斎藤佑樹

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斎藤 佑樹
斎藤 佑樹

斎藤 佑樹(さいとう ゆうき、1988年6月6日 - )は、北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手投手)。愛称は「佑ちゃん」、「ハンカチ王子」「さいてょ」。

経歴

中学時代まで

群馬県太田市出身。漫画『MAJOR』を兄とともに愛読し、新田町立生品小学校(現・太田市立生品小学校)在籍中は地元学童野球チーム『生品チャンピオンズ』に一年次から在籍し主将を務める。同町立生品中学校(現・太田市立生品中学校)では軟式野球部に所属。群馬県大会では準優勝、関東大会ではベスト8まで進み、このころ地元紙・上毛新聞に取り上げられる。2002年夏の甲子園大会(第84回選手権大会)で群馬県代表・桐生市立商業高校の応援のために阪神甲子園球場へ足を運んだことが、甲子園に憧れを持つきっかけになった。

早稲田実業学校高等部時代

2004年、推薦入試で早稲田実業学校高等部に進学。実家を離れ、東京で兄と二人暮しを始める。野球部では和泉実監督の指導を受け、1年からベンチ入り。

2005年、背番号1をつけて臨んだ2年夏の西東京大会では、日本大学第三高校との準決勝で3本の本塁打を浴びてコールド負けを喫した。2年秋の都大会では新チームの副キャプテンを任された。準決勝では2度目の日本大学第三高校との対戦で完封勝利を挙げ、決勝も制し24年ぶりの優勝。同年11月の明治神宮野球大会では準決勝で駒澤大学附属苫小牧高校と対戦したがチームは敗れベスト4。この時初めて後に甲子園でのライバルとなる田中将大と対決している。

2006年、春の甲子園大会(第78回選抜大会)に出場。2回戦で関西高校を引き分け再試合の末勝利を収めるも、準々決勝で横浜高校に敗退。同年夏(3年時)の西東京大会では、決勝で三たび日本大学第三高校と対戦。延長戦の末サヨナラ勝ちを収め、夏の甲子園大会出場を決めた。

決勝再試合のスコアボード

同年夏の甲子園(第88回選手権大会)では、2回戦の大阪桐蔭高校戦で当時2年生ながら怪物スラッガーと呼ばれた中田翔と対決。4打数無安打3三振に封じ、これをきっかけにこの大会における斎藤の注目度が高まった。同大会で早実は26年ぶりに決勝戦に進出(荒木大輔を擁した1980年以来)。8月20日の決勝戦では、夏の甲子園大会で3連覇を目指す駒大苫小牧高校のエースに成長した田中との投手戦になり、延長15回でも決着がつかず、1969年夏(第51回選手権大会)の松山商業高校三沢高校戦以来37年振りの決勝引き分け再試合となった(→第51回全国高等学校野球選手権大会決勝)。翌日の再試合でも斎藤は自ら先発を志願し4連投、最後は田中を三振に打ち取って13奪三振で接戦を制し、早実を初の夏の甲子園大会優勝に導いた。この大会の全試合で先発し、2回戦から決勝再試合までただ1人で投げ抜いたその功績は広く賞賛され、田中との投げ合いは甲子園大会の歴史に残るものとなった。この大会での投球回69、投球数948はどちらも一大会における記録としては史上1位。一大会における奪三振78は、1958年の板東英二徳島商業高校)の83個に次いで歴代2位となった。

9月11日、自身の進路について記者会見の場で大学進学を表明。「自分は人間としても野球選手としても未熟。大学に進んで成長したい」と語る一方、日米親善高校野球大会でアメリカ遠征している間に気持ちが揺れたことも明かした。9月30日から兵庫県で開催された第61回国民体育大会(のじぎく国体)は、決勝戦で夏の甲子園大会決勝戦と同じく駒大苫小牧高校と対戦し、ここでも再び田中との対決となったが、結果は1 - 0で早実が勝利し斎藤は再び優勝投手となった。

