年2月)]] プーチンは[[ソビエト連邦]]時代の「強いロシア」の再建を標榜しており、ロシアの伝統的政治手法として、国民の[[愛国心]]に訴え、政府に対する求心力を強化しようとする政治家として知られる。そのため、ロシア各地でネオナチと呼ばれる[[極右]]勢力の増大を招き、モスクワの市場ではアジア系商人を襲撃する事件が頻発するなど、極右勢力を増長させる原因を作ったとの批判もある。 他方、宗教を徹底的に弾圧したソ連時代とは一線を画し、[[ロシア正教会]]を保護してもいる。2007年のロシア正教会と[[在外ロシア正教会]]の和解を斡旋し、和解の[[聖体礼儀]]に出席もしてスピーチを行った。[[イスラーム]]に対してはロシア正教会ほどに結び付きはなく、[[チェチェン共和国|チェチェン]]ではイスラム[[原理主義]]武装勢力との対決姿勢を鮮明にしてもいるが、[[タタールスタン共和国|タタールスタン]]の[[カザン・クレムリン]]において巨大な[[モスク]]も再建した[[ミンチメル・シャイミーエフ|シャイミーエフ]]のような穏健的な存在とは協力関係を築くなど、硬軟織り交ぜた対応がみられる。 プーチン政権は独裁色が強いとロシア国外のメディアで報じられることがある。[[ロシア情報公開擁護財団]]によると、ロシアでは1999年から2006年までに128人のジャーナリストが死亡・もしくは行方不明となっており、プーチン政権がこれらの事件に関わっているのではないかとの疑惑が浮上している(この点に関して[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]は、ロシアではジャーナリストが不審な死を遂げる事件がエリツィン政権時代から頻発しており、いずれも真相が明らかにされていないため、政権の関与が疑われてしまうと発言している)。この件に関しては、国際社会でもチェチェン勢力への人権侵害と相まって非難されている。また、その圧倒的な支持を背景に自身の強いリーダーシップをもって中央集権化を推進するプーチンの姿勢は[[権威主義]]的であると言われ、「[[ツァーリ]]」と呼ばれることもある。しかし、[[タイム (雑誌)|TIME誌]]に「自由より先に秩序を選択した」とあるように、エリツィン政権で治安が悪化し経済も崩壊したロシア社会に強力な指導力で秩序と安定をもたらしたという見方もできる。プーチン自身は「法の独裁」という言葉を用いて、自らの立場をよく説明する。 === 外交 === ==== アメリカ合衆国・ヨーロッパ ==== [[ファイル:Victory Day Parade 2005-26.jpg|thumb|200px|2005年、戦勝60周年記念式典にて各国首脳と。左から[[日本]][[内閣総理大臣|首相]]の[[小泉純一郎]]、[[フランス]][[フランスの大統領|大統領]]の[[ジャック・シラク]]、[[ドイツ]][[連邦首相 (ドイツ)|首相]]の[[ゲアハルト・シュレーダー]]、プーチン、[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の[[ジョージ・W・ブッシュ]](役職はすべて当時のもの)]] [[2001年]][[9月11日]]の[[アメリカ同時多発テロ事件]]以来、プーチンは[[テロリズム|テロ]]との戦いにおいてアメリカとの協調姿勢を見せた。同時多発テロ後に[[アメリカ軍]]が[[アフガニスタン]]に[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|侵攻]]を行う際には、ロシア国内の保守派からの反発があったにもかかわらず、かつてソビエト連邦を構成していた中央アジア諸国にアメリカ軍を駐留させることを認めるなど、アメリカ軍への支援を行った。アメリカとの協調路線を選んだのは、ロシアもチェチェン勢力によるテロに悩ませられていたため、アメリカと協調して国際的なテロ包囲網を構築することでチェチェン勢力のテロ攻撃を封じ込もうとしたからであった。 しかし次第にプーチンはアメリカの一極支配に抵抗する構えを見せるようになる。2003年に勃発した[[イラク戦争]]においてロシアは戦争に反対してアメリカと距離をおき、同じく戦争慎重派の[[フランス]]・[[ドイツ]]との連携を強化した。2007年2月にドイツの[[ミュンヘン]]で行われた「ミュンヘン国防政策国際会議」では、アメリカの一極支配体制は受け入れられないだけでなく、その行動は紛争の解決手段にならず、むしろ人道的な悲劇や新たな緊張が生じる原因となっているとして、アメリカの一極支配体制を批判した。 アメリカが[[東ヨーロッパ]]諸国と接近して影響力を高めようとする行動には警戒感を示し、「アメリカにとっても東ヨーロッパ諸国にとっても良いことではない」と発言している。特に、アメリカが「[[イラン]]と[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]への対抗」として[[チェコ]]と[[ポーランド]]に[[ミサイル防衛]](MD)システム配備を計画していることに対しては、このシステムが対ロシア用だという疑念を持ち、強い反発を示した。プーチンはこの代替案として[[アゼルバイジャン]]にあるロシアのレーダー施設の共同使用や、[[トルコ]]や[[イラク]]への配備を促したが、結局アメリカはチェコと2008年7月に、ポーランドと同年8月にMDシステム配備協定に調印した。 [[ファイル:Bush&Putin33rdG8.jpg|thumb|left|150px|2007年、[[第33回主要国首脳会議|ハイリゲンダムサミット]]にてアメリカ大統領(当時)のジョージ・W・ブッシュ(左)と]] [[北大西洋条約機構]](NATO)の東方拡大(東欧諸国と旧ソ連諸国に加盟国を拡大)については強く反発している。そのためプーチンは2007年4月の年次教書演説で、ヨーロッパ各国による通常兵器の配備の上限を定めた[[ヨーロッパ通常戦力条約]]をNATO諸国が批准していないことを理由に、同条約の履行を停止することを表明した。そしてプーチンは同年7月に履行停止の大統領令に署名し、上下院で採択された履行停止法案に同年11月署名した。2008年4月のNATO首脳との会談では欧米諸国が妥協した場合は再び同条約を履行する意思を示したが、NATOの東方拡大に対しては「ロシアにとっての直接的な脅威」だとして反対の姿勢を崩さなかった。 ロシアにとって[[欧州連合]](EU)諸国は最大の貿易相手である。その中でプーチンは[[連邦首相 (ドイツ)|ドイツ首相]]だった[[ゲアハルト・シュレーダー]]との個人的な友好関係からドイツと緊密な関係を築いた。ドイツ首相が[[アンゲラ・メルケル]]と交代しても、ドイツとは「戦略的パートナーシップ」を維持している。しかしEU諸国とは[[コソボ]]の[[コソボ地位問題|地位問題]]等で意見の相違も見られる。アメリカとともにEU諸国が支持したコソボ独立には、[[セルビア]]に同調して独立に反対し、「コソボはセルビアの一部」だという立場を取っている。プーチンは、EU諸国やアメリカによるコソボ独立の承認について、長期間にわたって構築されてきた国際関係を崩壊に追い込む「恐ろしい前例」になると発言した。 ==== 旧ソ連諸国 ==== [[ファイル:Vladimir_Putin_and_Yulia_Tymoshenko-2.jpg|thumb|200px|2008年、[[ウクライナ]][[ウクライナの首相|首相]]の[[ユーリヤ・ティモシェンコ]](左)と]] 旧ソビエト連邦の構成国だった[[グルジア]]で2003年に[[バラ革命]]、同じく構成国だった[[ウクライナ]]で2004年に[[オレンジ革命]]が発生し、以降両国がロシアよりもアメリカとの関係を重視するようになると、両国に対してプーチンは強硬な手段で臨むこともあった。ウクライナには、2006年[[1月]]に天然ガス価格を引上げを表明し、これを拒否したウクライナへの流量を減らすなどの強硬手段をとって[[ロシア・ウクライナガス紛争]]を引き起こした。グルジアには、2008年[[8月7日]]にグルジアが同国自治州の[[南オセチア]]に侵攻したことに対し、南オセチアの独立を支持する立場から「報復」を宣言し、翌[[8月8日]]、ロシア軍を派遣して南オセチアに軍事介入を行った。グルジアの侵攻の原因については同年[[8月28日]]に米テレビ局[[CNN]]とのインタビューで「[[2008年アメリカ合衆国大統領選挙|2008年の大統領選]]で共和党候補者の[[ジョン・マケイン]]を優位にするために[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]]政権がわざと起こしたものだ」として、アメリカのブッシュ政権を厳しく非難している。 ==== アジア太平洋 ==== [[ファイル:Vladimir Putin at APEC Summit in Vietnam 18-19 November 2006-5.jpg|thumb|200px|2006年11月の[[アジア太平洋経済協力|APEC]]首脳会議にて、日本の首相(当時)の[[安倍晋三]](左)と]] [[ファイル:Putin and Hu Jintao Joint Declaration 2007.jpg|200px|thumb|2007年、[[中華人民共和国]][[中華人民共和国主席|国家主席]]の[[胡錦濤]](左)と]] 日本の[[北方領土問題|北方領土]]返還要求に対しては、北方領土問題を解決して日露[[平和条約]]を締結することに意欲的な姿勢を示しているが、基本的に[[日ソ共同宣言]]を根拠に[[二島返還論|二島返還]]の立場を取っている。2001年には日本の首相(当時)の[[森喜朗]]とともに「イルクーツク声明」を出し、同宣言が北方領土返還交渉の出発点であることを確認した。しかし2005年の来日時前のロシア国内向けテレビ番組に出演した際には「北方領土の[[主権]]が現在ロシアにあることは[[国際法]]で確立され、[[第二次世界大戦]]の結果であるので、この点については交渉するつもりはない」と発言し、強硬な態度を示している。なお、来日時には日ソ共同宣言に基づき、二島を返還することで日本側を説得しようとした。その後も北方領土問題の解決と平和条約締結に意欲を見せるものの、問題が解決に至らないのは日ソ共同宣言を履行しない日本側の責任であるとしている。 戦略的には投資誘致や天然資源の輸出先として日本市場を重視し、2005年の来日時には100人以上の財界人を引き連れて日本側に投資の促進を訴えた。また[[自衛隊]]とロシア連邦軍の救難訓練も毎年行われるようになった。しかしアメリカへの対抗上[[中華人民共和国]]との提携をより重視した。