ドイツ国 (1933年-1945年)

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ドイツ国(-こく)は、国家社会主義ドイツ労働者党が支配した1933年から1945年の元首制的共和国としてのドイツを指す。 以降では分かり易くする為全て「ナチス・ドイツ」と表記する。

国名

正式な国名は帝政ドイツヴァイマル共和国を通じてDeutsches Reichドイツ国)である。一時期、ドイツ全国を統一的に統治した国家体制として、神聖ローマ帝国962年1806年)、帝政ドイツ1871年1918年)に次ぐという意味で、「第三帝国」 (Drittes ReichThird Reich) という呼称を宣伝に使用したが、これが逆に敵対国の反独宣伝に利用されたため、ナチス政府はこの語の使用を禁じた。日本では戦後になって英語の Third Reich の訳語として第三帝国がより広く知られるようになった。 また1943年以降は大ドイツ国(大ドイツ帝国)と称する事もあった。しかし正式国名は「ドイツ国」であった。

年表

テンプレート:ドイツの歴史

  • 1923年 ミュンヘン一揆。ナチス党は禁止されたが、後継組織が国会議席を獲得。
  • 1928年 ナチス党として初の国政選挙。12議席を獲得。
  • 1930年 この年の選挙でナチス党は第2党の地位を獲得。
1932年
  • 5月 大統領選挙にヒトラーが出馬したが次点となる。
  • 7月31日 国会議員選挙。230議席を獲得し第一党となる。
  • 11月6日 国会議員選挙。34議席を失ったが、196議席を確保し第一党の地位を保持する。
1933年
1934年
  • 1月30日 「ドイツ国再建に関する法」成立。地方自治が許されていたドイツは一元的な中央集権国家に変貌した。各州の主権はドイツ国に移譲され、州議会が解散され、地方長官(または国家代理官、Reichsstatthalter)としてナチ党幹部が送り込まれた。
  • 6月30日長いナイフの夜」事件。突撃隊幹部や前首相シュライヒャーなど政敵が粛清される。
  • 8月2日 ヒンデンブルク大統領が死去。
  • 8月19日 国民投票により、ヒトラーの大統領就任が決定される。ヒトラーは大統領の肩書きは名乗らず、国家元首を兼務し「総統」と呼ばれ、独裁者として全権を担う。
1935年
1936年
1938年
1939年
1940年
1941年
1943年
1944年
1945年

歴史

テンプレート:ナチズム

政権掌握

ナチスはヒトラー内閣成立直前の1932年の二度の国会選挙で最大の得票を得たが、議会においては単独では過半数を獲得することはできなかった。同年11月の選挙でナチスは34議席を失ったが、第一党の地位は保持した。一方ドイツ共産党は11議席を増やし、首都ベルリンでは共産党が投票総数の31%を占めて単独第一党となった。これに脅威を感じた保守派と財界は以後、ナチスへの協力姿勢を強め、途絶えていた財界からナチスへの献金も再開された。

1933年1月、ヒトラーは首相に任命されて政権を獲得した。同時にナチス党幹部であるヘルマン・ゲーリングが無任所相兼プロイセン州内相に任じられた。ゲーリングはプロイセン州の警察を掌握し、突撃隊親衛隊を補助警察官として雇用した。これにより多くのナチスの政敵、特にドイツ共産党およびドイツ社会民主党員が政治犯として収容所に収容された。

ヒトラーは組閣後ただちに総選挙を行ったが、2月にドイツ国会議事堂放火事件が発生した。ヒトラーはこれを口実として「民族と国家防衛のための緊急令」と「民族への裏切りと国家反逆の策謀防止のための特別緊急令」の二つの緊急大統領令を発布させた。これにより国内の行政・警察権限を完全に握ったヒトラーは、ドイツ共産党に対する弾圧を行った。選挙後の議会では共産党議員を排除した上で全権委任法を制定し、独裁体制を確立した。その後、ドイツ国内の政党・労働団体は解散を余儀なくされナチス党による一党独裁体制が確立した。

1934年6月には突撃隊幕僚長エルンスト・レームをはじめとする党内の不満分子やナチス党に対する反対者を非合法手段で逮捕・処刑した(長いナイフの夜)。1934年8月にヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは首相と国家元首を兼務し、国民投票によってドイツ国民により賛同された。これ以降のヒトラーは指導者兼首相(Der Führer und Reichskanzler)、日本語では総統と呼ばれる。