早稲田大学時代

2007年早稲田大学教育学部社会科社会科学専修に入学し、早稲田大学野球部に入部。背番号は「16」。4月14日から始まった2007年東京六大学野球春季リーグ戦において、斎藤は開幕戦となる東京大学戦で先発を務め勝利投手になった。1年生春の開幕投手での勝利は、1927年の宮武三郎慶應義塾大学)以来80年振り。6月3日の優勝が懸かった早慶戦でも先発を任され、この試合で早稲田大学は勝利し、斎藤はリーグ戦優勝投手となった。斎藤のこのリーグ戦での成績は4勝(リーグ1位タイ)0敗、防御率1.65(同3位)。他にプロ野球ならセーブが付く場面での交代完了が2試合あり(東京六大学リーグにはセーブの制度はない)、チームの10勝中6勝に関与し優勝に大きく貢献した。また1年生投手としては史上初となるベストナインにも選出された。

6月、第56回全日本大学野球選手権大会では2回戦・準決勝・決勝の3試合に登板。準決勝・決勝では2日連続して先発を務め、それぞれ1失点で後続につないで2勝を記録、チーム33年ぶりの優勝に貢献し、1年生では史上初めて最高殊勲選手(MVP)に選ばれた。同年7月、アメリカで開催された第36回日米大学野球選手権大会日本代表に選出。代表チームでの背番号は「20」。第3戦で先発し、日本チームは敵地開催で初の優勝、斎藤は同大会日本代表の1年生投手としては史上初の勝利投手となった。しかし、リリーフで登板した第5戦では敗戦投手となり、この試合で高校3年の西東京大会以来続いていた、斎藤が先発した試合は負けないと言ういわゆる「不敗神話」も29でストップした。9月に始まった東京六大学秋季リーグ戦では、開幕戦となる対東京大学1回戦で先発を務め、勝利投手となる。1年生投手が春秋ともに開幕戦の先発を務めるのは1929年の古館理三(帝国大学)以来4人目、1年生投手が春秋ともに開幕戦勝利を収めたのは宮武以来80年ぶり。対法政大学4回戦ではリーグ戦初完投勝利(チームにとっても2季ぶり)を収め、早稲田大学の3季連続優勝がかかった慶應義塾大学との3回戦ではリーグ戦初完封に加え自己最多の15奪三振を記録、春に続き優勝決定試合での勝利投手となった。2007年秋期リーグでの成績のうち、防御率0.78は最優秀防御率賞で、2季連続のベストナインにも選ばれた。1年生投手の春秋連続ベストナイン受賞は史上初。また、4勝はリーグ最多勝、与四死球率1.55(57.2投球回で四死球10)はリーグ最少だった。

2008年、7月にチェコで開催された第4回世界大学野球選手権日本代表に選出。また秋季リーグ戦から背番号を「1」に変更し、自身最高の7勝(リーグ最多勝)を挙げ2季ぶりの優勝に貢献した。3回目のベストナインにも初の満票で受賞。優勝時のヒーローインタビューでは1年次からバッテリーを組んでいた細山田武史への感謝の思いを語った。

2009年、7月に開催された第37回日米大学野球選手権大会日本代表に選出。この年のリーグ戦は春4勝2敗、秋3勝2敗と本来の力を発揮できず、チームも優勝を逃した。本人はインタビューでこの年に球速を追い求めた結果フォームを崩してしまい、思った投球ができなかったと語っている。同年、秋季リーグ戦終了後に早稲田大学野球部第100代主将に就任。それに伴い背番号を「10」に変更。11月22日、史上初のプロ野球と大学野球それぞれの選抜チームによる交流戦『U-26 NPB選抜 対 大学日本代表』に先発投手として登板。翌日23日はオール早慶戦で3年ぶりに甲子園で登板。

早稲田大学時代の斎藤(2010年)