2005年には[[上海協力機構]]に加盟し、[[中国人民解放軍]]と合同で[[軍事演習]]を行うなど関係強化も図っている。[[中ソ国境紛争|中露国境問題]]も中華人民共和国に譲歩する形で解決した。また[[シベリア]]のガスパイプライン建設でも日本ルートと中華人民共和国ルートの駆け引きが続いていたが、この問題も結局、日本向けの[[パイプライン輸送|パイプライン]]の着工の目処が立たないまま、「中国支線」と呼ばれる[[スコボロジノ]]・[[大慶市|大慶]]間のパイプラインが先に建設されることが決定された。一方で、こうした親中的な外交政策にも関わらず、[[中国共産党]]の認識である「一つの中国」に反するような、[[台湾]]を[[国家]]として認める発言が報じられもした。 === 安全保障 === [[ファイル:Akhmad Kadyrov and Vladimir Putin.jpg|thumb|200px|[[2002年]]、[[チェチェン共和国]]大統領(当時)の[[アフマド・カディロフ]](左)と]] [[ファイル:Vladimir Putin Cockpit TU-160 Bomber.jpg|thumb|left|200px|2005年、長距離[[戦略爆撃機]]・[[Tu-160 (航空機)|tu-160]]に搭乗するプーチン]] 就任直後から[[チェチェン人]]の武装集団によってロシアの主要都市へテロが頻発すると、これを口実にチェチェンへの武力侵攻を強化した。ロシア軍はチェチェン各地で殺戮・[[強姦]]などの人権侵害を行い、これが更なるテロを誘発する原因となった。[[2002年]]の[[モスクワ劇場占拠事件]]では、立て籠もるテロリストを鎮圧するために[[KOLOKOL-1|有毒ガス]]の使用を許可した。その結果テロは鎮圧されたが、人質の市民も巻き添えとなり、100名を超える市民が死亡する惨事となってしまった。2006年に首謀者である[[シャミル・バサエフ]]をロシア特務機関が殺害してからチェチェン情勢は一応の安定を見せているものの、今でもチェチェン独立派の犯行と見られる小規模なテロが頻発している。 このように独立派に対しては武力を以って制する一方、第二次チェチェン紛争時には[[イスラム原理主義]]の浸透に反感を抱く[[アフマド・カディロフ]]等の帰順に成功し、彼らの[[民兵|不正規部隊]]をロシア連邦軍や[[ロシア内務省|内務省]]の指揮下にある[[ロシア国内軍]]などの正規軍に編入している<ref>ロシア連邦軍の指揮下にある[[ヴォストーク大隊]]と[[ザーパド大隊]]、ロシア国内軍の指揮下にある[[セーヴェル大隊]]と[[ユーク大隊]]がある。</ref>。2007年[[1月]]まで投降者には刑事訴追の免除等の[[恩赦]]が約束されていた。また有力者には行政府の地位やロスネフチの子会社であるグロズネフチを通して利権が振舞われており、「[[飴と鞭|アメとムチ]]」を使い分けていると言える。 2007年[[8月]]に、[[1992年]]以来中断してきた長距離[[戦略爆撃機]]によるロシア国外への常時警戒飛行をロシアが再開していたことを初めてプーチン自身が公式に上海協力機構の軍事演習会場[[チェリャビンスク]](Chelyabinsk)で発言することにより明らかになった。 これは、同年[[8月17日]][[イギリス空軍]]所属の[[ユーロファイター タイフーン]]がロシアの長距離爆撃機を北大西洋上で捕捉したことと符合する。 == 人物 == その経歴から、「冷酷な性格」や「粗野」という批評を受けることが多いが、ロシア国内ではメディアを通じて非常に紳士的な姿勢をアピールしており、ロシア国民からの人気もきわめて高い。しかし日本では「冷酷な紳士」で、尚且つ「有能な元工作員」と言う、スパイ映画などにおける定番のKGB職員のイメージで見られることが多い。 [[ファイル:Vladimir Putin 4 July 2007-5.jpg|thumb|150px|2007年、[[グアテマラ]]で行われた[[国際オリンピック委員会]]の総会にて[[英語]]でスピーチをし、[[ソチオリンピック]]誘致を訴えるプーチン]] === 人物像 === [[ファイル:Vladimir Putin 8 October 2001-1.jpg|thumb|left|150px|[[ミハイル・ゴルバチョフ]](左)と([[2001年]][[10月]])]] サンクトペテルブルク市の職員時代にともに働いていたサプチャークや[[ドミトリー・コザク]]によれば、プーチンは礼儀正しく、遠慮深く、落ち着いた人物であったという。また、権力欲がなく、地位よりも仕事を重視し、仕事一筋に生きるタイプであると見られていた。 カメラの前では無表情を振舞っているが、実は取り留めないほどの冗談好きである。諜報員時代の上司から「お前は冷静すぎる」と言われたことがあるのだが、この逸話もプーチン自身にかかると「本当は『お前のようなおしゃべりはシュピオン(スパイ)には向かない』と言われたんです」になってしまう。 KGB時代、東ドイツに派遣されたためドイツ語に堪能であることはよく知られているが、大統領任期期間中に[[英語]]の勉強を本格的に始めており、現在では各国首脳とも英語で会話している光景が見られる。2007年の[[国際オリンピック委員会]]の総会でも、[[ソチオリンピック]]誘致のために英語でスピーチを披露した。 