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'''バトゥアンパル'''({{Lang-id|Batu Ampar}})は、[[西カリマンタン]]地方の[[地名]]。[[ポンティアナク市]]の南方数十kmの[[カプアス河]]の河口に位置する{{Sfn|赤道会|1975|pp=31}}。
 
'''バトゥアンパル'''({{Lang-id|Batu Ampar}})は、[[西カリマンタン]]地方の[[地名]]。[[ポンティアナク市]]の南方数十kmの[[カプアス河]]の河口に位置する{{Sfn|赤道会|1975|pp=31}}。
  
==歴史==
 
 
[[日本占領下の西ボルネオ|日本による占領時期]]には、1944年に[[SKK昭和組工作所]]が原野に造船工場を建設し、200トン船の建造を行うなど{{Sfn|赤道会|1975|p=35}}、日本企業の工場地帯となった場所で{{Sfn|赤道会|1975|p=69}}、ポンチアナク市の周辺では(日本以外の)外国権益が最も少ない島だった{{Sfn|赤道会|1975|p=51}}。
 
[[日本占領下の西ボルネオ|日本による占領時期]]には、1944年に[[SKK昭和組工作所]]が原野に造船工場を建設し、200トン船の建造を行うなど{{Sfn|赤道会|1975|p=35}}、日本企業の工場地帯となった場所で{{Sfn|赤道会|1975|p=69}}、ポンチアナク市の周辺では(日本以外の)外国権益が最も少ない島だった{{Sfn|赤道会|1975|p=51}}。
  
1945年8月15日に日本が[[ポツダム宣言]]を受諾した後、西ボルネオに赴任していた[[日本人]]は、バトゥアンパルに集結し、バタンチカル(Padang Tikar)から[[ジャワ島|ジャワ]]行きの船に乗船したが、民間人約200人の乗船した船は出航後まもなくトラブルがあってバタンチカルに引き返し、バトゥアンパルのトロアエル(Teluk Air)に日本人の避難場所として建設してあった住宅で同年10月10日まで過ごしていた{{Sfn|赤道会|1975|pp=6-7,24,31,42-43,51}}。
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1944年の末頃に「住友さん」の近くに慰安所ができ、SKK昭和組工作所の社員が慰安所の管理人となって毎月の給料支払、毎月検診、管理運営の仕事をしていた{{Sfn|赤道会|1976|p=25}}。
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{{Quotation|私の通訳に中村君がいた。彼は[[沖縄]]の出身で、19歳位の時から[[シンガポール]]の近くの島で漁師をしていて、[[太平洋戦争]]が始まってからボルネオに来たとのこと。年齢のことにふれなかったがキラキラ(だいたい)30歳位、近くのカンポンに美人の妻と世帯を持っていた。私らの渡航寸前に邦人の現地妻は許されなくなったとか。彼と彼女は夫婦であった。
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昭和19年(1944)の6月頃だったか彼に現地召集令が降った。小宴を催し万歳の声と共に[[ポンティアナク{{!}}ポンチ]]に帰えした。其の後彼女は海軍慰安所に入れられた。それを聞いた彼は彼女を連れ出し、追われてポンチャナ近く山に逃げ、ピストル心中をしたと暫らくしてポンチからの便りで知った。悲しきかな!|山名正八|SSKバトアンパル駐在員時代の回想|{{Sfn|赤道会|1976|p=25}} }}
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1945年8月15日に日本が[[ポツダム宣言]]を受諾した後、西ボルネオに赴任していた[[日本人]]は、バトゥアンパルに集結し、同年9月8日にバタンチカル(Padang Tikar)から[[ジャワ島|ジャワ]]行きの船に乗船したが、民間人約200人の乗船した船は出航後まもなくトラブルがあってバタンチカルに引き返し、バトゥアンパルのトロアエル(Teluk Air)に日本人の避難場所として建設してあった住宅で同年10月10日まで過ごしていた{{Sfn|赤道会|1975|pp=6-7,24,31,42-43,51}}。
  
 
==付録==
 
==付録==
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=== 参考文献 ===
 
=== 参考文献 ===
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*{{Aya|赤道会|year=1976}} ポンチアナク赤道会『続赤道標』{{JPNO|73015036}}
 
*{{Aya|赤道会|year=1975}} ポンチアナク赤道会『赤道標』{{JPNO|73012073}}
 
*{{Aya|赤道会|year=1975}} ポンチアナク赤道会『赤道標』{{JPNO|73012073}}
  

2020年6月22日 (月) 23:41時点における最新版

バトゥアンパルインドネシア語Batu Ampar)は、西カリマンタン地方の地名ポンティアナク市の南方数十kmのカプアス河の河口に位置する[1]

日本による占領時期には、1944年にSKK昭和組工作所が原野に造船工場を建設し、200トン船の建造を行うなど[2]、日本企業の工場地帯となった場所で[3]、ポンチアナク市の周辺では(日本以外の)外国権益が最も少ない島だった[4]

1944年の末頃に「住友さん」の近くに慰安所ができ、SKK昭和組工作所の社員が慰安所の管理人となって毎月の給料支払、毎月検診、管理運営の仕事をしていた[5]

私の通訳に中村君がいた。彼は沖縄の出身で、19歳位の時からシンガポールの近くの島で漁師をしていて、太平洋戦争が始まってからボルネオに来たとのこと。年齢のことにふれなかったがキラキラ(だいたい)30歳位、近くのカンポンに美人の妻と世帯を持っていた。私らの渡航寸前に邦人の現地妻は許されなくなったとか。彼と彼女は夫婦であった。

昭和19年(1944)の6月頃だったか彼に現地召集令が降った。小宴を催し万歳の声と共にポンチに帰えした。其の後彼女は海軍慰安所に入れられた。それを聞いた彼は彼女を連れ出し、追われてポンチャナ近く山に逃げ、ピストル心中をしたと暫らくしてポンチからの便りで知った。悲しきかな!

山名正八 SSKバトアンパル駐在員時代の回想 [5]

1945年8月15日に日本がポツダム宣言を受諾した後、西ボルネオに赴任していた日本人は、バトゥアンパルに集結し、同年9月8日にバタンチカル(Padang Tikar)からジャワ行きの船に乗船したが、民間人約200人の乗船した船は出航後まもなくトラブルがあってバタンチカルに引き返し、バトゥアンパルのトロアエル(Teluk Air)に日本人の避難場所として建設してあった住宅で同年10月10日まで過ごしていた[6]

付録[編集]

関連リンク[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 赤道会 (1976) ポンチアナク赤道会『続赤道標』JPNO 73015036
  • 赤道会 (1975) ポンチアナク赤道会『赤道標』JPNO 73012073