徳川義親

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徳川 義親(とくがわ よしちか、1886年10月5日 - 1976年9月6日)は、尾張徳川家第19代当主、戦前の侯爵貴族院議員。学究肌で冒険好きな人物として知られ、豊富な財力を背景に、徳川美術館徳川林政史研究所徳川生物学研究所などを創設、また様々な人物・活動のパトロンとなった。1927年のダンス不敬事件により貴族院議員を辞職した後、国家革新運動と南進論に傾斜し、1931年の三月事件を支援、1938年の排英運動を推進するなどした。1942年に日本軍政下のマラヤ第25軍軍政顧問に就任した。戦後、公職追放を受け、華族制度廃止等により爵位と資産の8割以上を喪失した。1947年から20年間、共栄火災の会長を務めた。

経歴

生い立ち

1886年10月5日、東京・小石川安藤坂上にあった越前松平家の本邸(松平茂昭邸)で、元福井藩(越前福井藩主松平春嶽(松平慶永(春嶽)の五男として生まれる[1]。幼名は錦之丞[2]。生後間もなく巣鴨の別邸に移り[3]、その後、小石川関口台町にあった慶永邸に転居[4]。3歳のとき父を亡くし[5]、8歳まで生母・糟屋婦志子(かすや ふじこ)に育てられた[6]。婦志子は慶永の側室だったため、義親やその兄姉は身分の違いを意識するよう育てられ、礼儀作法などを厳しく躾けられたという[7]

1892年11月、学習院初等科に入学[8]。1年生時に落第したため、学習院初等科の教師をしていた宇川信三の家に預けられる[9]。宇川の家は紀尾井町の長屋が多い地域の一角にあり、長屋に住む庶民層の子供たちと石蹴りめんこねっきなどをして遊び、清水谷公園(清水谷の小川でエビやダボハゼを釣るなどして過ごすうちに、逞しさを身につけたとされる[10]。教科書は読まずに「少年世界」の雑誌や小説を読み耽っていたため、成績は最劣等のままだった[11]

1902年9月、学習院中等科4年から、麻布桜田町にあった時習舎[12]に入塾し、共同生活を送る[13]。時習舎の規律は厳正で、1対1での勉強指導もあり、この頃義親は本気で勉強を始めたという[14]

著作物

著書

  • 徳川(1973) 徳川義親『最後の殿様 徳川義親自伝』講談社、1973年、全国書誌番号:73011083
  • 徳川(1963) 徳川義親「私の履歴書‐徳川義親」日本経済新聞社『私の履歴書 文化人 16』1984年、pp.85-151、ISBN 4532030862 初出は1963年12月。
  • 徳川(1959b) 徳川義親『とくがわエチケット教室』黎明書房、1959年、NDLJP:9543592 (閉)
  • 徳川(1959a) 徳川義親『尾張藩石高考』徳川林政史研究所、1959年、NDLJP:2490629 (閉)
  • 徳川(1958) 徳川義親『木曽の村方の研究』徳川林政史研究所、1958年、NDLJP:3008795 (閉)
  • 徳川(1942b) 徳川義親『新国民礼法』目黒書店、1942年、NDLJP:1450596
  • 徳川(1942a) 徳川義親『きのふの夢』那珂書店、1942年、NDLJP:1123504 (閉)
  • 徳川(1941b) 徳川義親『日常礼法の心得』実業之日本社、1941年、NDLJP:1449739
  • 徳川(1941a) 徳川義親「4 日常生活における礼法の修練」東京高等師範学校附属国民学校初等教育研究会『国民科修身教育の実践‐国民学校礼法教授要項案』大日本出版、1941年、NDLJP:1275481 (閉)、pp.20-26
  • 徳川(1940) 徳川義親『七里飛脚』国際交通文化協会、1940年、NDLJP:1685487 (閉)
  • 徳川(1939) 徳川義親『江南ところどころ』モダン日本社、1939年、NDLJP:1878583 (閉)
  • 徳川・朝倉(1937) 徳川義親・朝倉純孝『馬来語四週間』大学書林、1937年、NDLJP:1222953 (閉)
  • 徳川(1931) 徳川義親『じゃがたら紀行』郷土研究社、1931年、NDLJP:1879360 (閉)
  • 徳川(1926) 徳川義親『馬来の野に狩して』坂本書店出版部、1926年、NDLJP:983300
  • 徳川(1924) 徳川義親『貴族院改造私見概要』私家版、1924年、NDLJP:1910485 (閉)
  • 徳川(1921) 徳川義親『熊狩の旅』精華書院、1921年、NDLJP:964324
  • 徳川(1915) 徳川義親『木曽山』私家版、1915年、NDLJP:950927