エリツィンに抜擢されたのでエリツィン派だったと思われているが、むしろ政治家としてはゴルバチョフに敬意を表している。しかし、ゴルバチョフに師事したことはなく、サプチャークからの間接的な影響だと思われる。サンクトペテルブルク時代に仕えた市長(当時)のサプチャークは、プーチンが学生時代に指導をうけた恩師でもあり、生涯の尊敬と忠誠を捧げている。 歴史上の人物で尊敬するのは[[ピョートル1世]]と[[エカチェリーナ2世|エカテリーナ2世]]。また、外国の政治家で興味があるのは[[ナポレオン・ボナパルト]]、[[シャルル・ド・ゴール]]、[[ルートヴィヒ・エアハルト]]であるという。 === 家族 === [[ファイル:Lyudmila Putin favourite photo.jpg|130px|thumb|プーチンが「最も気に入っている」という妻リュドミラの写真]] [[Image:プーチンの娘.jpg|350px|thumb|left|右がプーチンの次女]] 家族は妻と2人の娘がいる。妻の[[リュドミラ・プーチナ]]は元[[客室乗務員]]で、その後レニングラード大学で[[文献学]]を専攻する学生となり、[[1983年]][[7月28日]]にプーチンと結婚。[[1985年]]に長女マリーヤ、[[1986年]]には[[ドレスデン]]で次女カテリーナが生まれている。ロシア大衆紙『[[モスコフスキー・コムソモーレツ]]』(電子版2005年[[8月4日]])によると、2人は姉妹そろって父と母の母校であるサンクトペテルブルク大学(旧レニングラード大学)に合格し、マリーヤは[[生物土壌学]]、カテリーナは[[日本史]]を専攻することになると報じた。また、マリーヤは2005年3月[[ギリシャ]]で結婚式を挙げた。結婚相手は明らかにされていない。 === 私生活 === 釣りを趣味とし、[[競馬]]のファンでもある。[[煙草]]は吸わず、[[酒]]もほとんど飲まない。また、[[犬]]好きで、自身も[[ラブラドール・レトリーバー]]を飼っている。その愛犬は「[[コニー (犬)|コニー]]」という名前であり、徹夜でお産の世話をしたこともある。愛犬家だということもあってか、2003年5月の日露首脳会談では、当時の首相であった[[小泉純一郎]]から犬語翻訳機「[[バウリンガル]]」を贈られている。2008年10月には副首相の[[セルゲイ・イワノフ]]からコニー用にロシアの[[衛星測位システム]]である[[GLONASS]](グロナス)の受信機がついた首輪を贈られ、コニーにその首輪が装着された。 === 格闘技 === [[ファイル:Putin in judo uniform.jpg|thumb|left|150px|[[柔道#柔道と空手道の道衣|柔道着]]姿のプーチン]] 11歳の頃より柔道とサンボをたしなみ、大学在学中にサンボの全ロシア大学選手権に優勝、[[1976年]]には柔道のレニングラード市大会でも優勝した。政治家には珍しい逞しい肉体や戦闘技術を保有していることから、インターネット上では一部でカルト的な人気を博しており、自国ロシアのメディアも2008年[[8月31日]]に「研究者らによる野生の[[トラ]]の監視方法を視察するため国立公園を訪問していた際、カメラマンに向かって走ってきたトラにプーチンが麻酔銃を撃ってカメラマンを救出した」などと報じるほど、ことさら超人的なイメージが前面に打ち出されている。なお、プーチンの身長は168cmとの事。 柔道について「柔道は単なるスポーツではない。柔道は[[哲学]]だ」と語っている。また、少年時代は喧嘩ばかりしている不良少年だったが、柔道と出会ってその生活態度が改まったと述懐している。大統領になってからも、大統領以前に書いた『Учимся дзюдо с Владимиром Путиным (プーチンと学ぶ柔道)』という本を出版しており、その中で[[嘉納治五郎]]、[[山下泰裕]]、[[姿三四郎]]を柔道家として尊敬していると記している。得意技は[[払腰]]。 [[ファイル:Vladimir Putin in Japan 3-5 September 2000-23.jpg|thumb|200px|2000年、日本を訪問した際に[[講道館]]で柔道の技の型を演武するプーチン]] 2000年7月の[[第26回主要国首脳会議|九州・沖縄サミット]]では[[沖縄県]][[具志川市]](現・[[うるま市]])を訪問し、柔道の練習に飛び入り参加。掛かり稽古(お互いが交互に投げる練習形式)を行い、相手の中学生を投げたあとに、今度は同じ相手に投げられるというパフォーマンスを披露した。中学生は大統領相手にためらったが、プーチンに促されて投げたという。投げられるプーチンの姿は印象的で、その写真や映像は世界中に報道された。警備員や[[セキュリティポリス|SP]]は稽古とはいえ大統領が投げさせるとは考えられなかったようで、非常に驚いたという。 2000年9月の来日時には、講道館で技の型を首相の森喜朗(当時)に演武した。またこの際に講道館より柔道六段の名誉段位贈呈を提示されたが「私は柔道家ですから、六段の帯がもつ重みをよく知っています。ロシアに帰って研鑽を積み、一日も早くこの帯が締められるよう励みたいと思います」と述べて丁重に辞退した。 == 名前 == [[Image:プーチン1.jpg|300px|thumb|プーチン]] プーチンは元KGB情報部員であり、その過去についても不明な点が多く、首相就任時には影の薄かった彼が大統領に就任した時は、その謎に包まれた経歴から[[ロシア帝国|帝政ロシア]]末期の怪僧「[[グリゴリー・ラスプーチン|ラスプーチン]]」に引っかけられ、'''「ラス・プーチン」'''と揶揄されたことがある。ただし、プーチンという姓はロシア語で[[道路|道]]を意味するプーチを思わせ、ラスプーチンのラスは(さまざまな意味があるがその1つとして)「逆」という意味があるため、ロシア人のあいだでは、プーチンは「道」、ラスプーチンは「道がない」という逆の意味だと、好意的に捉える者もいる。また、天然ガスなどの[[資源ナショナリズム|資源外交]]を行うことから、同じくラスプーチンと引っ掛けて'''「ガスプーチン」'''と揶揄されたこともある。 == 暗殺未遂 == プーチンに対しては、明らかになっているだけで過去4度[[暗殺]]が試みられたが、いずれも未然に阻止されている。 # 2000年[[2月24日]] - サンクトペテルブルクでのアナトリー・サプチャークの葬式時。[[ロシア連邦警護庁]](FSO)によれば、チェチェン独立派が背後に立つ某組織が計画した。「標準より際立った保安措置」により計画は阻止された。 # 2000年[[8月18日]]~[[8月19日|19日]] - [[ヤルタ]]での非公式の[[独立国家共同体|CIS]][[サミット]]時。国外より情報がもたらされ、チェチェン人4人とアラブ人数人が拘束された。 # 2002年[[1月9日]]~[[1月10日|10日]] - アゼルバイジャン、[[バクー]]の公式訪問時。[[アゼルバイジャン国家保安省]]により阻止。アフガニスタンで訓練を受け、チェチェン独立派と関係を有する[[イラク]]人、キャナン・ロスタムが逮捕され、懲役10年を言い渡された。 # 2008年[[3月2日]] - モスクワでのロシア大統領選当日。ロシア連邦保安庁(FSB)が察知し、直前に阻止した。現場からは[[小銃|ライフル銃]]や[[AK-47|カラシニコフ銃]]などが発見され、[[タジク人]]1名が逮捕された。 == 発言一覧 == [[ファイル:Vladimir Putin beefcake-2.jpg|150px|thumb|2007年、[[エニセイ川]]上流で釣りをするプーチン]] [[Image:プーチン7.jpg|300px|thumb|プーチン]] [[Image:プーチン8.jpg|300px|thumb|プーチン]] * 「テロリストは便所に追い詰めて肥溜めにぶち込んでやる」(1999年、チェチェン武装勢力に関して) **「たとえ便所に隠れていても息の根を止めてやる」(さらに別の場面で) * 「ソ連が恋しくない者には心(心臓)がない。ソ連に戻りたい者には脳がない」(2000年) * 「日本は、不倫や[[近親相姦]]を題材とした小説を紙幣に印刷して流通させるほど社会が堕落したのか」(2000年7月、[[第26回主要国首脳会議|九州・沖縄サミット]]で[[内閣総理大臣|日本の首相]]の[[森喜朗]]が[[二千円紙幣]]を各国首脳に配布した時に) * 「あれは沈んだ」(2000年9月、[[オスカー級原子力潜水艦#クルスク沈没事故と余波|ロシアの原子力潜水艦クルスクが沈み、乗員118人が死亡した事件]]について) * 「我々の敵はテロリストでなく、ジャーナリストだ」(2001年5月) * 「もしあなたが[[イスラーム過激派|イスラム過激派]]になりたくて[[割礼]]が必要ならモスクワに招待する」 (2002年11月、「チェチェン住民を抹殺しようというのか」というフランス記者の質問に対して) * 「([[地球温暖化]]のおかげで)毛皮のコートを買う金も節約できる」(2003年9月、気候変動会議の開幕式で) * 「国歌演奏中は行儀良くするように。歌詞を知らないなら、せめてガムを噛むなと選手に伝えて欲しい」(2004年6月、[[サッカー]][[UEFA欧州選手権|欧州選手権]]・[[サッカーロシア代表|ロシア]]対[[サッカースペイン代表|スペイン]]戦開始前の国歌斉唱で) * 「謝罪は1回すれば十分だ」(2005年5月、第二次世界大戦の際にソ連とドイツが密約を交わしソ連の[[バルト三国]]併合を取り決めたことに対して) * 「バルト三国はロシアの小銭」(2005年5月、ソ連によるバルト三国支配への批判に対して) * 「([[金正日]]は)国をよい方向に変化させたいと望んでいる」(2005年5月) * 「我々が戦っている相手は残酷な連中、人間に化けた獣だ」 (2005年11月、チェチェン武装勢力に関して) * 「かわいくてついやってしまった」(2006年7月、[[クレムリン]]宮殿の中庭で少年のシャツをめくって腹にキスするというスキャンダルを起こす。後にこう釈明) * 「10人をレイプした強い男性でうらやましい」(2006年10月、[[イスラエル]]の大統領[[モシェ・カツァブ]]に関して。記者会見後、冗談のつもりで大統領府職員に語ったところ、偶然マイクの電源が切られておらず、声を拾われてしまう。後に報道官が釈明) * 「引き渡しを憲法で禁じているのなら改正しろと英国は言う。これは[[植民地]]主義的な考え方だ。英国の連中は脳を入れ替える必要がある」(2007年7月、リトビネンコ毒殺事件の容疑者引き渡し要求に反論して) * 「EUは恥を知れ!