1935年にはヴェルサイユ条約の破棄と再軍備を宣言した。ヒトラーはアウトバーンなどの公共事業に力を入れ、壊滅状態にあったドイツ経済を立て直した。一方で、ユダヤ人ロマのような少数民族の迫害など独裁政治を推し進めた。1936年にはドイツ軍はヴェルサイユ条約によって非武装地帯となっていたラインラントに侵攻した(ラインラント進駐)。同年には国家を威信を賭けたベルリン・オリンピックが行われた。また、1938年には最後の党外大勢力であるドイツ国防軍の首脳をスキャンダルで失脚させ(ブロンベルク罷免事件)、軍の支配権も確立した。

外交においては“劣等民族”とされたスラブ人国家のソ連反共イデオロギーの面からも激しく敵視し、英仏とも緊張状態に陥った。ただし、ヒトラーはイギリスとの同盟を希望していたと言われる。アジアにおいてはリッベントロップ外相の影響もあり、伝統的に協力関係(中独合作)であった中華民国(中国)から国益の似通う日本へと友好国を切り替えた。1936年には日独防共協定を締結。1938年には満州国を正式に承認し、中華民国のドイツ軍事顧問団を召還した。1940年9月にはアメリカを仮想敵国として日独伊三国軍事同盟を締結した。

1938年にはオーストリアを併合(アンシュルス)。9月にはチェコスロバキアに対し、ドイツ系住民が多く存在するズデーテン地方の割譲を要求。英仏は反発し、戦争突入の寸前にまで陥ったが、イタリアベニート・ムッソリーニの提唱により英仏独伊の4ヶ国の首脳によるミュンヘン会談が開かれ、ヒトラーは英仏から妥協を引き出すことに成功した。この時ヒトラーが英国のネヴィル・チェンバレン首相に出した条件は「領土拡張はこれが最後」というものであった。しかしヒトラーはこの約束を遵守せず、翌1939年にはドイツ系住民保護を名目にチェコスロバキア全土に進軍、傀儡政権として独立させたスロバキアを除いて事実上併合した(チェコスロバキア併合)。オーストリア・チェコスロバキアを手に入れたヒトラーの次の目標は、ダンチヒ回廊であった。ヒトラーは軍事行動に先立って、犬猿の仲とされたヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦との間で独ソ不可侵条約を締結。世界中を驚愕させた。

第二次世界大戦

詳細は 第二次世界大戦 を参照

ヒトラーはダンチヒ回廊の返還をポーランドに要求。拒否されると、独ソ不可侵条約締結からちょうど1週間後の1939年9月1日ドイツ軍ポーランドへ侵攻した。ヒトラーは、イギリスフランスは参戦しないだろうと鷹を括っていたが、その思惑に反してイギリスおよびフランスはドイツに宣戦を布告し、第二次世界大戦が開始された。しかし、戦争準備が十分でなかった英仏はドイツへの攻撃を行わず、ドイツもポーランドに大半の戦力を投入していたため、独仏国境での戦闘はごく一部の散発的なものを除いて全く生じなかった。

詳細は 西方電撃戦 を参照

西部戦線におけるこの状態は翌1940年5月のドイツ軍によるベネルクス3国侵攻まで続いた。ポーランドはドイツ軍の電撃戦により1ヶ月で崩壊。国土をドイツとソ連に分割された。翌年の春には、ドイツ軍はデンマークノルウェーを立て続けに占領し、5月にはベネルクス三国に侵攻、制圧した。ドイツ軍は強固なマジノ線が敷かれていた独仏国境を避け、ベルギー領のアルデンヌの森を突破に一気にフランス領内に攻め込んだ。ドイツ軍は電撃戦によりフランスを圧倒し、1ヶ月でフランスを降伏に追い込んだ。

イギリスをのぞく西ヨーロッパの連合国領のすべてを征服したドイツ軍は、イギリス本土上陸作戦(アシカ作戦)の前哨戦としてブリテン島上空の制空権を賭けてバトル・オブ・ブリテンを開始したが敗北。イギリス本土上陸は中止に追い込まれた。その後は、貧弱な同盟国であるイタリアの救援として北アフリカ戦線バルカン半島戦線に部隊を派遣。バルカン半島からギリシャにかけての地域を完全に制圧し、北アフリカでも物量に勝るイギリス軍を一時アレクサンドリア近辺まで追い込んだ。