雑誌記事

  • 植物学関係の論文については、徳川生物学研究所#徳川義親の研究を参照。
  • 徳川(1958) 徳川義親「親友大川君のこと」『新勢力 大川周明特集号』v.3、no.12、新勢力社、1958年11月[15]
  • 徳川(1942) 徳川義親「南方建設の進展」『太平洋』太平洋協会、1942年7月[16]
  • 徳川(1942) 徳川義親「南方経営私見」『太平洋』太平洋協会、1942年2月[17]

新聞記事

  • 1942年のマライ半島視察旅行の紀行文[18]
    • 徳川(1942-08-07) 徳川義親「馬来縦断記 (12)」『朝日新聞』1942年8月7日
    • 徳川(1942-07-25) 徳川義親「馬来縦断記 (1)」『朝日新聞』1942年7月25日
  • 徳川(1942-02-09) 徳川義親「文化啓発の手引役」『朝日新聞』1942年2月9日[19]
  • 徳川(1942-02-04) 徳川義親「(赴任の抱負)」『朝日新聞』1942年2月4日[20]
  • 1921年-1922年の欧州旅行前半の紀行文[21]
    • 徳川(1922-06-29) 徳川義親「西に旅して (NA)」『報知新聞』1922年6月29日
    • 徳川(1922-02-07) 徳川義親「西に旅して (1)」『報知新聞』1922年2月7日

徳川資料

義親は軍政顧問時代も日記をつけ続けており、また軍政顧問在任期間中の軍政関係資料を保存して日本に持ち帰った[22]。軍政関係資料(徳川資料)は防衛庁戦史部に寄贈され、マレー・スマトラの軍政の実態を知る上で貴重な資料となっている[23]

参考文献

下記の4つの論文をもとに若干の加筆修正を行なったもの[24]
  • 大石(1993) 大石勇「徳川義親と八雲町の『熊彫』」『徳川林政史研究所研究紀要』no.27、1993年、pp.93-158
  • 大石(1992) 大石勇「伝統工芸『熊彫』の創生‐大正14年度、北海道八雲町の農村美術運動」『徳川林政史研究所研究紀要』no.26、1992年、pp.155-191
  • 大石(1991) 大石勇「徳川義親と八雲町の農村美術運動」『徳川林政史研究所研究紀要』no.25、1991年、pp.135-196
  • 大石(1990) 大石勇「北海道八雲町における農村美術運動‐大正末期北海道八雲町における農村美術運動の展開」『徳川林政史研究所研究紀要』no.24、1990年、pp.215-269
  • 科学朝日(1991)科学朝日編『殿様生物学の系譜』朝日新聞社、1991年、ISBN 4022595213
  • 伊香(1989) 伊香俊哉「書評 小田部雄二著『徳川義親の十五年戦争』」立教大学史学会『史苑』vol.49、no.2、1989年9月、pp.100-103、DOI 10.14992/00001260
  • 小田部(1988) 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年、ISBN 4250880192
  • 中野(1977) 中野雅夫『革命は芸術なり‐徳川義親の生涯』学芸書林、1977年、全国書誌番号:78013751
  • 山口(1932) 山口愛川「投出しの尾張侯」『横から見た華族物語』一心社出版部、1932年、pp.19-22、NDLJP:1466470/21
  • 編注:以下の論文は参照したが、ヨイショが過剰な印象があり、また参照している文献が少ないため、あまり参考にならなかった。
    • 大石(1998) 大石勇「昭和恐慌と凶作の東北農村‐北海道農民が観た凶作地」『徳川林政史研究所研究紀要』no.32、pp.1-35
    • 大石(1997) 大石勇「東南アジアの視座から見た太平洋戦争」『徳川林政史研究所研究紀要』no.31、pp.1-28
    • 大石(1996) 大石勇「シンガポールにおける日本の軍政‐東南アジア民俗理解への道と軍政の相克」『徳川林政史研究所研究紀要』no.30、pp.11-36
    • 大石(1995) 大石勇「太平洋戦争(時)下の昭南島‐第25軍最高軍政顧問徳川義親と軍政」『徳川林政史研究所研究紀要』no.29、pp.21-51
    • 大石(1994b) 大石勇「大正13年、徳川義親の貴族院改造運動‐徳川義親「貴族院改造私見」を中心に」『徳川林政史研究所研究紀要』no.28、pp.37-61