国際社会のルールに反する勝手は許されない」(2008年2月、コソボ独立に強く反対して) * 「[[中世]]のように、汚職する公務員は手を切り落としてしまえばいい」(2008年3月、ロシア国内の汚職の横行に関して) * 「医者を送り込んで始末しなければならない」(2008年7月、ロシアの[[石炭]]大手企業であるメチェル社による[[不当廉売|ダンピング]]と脱税疑惑に関して) * 「[[睾丸]]を縛ってつるし上げてやる」(2008年8月、[[南オセチア紛争 (2008年)|南オセチア紛争]]の際、グルジアの大統領[[ミヘイル・サアカシュヴィリ]]へ向けて) * 「[[サッダーム・フセイン|フセイン]]より重罪だ」(2008年12月、南オセチア紛争におけるサアカシュヴィリについて、グルジアによるロシア軍への先制攻撃や一般の[[オセット人]]の虐殺を理由に) * 「どんな難しい問題でも友人同士の間では解決できると確信する」。 * 「君たちは自らの野心や未熟さ、強欲で数千人の住民を人質に取った。私が来る前にゴキブリのように走り回りながら、なぜだれも問題を解決できないのだ」([[2009年]][[6月4日]]、労働争議が起きていた工場を訪れた際、工場所有者である[[オリガルヒ|新興財閥]]の[[オレグ・デリパスカ]]らに対して) * 「まだ地上でやるべきことが多くある」(2009年[[8月1日]]、バイカル湖の水深約1400メートルの湖底を、有人潜水艇の中から視察した後、報道陣に「次は宇宙旅行ですか」と聞かれた際に返した言葉) * 「テロリストは抹殺される」 ([[2010年]] [[3月29日]]、モスクワでの連続テロに対してビデオ会議にて) * 「裏切り者はろくな死に方をしない。たいていは酒かクスリにおぼれてのたれ死にする」([[2010年]][[7月24日]]、米露のスパイ交換で諜報員達と面会した際) == 年譜 == [[Image:プーチン9.jpg|300px|thumb|プーチン]] [[Image:プーチン10.jpg|300px|thumb|プーチン]] [[Image:プーチン11.jpg|300px|thumb|プーチン]] * [[1952年]] - レニングラード([[サンクトペテルブルク]])に生まれる。 * [[1975年]] - [[レニングラード大学]][[法学部]]を卒業し、[[ソ連国家保安委員会]](KGB)に勤務。KGBレニングラード局第1課(人事課)に配属。 * [[1984年]] - [[対外情報アカデミー|KGB赤旗大学]]に入校。 * [[1985年]] - [[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]に派遣。[[ドレスデン]]のソ独友好会館館長をカバーとして、ソ連人学生を監督。 * [[1990年]] - 故郷レニングラードに戻り、国際問題担当レニングラード大学学長補佐官。 * [[1991年]]12月 - サンクトペテルブルク市対外関係委員会議長。 * [[1992年]] - 中佐の階級で予備役編入。サンクトペテルブルク市副市長。 * [[1994年]]3月 - サンクトペテルブルク市第一副市長。 * [[1996年]]6月 - [[ロシア大統領府]]総務局次長に就任し、中央政界に転じる。 * [[1997年]]3月 - ロシア大統領府監督総局長。 * [[1998年]]5月 - ロシア大統領府第一副長官。 * 1998年7月 - [[ロシア連邦保安庁]](FSB)長官。 * [[1999年]]3月 - FSB長官と[[ロシア連邦安全保障会議]]書記を兼任。 * 1999年[[8月9日]] - エリツィン大統領により第一副首相に指名される(同日、ステパーシン首相が退陣したため、そのまま首相代行)。8月16日、[[ロシアの首相|首相]]。 * 1999年[[12月31日]] - 引退を宣言したエリツィンにより大統領代行に指名。 * [[2000年]][[3月26日]] - 過半数の得票を受け大統領に当選。 * [[2004年]][[2月24日]] - [[ミハイル・カシヤノフ]]内閣を総辞職させる。 * 2004年[[3月5日]] - [[ミハイル・フラトコフ]]を新首相に指名。 * 2004年[[3月14日]] - 大統領に再選。 * [[2005年]][[12月]] - ヨーロッパ柔道連盟名誉会長に就任。 * [[2007年]][[9月12日]] - 内閣を総辞職させ[[ヴィクトル・ズブコフ]]を新首相に指名。 * [[2008年]]4月 - [[ルードヴィ・ノーベル賞]]を受賞。 * [[5月7日]] - 大統領を退任。同日統一ロシア党首、翌日首相に就任。 == 著書 == * ウラジミール・プーチン、ワシーリー・シェスタコフ、アレクセイ・レヴィツキー(共著) 『[[:ru:Учимся дзюдо с Владимиром Путиным|Учимся дзюдо с Владимиром Путиным]] (プーチンと学ぶ柔道)』 [[:ru:ОЛМА-ПРЕСС|ОЛМА-ПРЕСС]](オルマ・プレス)、2002年1月 ISBN 522403325X  (ロシア語の著書。