詳細は 独ソ戦 を参照

そして、1941年6月22日、突如不可侵条約を破棄しソ連に侵攻する(バルバロッサ作戦)。ソ連軍は完全に不意を突かれた形となり、大粛清によるソ連軍の弱体化の影響もありドイツ軍は同年末にはモスクワ近郊まで進出した。しかし、冬将軍の訪れと補給難により撤退。独ソ戦は膠着状態となりヒトラーが当初目論んだ1941年内のソ連打倒は失敗に終わった。ナチスは占領下のソ連で「征服、植民地化と搾取」を行った。ロシア人が「大祖国戦争」と呼ぶこの戦争で1,100万人の赤軍兵士のほか、およそ1,400万人の市民が死んだ。ソ連への攻撃はドイツの「生存圏Lebensraum を東方に拡張する目的であったが、「ボルシェヴィズムからヨーロッパを防衛する」ことにつながるとして、この侵攻をイギリスは容認すると考えていた。

日本軍による真珠湾攻撃の3日後、ヒトラーは対米宣戦布告を行った。1942年夏、ドイツ軍はブラウ作戦を発動しソ連南部に進攻。ドイツ軍は得意の電撃戦でスターリングラードまで進出した。しかしスターリングラード攻防戦は長期化し、逆にソ連軍に包囲されてしまう。翌1943年2月、スターリングラードの第6軍は降伏。1個軍が包囲殲滅されるという致命的な大敗を喫したドイツ軍は東部戦線での主導権をソ連に明け渡すこととなる。一旦は戦線を持ち直したものの、7月のクルスクの戦いを最後にドイツ軍が東部戦線において攻勢に回ることはなかった。クルスクでの戦いの最中には、イタリアのシチリア島連合軍が上陸。翌月にはイタリア本土に連合軍が上陸し、9月にはイタリアは連合軍に降伏した。ドイツ軍は直ちにイタリア北部を制圧し、イタリア戦線が開始された。

1944年6月、連合軍がフランス北部のノルマンディーに上陸し、ドイツ軍は二正面作戦を余儀なくされる。同時期には東部戦線でもソ連軍によるバグラチオン作戦が開始され、ドイツ軍の敗色は濃厚となった。7月にはヒトラー暗殺計画とクーデターが実行されたが失敗に終わった。東部戦線でのソ連軍の進撃に伴い、ルーマニアブルガリアフィンランドといった同盟国が次々に枢軸側から離反した。

各地で敗退を続けるドイツ軍は、同年12月に西部戦線で一大攻勢に打って出た(バルジの戦い)が失敗。1945年に入ると連合軍のライン川渡河を許した。東部戦線でもソ連軍が東プロイセンを占領し、オーデル・ナイセ線を越えた。4月、ソ連軍によるベルリン総攻撃が開始され、30日にヒトラーは総統官邸地下壕で自殺した。ヒトラーの遺言により、カール・デーニッツ海軍総司令官が第三代大統領となった(フレンスブルク政府)。5月2日にベルリンはソ連軍によって占領され、ベルリンの戦いは終結した。5月8日、ドイツは正式に連合国に対し無条件降伏した。ナチス党は事実上崩壊しており、ここにナチス政権下のドイツは終わりを告げることとなった。

政治

政治機構

ドイツには帝政時代からの伝統を持つ官僚機構が存在したが、ナチス党は政権獲得後、党の幹部を官僚機構の中枢に入れることで官僚機構を掌握した。また、党の組織である親衛隊や各部局が公式な政治機関に昇格し、党と国家は一体化した。

対外政策

経済政策

ヒトラーの経済政策を参照。

軍事

正式名称は「ドイツ国防軍」である。最高指揮権は指導者(総統)のヒトラーにあった。 世界でも有数の国軍を保有し1936年で50万人、1939年の時点で314万人の兵を抱える世界最強の陸空軍が出来上がっていた。(海軍はUボートを除き小規模)一時期ドイツは全ヨーロッパを占領しイギリス、ロシアに史上最大の危機を与えるなど全世界を席巻した。しかしアメリカの参戦。戦争の長期化に伴い敗退。1945年の無条件降伏後は武装解除され「ドイツ国防軍」は消滅した。