関連文献

  • 川渕(2000) 川渕依子『手話讃美‐手話を守り抜いた高橋潔の信念』サンライズ出版、2000年、ISBN 4883250792
  • コーナー(1982) E.J.H.コーナー(著)石井美樹子(訳)『思い出の昭南博物館‐占領下シンガポ−ルと徳川侯』〈中公新書〉中央公論社、1982年、全国書誌番号:82050003
  • 中野(1973) 中野雅夫『昭和史の原点‐2 満州事変と10月事件』講談社、1973年、全国書誌番号:73023190
  • 中野(1972) 中野雅夫『昭和史の原点‐1 幻の反乱・三月事件』講談社、1972年、全国書誌番号:73004214
  • 中野(1963) 中野雅夫『橋本大佐の手記』みすず書房、1963年、NDLJP:2989228 (閉)

脚注

  1. 香山(2014)p=2、小田部(1988)p=14、科学朝日(1991)p=191、中野(1977)pp=27-28
  2. 香山(2014)p=2。小田部(1988)p=14。春嶽は、晩年の男子出産を喜んで、自分と同じ幼名を授けた(同)。中野(1977)p=27、科学朝日(1991)p=191
  3. 香山(2014)p=2
  4. 香山(2014)p=2、徳川(1963)p=89
  5. 香山(2014)p=2。徳川(1963)p=88では、「5歳のとき」
  6. 小田部(1988)pp=16-17、中野(1977)p=28、徳川(1941)p=序1
  7. 小田部(1988)pp=16-17、中野(1977)p=28、徳川(1963)pp=90-92、徳川(1941)p=序1
  8. 科学朝日(1991)p=191、中野(1977)p=30
  9. 香山(2014)p=2、小田部(1988)p=19、科学朝日(1991)p=191、中野(1977)pp=30-31、徳川(1963)p=92
  10. 科学朝日(1991)pp=191-192、小田部(1988)p=19、中野(1977)p=31、徳川(1963)p=92
  11. 科学朝日(1991)p=192、中野(1977)p=31
  12. 井上馨が、旧長州藩主の毛利家の人材育成のために毛利家に出資させて開設していた私塾(香山(2014)pp=2,22、小田部(1988)pp=19-20、中野(1977)pp=31-33)。義親の入塾時には、教員・事務員27名で、皇族や財閥、華族の子弟94名を指導していた(同)。
  13. 香山(2014)p=2、徳川(1963)p=89。科学朝日(1991)p=192、小田部(1988)pp=19-20および中野(1977)pp=31,33-34では、学習院中等科3年のとき、としている。
  14. 小田部(1988)p=20、中野(1977)pp=33-34
  15. 小田部(1988)p=216
  16. 小田部(1988)p=218
  17. 小田部(1988)p=218
  18. 小田部(1988)pp=145,218
  19. 小田部(1988)p=145
  20. 小田部(1988)p=144
  21. 香山(2015)p=40
  22. 小田部(1988)p=131
  23. 小田部(1988)p=131
  24. 大石(1994a)p=249