2010年7月30日から日本で開催された第5回世界大学野球選手権大会の日本代表に選出。秋季リーグ戦では、早慶戦2日目で早稲田大学と慶應義塾大学が勝率で並び、11月3日に50年ぶりの早慶優勝決定戦が行われることとなった。明治神宮野球場は超満員の36,000人の観衆を集め、その中斎藤は先発し8回途中までノーヒットノーランの好投をし、試合も10-5で早稲田大学が優勝。11月13日から開催された第41回明治神宮野球大会・大学の部でも1回戦から決勝戦まで登板し、同大会において早稲田大学初優勝に貢献。主将として大学最後の年にリーグ戦優勝、大学日本一というこれ以上ない有終の美を飾ることとなった。大学4年間を通じて、東京六大学野球史上6人目となる通算30勝300奪三振を達成(31勝323奪三振)。また世界大学野球選手権大会日米大学野球選手権大会に大学日本代表として4年連続選出されたのは史上初。

10月28日に開催されたプロ野球ドラフト会議にて、東京ヤクルトスワローズ北海道日本ハムファイターズ千葉ロッテマリーンズ福岡ソフトバンクホークスの4球団が1位指名し、抽選の結果、日本ハムが交渉権を獲得。同会議では早稲田大学の同期生である大石達也福井優也も、それぞれ埼玉西武ライオンズ広島東洋カープに1位で指名され(大石は広島を含む他5球団との競合)、プロ野球ドラフト会議において同一大学の投手3人が1位指名を受けたのは同会議史上初となった。10月30日から早慶戦を控えていたため当日には記者会見は行われず、早慶優勝決定戦翌日の11月4日に大石、福井とともに会見が開かれ、プロ入りへの意気込みを語った。12月6日に日本ハムとの初交渉に臨み、新人としては最高評価の年俸1500万円、契約金1億円、出来高5000万円(金額は推定)で仮契約した。12月9日には日本ハムの本拠地・札幌ドームにおいて、2003年新庄剛志以来7年ぶりの単独の入団会見が行われた。会見には監督の梨田昌孝と球団社長の藤井純一が同席し、背番号「18」のユニフォーム姿をお披露目した。その後、梨田が捕手となりマウンドでプロ第一球を披露し、トークショー、サインボール投げ入れなどのセレモニーが行われた。

卒業論文のテーマは「スポーツの地方興行と観客動員の地域の中での経済効果について」。日本ハムがかつて本拠地を東京から札幌に移転したことによる地域に与えた経済的影響などについて書いた。

プロ入り後

2011年4月17日札幌ドームの対千葉ロッテマリーンズ戦に先発でプロ初登板し、5回を失点4(自責点1)で初勝利。同期入団のルーキーの中で初勝利一番乗りとなった。投球については投手コーチの吉井理人から変化球が多い事を問題視され、直球の割合を増やす事を課題とされた。5月8日の対福岡ソフトバンクホークス戦(札幌ドーム)に先発で1回を10球で3者凡退に抑えたが、左脇腹の違和感を訴えて降板。左内腹斜筋の筋挫傷で全治2~3週間と診断され、出場選手登録抹消となった。6月29日に一軍復帰。7月22日からのオールスターゲームでは2試合の登板を無失点に抑え、スカイアクティブテクノロジー賞を受賞。シーズンでは故障もありながらローテーションの5番手に加わり6勝6敗防御率2.69とまずまずの成績を挙げた一方で、投球イニングの少なさ(QS率は42.1%)や被打率の高さ、WHIPは1.47と課題も残した。当時日本ハムの監督だった梨田昌孝は、この年亡くなった西本幸雄からシーズン前に斎藤の投球フォームについて「あいつの投げ方はあかん。左足が突っ立っとる。右腕が棒のようにかかっとるやないか。能見篤史阪神タイガース)のように、腕をしならせて投げるよう、指導せえ」と言われていたことを11月29日に行われた西本の告別式で明かした。