[[ラテン文字化|ラテン文字転写の例]];Uchimsia [[Judo|Dziudo]] S Vladimirom Putinym)<ref>この著書をベースにした[[DVD]]教材『Учимся [[Judo|дзюдо]] с Владимиром Путиным (プーチンと学ぶ柔道)』(ロシア最大のインターネットショッピングサイト([[:ru:Ozon.ru|Ozon.ru]])参照。ロシア語外部リンク: [http://www.ozon.ru/context/detail/id/4180651/ Internet-Shop Ozon.ru])が、プーチン首相の誕生日の前日である2008年10月6日に発表された(「[http://sankei.jp.msn.com/world/europe/081007/erp0810071020005-n1.htm プーチン首相が柔道DVD 背負い投げも披露]」 [[産経新聞|MSN産経ニュース]] モスクワ(写真は[[共同通信社]])、2008年10月7日。"[http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/americas/7658574.stm Learn judo with Vladimir Putin]" [[BBC]], Octorber 8, 2008. ※ BBCでは柔道家としてのプーチンの映像が見られる)</ref>。 :※1.英訳では『[[Judo|JUDO]]』というタイトルで出版されている([[:en:North Atlantic Books|North Atlantic Books]]、2003年2月 ISBN 1556434456)。 :※2.邦訳では原著を編集、抜粋して『プーチンと柔道の心』という題名で出版されている([[朝日新聞出版]]、2009年5月 ISBN 4022505931)<ref>イーゴリ・アレクサンドロフによる原著の翻訳を、山下泰裕と[[小林和男 (ジャーナリスト)|小林和男]]が合同で編集、抜粋。原著の説明や大統領当時(2003年)のプーチンへのインタビュー、プーチンの柔道の師であるアナトーリー・ラフリンへのインタビューを合わせて収録。</ref>。 == 関連文献 == [[Image:プーチン12.jpg|350px|thumb|ウラジーミル・プーチン]] * 中澤孝之 『エリツィンからプーチンへ』 東洋書店、2000年7月 ISBN 4885952972 * 西村拓也 『過去を消した男プーチンの正体』 [[小学館]]、2000年7月 ISBN 4094046119 * ナタリア・ゲヴォルクヤン、アンドレイ・コレスニコフ、ナタリア・チマコワ(共著) 『プーチン、自らを語る』 [[扶桑社]]、2000年8月 ISBN 4594029604 * ロイ・メドヴェージェフ 『プーチンの謎』 現代思潮新社、2000年8月 ISBN 4329004135 * 梅津和郎 『プーチンのロシア その産業と貿易』 [[晃洋書房]]、2000年9月 ISBN 4771011982 * [[袴田茂樹]] 『プーチンのロシア 法独裁への道』 [[エヌ・ティ・ティ出版|NTT出版]]、2000年10月 ISBN 4757120516 * [[木村汎]] 『プーチン主義とは何か』 [[角川書店]]、2000年12月 ISBN 404704010X * 上野俊彦 『ポスト共産主義ロシアの政治 エリツィンからプーチンへ』 日本国際問題研究所、2001年7月 ISBN 4819303864 * 木村明生 『ロシア同時代史権力のドラマ ゴルバチョフからプーチンへ』 [[朝日新聞社]]、2002年2月 ISBN 402259795X * 永綱憲悟 『大統領プーチンと現代ロシア政治』 東洋書店、2002年3月、ISBN 4885953804 * 徳永晴美 『ロシア・CIS南部の動乱 岐路に立つプーチン政権の試練』 清水弘文堂書房、2003年3月 ISBN 4879505617 * 木村汎、[[佐瀬昌盛]](共編) 『プーチンの変貌? 9・11以後のロシア』 [[勉誠出版]]、2003年5月 ISBN 458505085X * 山内聡彦 『ドキュメント・プーチンのロシア』 日本放送出版協会、2003年8月 ISBN 4140808098 * 池田元博 『プーチン』 [[新潮社]]<[[新潮新書]]>、2004年2月 ISBN 4106100541 * [[小林和男 (ジャーナリスト)|小林和男]] 『白兎で知るロシア ゴルバチョフからプーチンまで』 かまくら春秋社、2004年3月 ISBN 4774002577 * 江頭寛 『プーチンの帝国 ロシアは何を狙っているのか』 [[草思社]]、2004年6月 ISBN 4794213166 * [[中村逸郎]] 『帝政民主主義国家ロシア プーチンの時代』 [[岩波書店]]、2005年4月 ISBN 4000240137 * [[アンナ・ポリトコフスカヤ]] 『プーチニズム 報道されないロシアの現実』 [[日本放送出版協会]]、2005年6月 ISBN 4140810548 * エレーヌ・ブラン 『KGB帝国 ロシア・プーチン政権の闇』 [[創元社]]、2006年2月 ISBN 4422202634 * 加藤志津子 『市場経済移行期のロシア企業 ゴルバチョフ、エリツィン、プーチンの時代』 文眞堂、2006年8月 ISBN 4830945532 * ロデリック・ライン、渡邊幸治、[[ストローブ・タルボット]](共著) 