プロパガンダ

ナチス刑法

初期ソビエト刑法に極めて類似した、罪刑法定主義を排除した刑法。ナチス刑法は、意思刑法、行為者刑法であり、ドイツ民族の中に存在する具体的秩序に反抗する、意思と人格に対して、国家社会主義的(全体主義的)立場から、応報と殖財を犯罪者に対して要求する。犯罪者は「民族の直感」から判断されるところの悪い意思を持つという理由で、反抗的人格形成を行った事について国家により報復される。後に、西ドイツ基本法に於いて、罪刑法定主義が明記された理由の一つ[1]

社会政策

ナチス政権は人種主義を強く打ち出し、アーリア人種の優秀さを強調。人種、社会、文化的清浄を求めて社会のすべての面の政治的支配を行った。また抽象美術および前衛芸術は博物館から閉め出され、「退廃芸術」として嘲られた。

ホロコースト

詳細は ホロコースト を参照

ナチスはユダヤ人ジプシーのような少数民族、エホバの証人および同性愛者障害者など彼らの価値観で不潔であると考えられる人々の迫害を大規模に行ったことで知られている。

1933年に成立した「断種法」の下、ナチスは精神病アルコール依存症患者を含む遺伝的な欠陥を持っていると見なされた40万人以上の個人を強制的に処分した。1940年になるとT4 安楽死プログラムによって何千人もの障害を持つ病弱な人々が殺害された。それは「ドイツの支配者民族としての清浄を維持する」Herrenvolk とナチスの宣伝で記述された。T4作戦は表向きには1941年に中止命令が発せられたが、これらの政策は後のホロコーストに結びついた。

1935年ニュルンベルク法が制定されたことによって、ユダヤ人はドイツ国内における市民権を否定され公職から追放された。ほとんどのユダヤ人はこの時期に仕事を失い、失業中のドイツ人によって取って代わられた。1938年11月9日に、ナチスはユダヤ人商店の破壊を行った。それはあたかも通りが割れたガラスによって水晶で覆われているかのように見えたため「水晶の夜Kristallnacht(クリスタルナハト)と呼ばれた。1939年9月までに20万人を越えるユダヤ人がドイツを去った。またドイツ政府は彼らが残していった全ての財産を没収した。

大戦中、ユダヤ人や少数民族に対する迫害はドイツ国内および占領地域で継続した。1941年からはユダヤ人は「ダビデの星」の着用を義務づけられ、ゲットーに移住させられた。ラインハルト・ハイドリヒの監督下、1942年1月に開催されたヴァンゼー会議では「ユダヤ人問題の最終解決策」Endlösung der Judenfrage が策定されたとされる。何千人もの人が毎日強制収容所に送られ、この期間中には多くのユダヤ人、ほぼ全ての同性愛者身体障害者スラブ人政治犯エホバの証人を系統的に虐殺する計画が立てられる。また、1,000万人以上がただ働きで扱われた。この大量虐殺はホロコースト、ヘブライ語ではショアー (Shoah) と呼ばれる。ナチスは婉曲的に「最終解決策」Endlösung という用語を使用した。

ナチスとバチカン

ドイツ・カトリック教会に対するナチスの暴力的行為が問題となり、これを終止させることを条件として1933年7月20日当時バチカンの国務長官を務めたパチェッリ枢機卿(後の教皇ピウス12世)とフランツ・フォン・パーペンとの署名により、ナチス・ドイツはローマ教皇庁とのコンコルダート(政教条約 Reichskonkordat 1933)を締結することとなった。ヒトラーは条約批准直前の閣議で、このコンコルダートが党の道徳的公認になるとの発言をしていた。これに対しかつて教会法専門の研究で学位取得し、教皇ピウス10世による教会法大全の起草・編纂を務めたパチェッリは後の7月26日、27日ヴァチカンの日刊紙「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」での声明で、コンコルダード批准が道徳的同意というヒトラーの見解を断固否定し、教会法大全に基づく教会ヒエラルキーの完全かつ全面的承認および受容を意義とすると激しく反論した。