2012年3月19日、プロ入り2年目で自身初の開幕投手に選出され、3月30日の開幕戦(埼玉西武ライオンズ戦)にて9回1失点で初の完投勝利を挙げた。プロ野球の開幕戦で初完投勝利を記録したのは1962年柿本実中日ドラゴンズ)以来50年振り。パ・リーグでは1950年榎原好毎日オリオンズ)以来62年振り2人目。4月20日の対オリックス・バファローズ戦には初完封勝利をあげた。この日は一軍投手コーチ吉井理人の誕生日でもあった。6月6日の対広島東洋カープ戦(札幌ドーム)で自身の誕生日をバースデー勝利で飾るも、6戦連続で勝ち星から遠ざかるなど成績不振に陥り、7月30日に再調整のため出場選手登録抹消となった。当初は短期間で1軍復帰を目指す方針であったが、若手主体のフューチャーズに打ち込まれるなど2軍でも3試合続けて結果を残せず、早期昇格は白紙となった。

佑被弾社会人に6回4失点(2012年9月)

日本ハム斎藤佑樹投手(24)が9月13日、社会人のJX-ENEOS戦(鎌ケ谷)に先発し、6回10安打(1本塁打)4失点で降板した。4回までは無失点投球も5回1死一、 二塁から田畑秀也外野手(20=桐蔭学園)に右中間へ3ランを運ばれた。

6回は併殺崩れの間に4点目を失った。91球を投げて1奪三振、3四球だった。また、2軍降格後は初めて栗山英樹監督(51)も視察に訪れた。

二軍で低迷しているプロ野球・北海道日本ハムファイターズ斎藤佑樹投手(24)の“甘ちゃん体質”があらためて指摘されている。13日のプロアマ親善試合JXーENEOS戦で先発登板したものの6回10安打4失点と、またしても背信投球。二軍での登板6試合で0勝5敗、防御率6・05では一軍昇格など夢のまた夢で「お先真っ暗」といっていいだろう。

2年目の斎藤が現在、プロの壁にぶち当たっているのは誰の目にも明らかだ。才能を持った人間が、さらにたゆまぬ努力を重ねてしのぎを削る。そんなプロの世界での身の置き方にかつて「ハンカチ王子」と呼ばれていた男は、どうやら居心地の悪さを感じているようだ。

それが証拠に昨年、斎藤本人から思わぬ告白を受けた球界関係者が次のように現状を分析している。

「去年の早い時期に、佑ちゃんから『最近野球が面白くないんです』という相談を受けた。プロ野球の中に実際入ってみて、プロの選手がこれほどさまざまなトレーニングをしていることを知って面食らっているようだった。それだけで、それまで彼がどんな環境で野球をしてきたかが分かるよね。一言で言えば厳しさに対する耐性がないんじゃないかな。その違和感を今も感じているとしたら、プロとしては難しいのでは…」

「楽をして」とまでは言わないが、適度に頑張って長くメシが食えるほどプロは甘くない。

まだ何も成し遂げていない斎藤の“甘ちゃん体質”が改善されていないとすれば…。「彼は一体、プロに何を求めて入ってきたのだろうか」と言われても仕方がないだろう。

選手としての特徴

斎藤の投球フォーム(2006年)

プロ入り前

オーバースローから投げる平均球速約139km/h、最速150km/hのストレートとコーナーを突く制球力が持ち味とする。変化球はキレの良い縦のスライダーフォークボールカットボールツーシームシュート)を投げ分け、稀にチェンジアップカーブも混ぜる。ツーシームは高校3年の時に覚え、大学進学後に効果を発揮した。野球解説者大沢啓二は、『サンデーモーニング』(TBSテレビ)にて「球威そのものはあまりないが、頭がよく駆け引きがうまい」と評し、メジャーリーグを代表する左腕投手のヨハン・サンタナは斎藤の投球を見て「打者へのアプローチが違う。すごい!いつの日かこっちでプレーするのを見たい」と語った。