『プーチンのロシア 21世紀を左右する地政学リスク』 [[日本経済新聞社]]、2006年11月 ISBN 4532352290 * 寺谷ひろみ 『暗殺国家ロシア リトヴィネンコ毒殺とプーチンの野望』 [[学研ホールディングス|学習研究社]]、2007年6月 ISBN 4054034586 * [[アレクサンドル・リトビネンコ|アレクサンドル・リトヴィネンコ]]、ユーリー・フェリシチンスキー(共著) 『ロシア闇の戦争 プーチンと秘密警察の恐るべきテロ工作を暴く』 [[光文社]]、2007年6月 ISBN 4334961983 * 林克明 『プーチン政権の闇 チェチェン 戦争/独裁/要人暗殺』 [[高文研]]、2007年9月 ISBN 4874983901 * 木村汎 『プーチンのエネルギー戦略』 北星堂書店、2008年1月 ISBN 4590012359 == 関連項目 == * [[プーチン主義]]([[:en:Putinism]]) * [[ナーシ]] * [[2000年ロシア大統領選挙]] * [[2004年ロシア大統領選挙]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.government.ru/content/ ロシア連邦政府] {{ru icon}} * [http://www.premier.gov.ru/ ロシア連邦首相公式サイト] {{ru icon}} * [http://premier.gov.ru/eng ロシア連邦首相公式サイト] {{en icon}} {{start box}} {{s-off}} {{Succession box | title = {{Flagicon|RUS}} [[ロシアの首相|ロシア連邦首相]] | years = 第9代:2008 -<br/>第5代:1999 - 2000 | before = [[ヴィクトル・ズブコフ]]<br/>[[セルゲイ・ステパーシン]] | after = (現職)<br/>[[ミハイル・カシヤノフ]] }} {{Succession box | title = {{Flagicon|RUS}} [[ロシア連邦大統領]] | titlenote = 1999-2000年:代行 | years = 第2代:2000 - 2008 | before = [[ボリス・エリツィン]] | after = [[ドミートリー・メドヴェージェフ]] }} {{Succession box | title = {{Flagicon|RUS}} [[ロシア連邦安全保障会議|ロシア連邦安全保障会議書記]] | years = 第8代:1999 | before = [[ニコライ・ボルジュジャ]] | after = [[セルゲイ・イワノフ]] }} {{Succession box | title = {{Flagicon|RUS}} [[ロシア連邦保安庁|ロシア連邦保安庁長官]] | years = 第4代:1998 - 1999 | before = [[ニコライ・コヴァレフ]] | after = [[ニコライ・パトルシェフ]] }} {{Succession box | title = {{Flagicon|RUS}} [[ロシア大統領府|ロシア大統領府監督総局長]] | years = 第5代:1998 - 1999 | before = [[アレクセイ・クドリン]] | after = [[ニコライ・パトルシェフ]] }} {{Succession box | title = [[ファイル:Flag of Saint Petersburg Russia.svg|22x20px]] [[サンクトペテルブルク|サンクトペテルブルク市]]<br/>対外関係委員会議長 | years = 初代:1991 - 1996 | before = (創設) | after = Gennadiy Tkachyov }} {{Succession box | title = {{URB}}<br/>閣僚評議会議長 | years = 初代:2008 - | before = (創設) | after = (現職) }} {{s-ppo}} {{Succession box | title = [[統一ロシア|統一ロシア党首]] | years = 2008 - | before = [[ボリス・グルイズロフ]] | after = (現職) }} {{s-dip}} {{Succession box | title = [[主要国首脳会議|主要国首脳会議議長]] | years = 2006 | before = [[トニー・ブレア]] | beforenote = イギリス | after = [[アンゲラ・メルケル]] | afternote = ドイツ連邦 }} {{end box}} {{ロシアの大統領}} {{ロシアの首相}} {{DEFAULTSORT:ふうちん うらしいみる}} [[Category:ロシアの首相]] [[Category:ロシアの大統領]] [[Category:ロシアの政治家]] [[Category:ロシアの柔道家]] [[Category:1952年生]] [[Category:画像が多い記事]] [[Category:サンクトペテルブルク出身の人物]] [[Category:ロシアの正教徒]]