しかしこの事が仇となり、締結後もナチス側の暴力的行為は治まるどころか増す一方で、教会内に思想的規制および介入するなど条約を無視した行為が頻発するようになった。こういった状況が続く中で、後に即位した教皇ピウス12世はナチスによるユダヤ人迫害に沈黙したため、終戦後に迫害を「黙認した」として非難され続けた。教皇ヨハネ・パウロ2世は後にユダヤ人迫害時のカトリック教会の対応について謝罪の声明を述べている。しかし歴史的調査によると、大戦中に教皇ピウス12世からアメリカ合衆国ルーズベルト大統領宛に、ナチスを非難する極秘の書簡が送られていたという事実があったことが明らかにされている。

戦後

ファイル:Nuremberg-1-.jpg
ニュルンベルク裁判

ポツダム会議によってドイツ本土は分割統治され、ドイツの国境は西に大きく移動され、旧領土の三分の一を失った。多くがポーランド領となり、オストプロイセンについては半分はソ連に併合された。チェコスロバキアユーゴスラビアルーマニアおよびハンガリーといった地域での少数民族であった約1,000万人のドイツ人は追放された。1949年まで連合国による軍政が敷かれた後(連合軍軍政期)、アメリカ合衆国、イギリス、フランスの西側占領地域はドイツ連邦共和国となり、東側のソ連占領地域は共産主義ドイツ民主共和国になった。

残されたヘルマン・ゲーリングヨアヒム・フォン・リッベントロップヴィルヘルム・カイテルなどのナチス首脳部の一部は、連合軍による戦争裁判・ニュルンベルク裁判ニュルンベルク継続裁判で裁かれることになった。また、独立回復後の西ドイツ政府により非ナチ化裁判が行われ、ナチス党関係者やヒトラーお抱えの映画監督と言われたレニ・リーフェンシュタールなどが裁かれた。

また、ナチス占領下にあった地域でも、ナチス高官の愛人を持っていたココ・シャネルなど、ナチス党関係者と関係のあったドイツの犯罪行為に加担した政治家・芸術家・実業家も戦後罪を問われ、裁判を受けたもの、活動を自粛せざるをえなくなった者などが存在した。しかし逃亡したナチス戦犯もおり、これらはサイモン・ヴィーゼンタールなどのナチ・ハンターによって追求が行われ続けている。

すべての非ファシスト・ヨーロッパ諸国ではナチ党およびファシスト党の元構成員を罰する法律が確立された。また、連合軍占領地域でのナチ党員やドイツ兵の子供に対する統制されない処罰が行われた(参照:ナチの子供)。終戦前に逃亡した者も、国際手配されて最終的に処刑された。

ナチス・ドイツの武力組織

ファイル:War Ensign of Germany 1938-1945.svg
ナチス・ドイツ時代のドイツの軍旗 (Reichskriegsflagge)

正規軍

詳細は ドイツ国防軍 を参照

ナチ党軍事組織

準軍事組織

警察組織

  • 政治警察部門 (国家保安本部, RSHA, Reichssicherheitshauptamt)
    • 治安警察 (Sipo, Sicherheitspolizei)
    • 親衛隊保安部 (SD, Sicherheitsdienst des Reichsführer der SS)
  • 一般警察部門

政治結社

  • 国民社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP, Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)