投球スタイルが早稲田実業学校の先輩・荒木大輔に似ているため、高校時代(特に本人が甲子園で優勝するまで)はメディアから「荒木2世」と呼ばれており、斎藤自身も荒木を尊敬しているという。また目標とする投手には、富士重工業硬式野球部のエース・阿部次男の名を挙げている。

投球数が150球を超えても球速を維持できるスタミナを有する。高校3年夏の甲子園の決勝戦だけでなく、同年の西東京予選の決勝戦でも221球投げており、最終イニングとなった11回表には149km/hの速球を投げている。また、大学4年間で故障や病気で離脱したことはなく、練習を休んだこともなかった。

高校2年までは、打たれたり味方が失策を犯したりするとマウンド上で感情を表に出すこともあったが、早稲田実業野球部のOBから「投手がマウンド上で怒って、何か得をするのか?」と言われ、以来マウンド上であまり表情を変えないようにしている。また、高校2年春の甲子園で打ち込まれたことをきっかけに、早稲田大学の先輩である佐竹功年を参考に膝を折り曲げて腰の位置を強制的に落とす投球フォームに改造したことで球質が向上し、これが夏の大会での優勝につながったという。フォーム改造に一役買ったのは宮本賢(当時早稲田大学野球部主将・後にプロでチームメイトになる)の助言であるという。

打者としては、高校3年時の甲子園大会で六番打者を務め、甲子園通算2本塁打を記録。大学時代では通算1本塁打を記録。

プロ入り後

プロ入り後は、調子の波の大きさが見られ、好投する試合もあれば、序盤からコントロールミスや死球などを出して崩れていく試合もあるなど、投球内容の変化が多い。

人物

家族は父・母・兄・祖母がいる。父はかつて群馬県立前橋工業高校や富士重工業硬式野球部に所属し、野球の練習に厳しかったという。3歳違いの兄は群馬県立桐生高校の一番打者として県大会ベスト4に進出している。

斎藤は早実入学当初、群馬県太田市の実家から約2時間かけて通学していたが、後に東京在住だった兄とアパートで二人暮らしを始めた。高校卒業まで兄は食事の世話をするなど斎藤の生活全般の面倒を見ていた。大学では入学時から野球部の安部寮に居住。

趣味は釣り。実家に帰った時には渓流釣りを楽しむ。好きな武将は織田信長。父親の所属や出身地もあってスバルの車を「ベンツよりポルシェより、いつかスバル車に乗りたい」というほど愛好している。愛車はスバル・レガシィアウトバックスバル・BRZ

日本ハムに同期入団した乾真大と容姿が似ていると言われることがある。2011年1月12日に放送されたフジテレビ系列『情報プレゼンター とくダネ!』では、斎藤のプロ初練習を生リポートするべくファイターズスタジアムに隣接する勇翔寮から生中継を行っていたが、斎藤より先に登場した乾が斎藤と間違われた。

佑ちゃんフィーバー

2006年

夏の甲子園大会で早稲田実業が勝ち進むにつれて、斎藤が試合中にマウンド上で丁寧にたたんだ青いハンカチで顔の汗を拭く姿が話題となり、その端正な顔立ちも相まって「ハンカチ王子」と呼ばれるようになる。インターネット発祥と言われたこの愛称はその人気とともにマスコミによって一気に広まった。世間ではこの青いハンカチに対する関心が高まり、早稲田実業にはこのハンカチに関する問い合わせが殺到、Yahoo!オークションでは定価400円の同じ種類のハンカチに対し、一時的に1万円を超える値がついた。百貨店ではハンカチの売り上げが急増し、ジャスダックに上場するハンカチメーカー・川辺の株が値上がりした。後にそのハンカチはニシオ株式会社が製造・販売していた『GIUSEPPE FRASSON(ジョゼッペ・フラッソン)』というブランドのものだと判明したが、その時はすでに販売が終了していたため、その後ニシオはサンリオタイアップし『幸せの青いハンカチ』と銘打ってハローキティの顔をあしらった青いハンカチを販売し約65万枚、約3億円を売り上げた。ちなみに青いハンカチを使う以前は黒木知宏千葉ロッテマリーンズ時代の背番号「54」入りのタオルを愛用し、高校に入ってから母親が近所の商店街で購入した青いハンカチを使うようになった。

この大会の早実の試合の平均視聴率NHK)は、3回戦12.7%、準決勝戦18.1%と徐々に数字を上げ、決勝戦は1990年代以降で最高の29.1%、瞬間最高視聴率は37.1%を記録。翌日の決勝再試合も平日にもかかわらず23.8%、瞬間最高視聴率30.4%を記録。注目を集めたこの大会で優勝投手となった斎藤は連日マスコミに大きく取り上げられ、大会終了後の日米大学野球選手権大会の選抜メンバーに選ばれ渡米すると、以前はほとんど報道されることもなかった同大会の模様が連日報道され、試合も生中継された。帰国の際には関西国際空港に約600人のファンが集まった。また、高校卒業後の進路についての報道が過熱していたことから、9月11日に進路に関する異例の記者会見が開かれた。会場となった早稲田実業学校のホールには150人以上の報道陣が集まり、テレビでも生中継された。

9月30日から開催された『のじぎく国体』では、開催前から野球会場があった兵庫県高砂市に斎藤の出場に関する問い合わせが集まり、早稲田実業学校の試合には連日観客が殺到、試合前日から徹夜組による長蛇の列ができた。試合当日には観客にケガ人が出る騒ぎとなり、入場制限が行われるなど厳戒態勢のもとでの試合となった。この大会に使用された高砂市野球場は、翌年の2007年に斎藤の愛称にちなんで『ハンカチメモリアルスタジアム』という愛称が付与された。

日刊スポーツ出版社発行の『輝け甲子園の星』など斎藤を扱った野球雑誌の売り上げが急激に伸び、週刊女性などの女性週刊誌の表紙を飾った。また、斎藤単独の写真集が発売され、斎藤をモデルにした曲・『青いハンカチ~君がくれた夏の日~』のCDが発売された。

「ハンカチ王子」という愛称は2006年の新語・流行語大賞のトップ10に入った。ただ、この受賞が日本学生野球憲章のアマチュア規定に抵触する恐れがあったため、言葉だけを表彰し斎藤の表彰式出席は見送られた。また、伊藤忠商事を始めとして複数の企業から特許庁へ商標出願がなされた。翌年注目を集めたゴルファーの石川遼には「ハニカミ王子」という愛称が付けられ、新語・流行語大賞を受賞している。

2007年

斎藤が早稲田大学に進学し野球部に入部したことで東京六大学野球が注目され、それまでマスコミでほとんど取り上げられることがなかった大学野球が、斎藤が登板する試合を中心に大きく扱われるようになる。この年から、日本テレビが放映権を取得し42年ぶりに地上波で東京六大学野球中継が放送されることになった。

この年の春季リーグ戦は斎藤の開幕登板が予想されたことからチケットを求める問い合わせが殺到し、史上初めてチケットぴあでの入場券前売りが実施された。4月14日の開幕戦は前年春の4倍となる約18,000人が詰めかけ、4月29日に先発した法政大学との第2戦では約28,000人を動員し、早慶戦以外では1992年以来の20,000人越えとなった。この日の夜に同じ明治神宮野球場で行われた東京ヤクルトスワローズ読売ジャイアンツ(巨人)戦の観客動員は29,654人で、東京六大学野球の観客数がプロ野球、それも従来首都圏で最大の動員力を持っていたとされる巨人戦に肉迫する結果となった。この試合で従来早慶戦以外では開放されない通称「三角内野」(第2内野席)が開放された。早稲田大学の優勝が決まった6月3日の早慶戦の第2戦では約36,000人の観衆が集まり立ち見が出るほどの超満員となった。満員になったのは1997年春の早慶戦以来10年ぶり。この観客数は当日行われたプロ野球交流戦の6試合中5試合を上回り、北海道日本ハムファイターズ阪神タイガース札幌ドーム)に次ぐ動員数となった。この試合の平均視聴率はNHKと日本テレビ合わせて14.3%を記録。