ナチス・ドイツの台頭を背景にした映画作品

  • オリンピアOlympia(第1部:『民族の祭典』 - Fest der Völker (Olympia Teil I) /第2部:『美の祭典』- Fest der Schönheit (Olympia Teil II)(1938年、ドイツ映画):1936年のベルリンオリンピックの記録映画。健全な肉体と精神を賛美し、身体・精神障害者を迫害し、強制的に避妊手術を施し、さらには絶滅政策を行ったナチスが国威発揚のために作らせたものだが、映画芸術上の評価は高い。なお映画自体には、民族差別色は薄い。レニ・リーフェンシュタール監督作品。
  • 我輩はカモである』 - Duck Soup(1933年、アメリカ映画):チャップリンキートンと共に、「アメリカ三大喜劇王」と言われる、マルクス兄弟による、独裁者により戦争の恐怖へ突き落とされる、架空の独裁国家フリードニアを舞台とした風刺喜劇映画。
  • 独裁者』 - The Great Dictator(1940年、アメリカ映画):仮想の独裁者ヒンケルと迫害されるユダヤ人の二役をチャップリンが演じた風刺喜劇映画。撮影中も上映中も、ファシズム・ナチズムに共感する極右アメリカ人による様々な妨害を受けた。また、戦後アメリカの「赤狩り」の際、チャップリンは左翼的であるとして追放される原因となった。なお、ヒトラーはこの映画を部下とともに極秘に鑑賞したが、チャップリンに対する処刑命令は出していない。
  • サウンド・オブ・ミュージック』 - The Sound of Music(1965年、アメリカ映画):ナチス・ドイツ併合下のオーストリアを舞台にしたアメリカミュージカル映画の代表作。修道女マリアが音楽を通じて厳格なオーストリア海軍軍人の家庭を癒していく様を描いた。ナチスに協力を求められた海軍大佐は家族ともに国外へ脱出する。唱歌として知られる『ドレミのうた』は、この映画が発祥。
  • 地獄に堕ちた勇者ども』 - La caduta degli dei(1969年、イタリア・スイス・西ドイツ合作映画):ナチス突撃隊粛清(長いナイフの夜事件)とナチスによるルール地方の鉄鋼王一族の退嬰を描いたルキノ・ヴィスコンティ監督の代表作。ヴィスコンティに重用されたヘルムート・バーガー主演。
  • 特別な一日』 - Una Giornata Particolare(1977年、イタリア・カナダ合作映画)
  • インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』 - Indiana Jones and the Last Crusade(1989年、アメリカ映画)・『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981年、アメリカ映画):いずれもスティーヴン・スピルバーグの作品で、大いなる力を宿す聖杯聖櫃を奪い世界の支配権を握ろうと企むナチスやヒトラーと戦う正義のヒーローを描く娯楽大作。
  • 戦場のピアニスト』 - The Pianist(2002年、フランス・ドイツ・ポーランド・イギリス合作映画)
  • ブリキの太鼓』-(1979年、西ドイツ・フランス合作):ギュンター・グラス原作。第一次世界大戦後の国際自由都市ダンツィヒを舞台に、人間の醜悪な姿を、三歳で成長を止めた少年の視点からナチの台頭を交えて描く。
  • ライフ・イズ・ビューティフル』-(1998年、イタリア):ロベルト・ベニーニ主演・監督作品。北イタリアにおけるナチの駐留、ユダヤ人狩りをテーマにした映画。収容所に入れられたユダヤ人のグイドは、絶望的な状況の中で自分の幼い息子を必死で守ろうとする。
  • 『さよなら子供たち』-(1987年、フランス・西ドイツ合作):ルイ・マル監督作品。ナチス占領下のフランスにおけるユダヤ人狩りを描いた作品。主人公のフランス人少年と、教会の学校に匿われているユダヤ人少年との交流を中心に、ナチに協力したフランス人がいた現実、密告や裏切りなどの醜悪な姿などを綿密に描いている。

ナチズム・ファシズムの台頭を主題とした映画の一覧も参照のこと。

脚注

  1. 山中敬一 /刑法I /32P

文献

テンプレート:参照方法

  • アドルフ・ヒトラーMein Kampf, Erster Band, Eine Abrechnung』、1925年、ドイツ(邦訳:わが闘争(上)I民族主義的世界観)
  • アドルフ・ヒトラー『Mein Kampf, Zweiter Band, Die nationalsozialistische Bewegung』、1927年、ドイツ(邦訳:わが闘争(下)II国家社会主義運動)
  • 澤田謙『ヒットラー傳』、大日本雄弁会講談社、1934年
  • 四宮恭二『ナチス』、政経書院、1934年
  • 森川覚三『ナチス独逸の解剖』、コロナ社、1940年
  • トラウデル・ユンゲ『私はヒトラーの秘書だった(原題:Bis zur letzten Stunde)』、 (2002年、ドイツ)
  • ヨアヒム・フェスト『ヒトラー最後の12日間(原題:Der Untergang-Hitler und das Ende des Dritten Reiches)』、(2002年、ドイツ)
  • ウワディスワフ・シュピルマン戦場のピアニスト(原題:THE PIANIST: The extraordinary story of one man's survival in Warsaw, 1939-45)』、(1999年、イギリス)

関連項目

外部リンク