この春季リーグ戦の早稲田大学戦に訪れた観客の総数は11試合で約22万8000人、1試合平均2万727人集まり、前年度に比べ3倍近くに膨れあがった。この人気を受け、2008年から東京六大学野球連盟は史上初めて東京六大学野球のカレンダーベースボールカードが発売された。

2009年

速報!スポーツLIVEテレビ朝日)の初回放送(11月8日)のスタジオゲストとして大石達也と共に出演。自身初のスタジオ生出演で、代表に選ばれた『U-26 NPB選抜 対 大学日本代表』の試合に向けての意気込みを語るとともに、公の場で初めてプロ野球へ進む意志を表明した(「1年後プロに行きたいか」という質問に対し「○」の札を挙げた)。

2010年

斎藤が大学4年になりプロ野球ドラフト会議が近づくにつれて、再び多くの注目を集めるようになる。10月28日に開催された同会議はTBSテレビが全国ネットで生中継し、夕方の時間帯にもかかわらず平均視聴率14.4%を記録。この年のペナントレースの最高視聴率が14.3%(4月24日の巨人対広島東洋カープ戦、NHK)で、それをも上回る視聴率となった。瞬間最高視聴率は斎藤の交渉権を引き当てた日本ハム球団社長(当時)の藤井純一のインタビュー中で17.2%。2007年の中田翔に続き斎藤を引き当てた藤井の黄金の右腕にあやかり、その後「GOD HANDグッズ」が発売された。

11月3日の早慶優勝決定戦は、明治神宮野球場の収容人数35,650人に対し立見席が用意され、チケット販売枚数が36,000枚になり20年ぶりに完売となった。これによりマスコミ関係者には東京六大学野球連盟から大入袋が配られた。NHK総合によるテレビ中継は平均視聴率12.1%、瞬間最高視聴率は16.2%を記録。勝利投手となりヒーローインタビューの場で「最後に一つだけ言わせてください」と切り出し、「いろんな人から斎藤は何か持ってると言われ続けてきました。今日、何を持っているのか確信しました。それは、仲間です」と語った。この発言が話題を集め、その年の新語・流行語大賞の選考委員特別賞を受賞。2006年の「ハンカチ王子」に引き続き2度目の受賞で、これは野球界において史上初。

11月4日の記者会見当日に、『ニュースウオッチ9』(NHK)、『報道ステーション』(テレビ朝日)、『NEWS ZERO』(日本テレビ放送網)、『NEWS23X』(TBSテレビ)、『すぽると!』(フジテレビジョン)(以上、出演順)に生中継で出演した。

11月6日に放送された『S☆1』(TBSテレビ)に出演した当時早稲田大学野球部監督の應武篤良が、斎藤の入学時に熱狂的なファンの一部による盗撮や寮の部屋の覗きといった行動があったことを明かした。

12月9日の札幌ドームでの単独入団会見には、平日にもかかわらず約8,000人のファンが駆けつけた(2003年の新庄剛志の入団会見は約2,000人)。この模様は『情報ライブ ミヤネ屋』(読売テレビ)で全国ネット生中継され、北海道の民放5局とNHK、衛星放送のGAORAでも生中継された。新人選手の単独入団会見は球団史上初。

ファイル:Tegata shinkama.JPG
新鎌ヶ谷駅東武鉄道野田線ほか)に展示されている日本ハムの2011年新入団選手の銅板手形。一番左が斎藤の手形。

2011年

1月11日千葉県鎌ケ谷市の合宿所『勇翔寮』に入寮する際、約500人のファンや報道陣が集まり、その様子がワイドショーで生中継された。ファイターズスタジアムでの自主トレの期間はスタジアムに連日約2,000人ものファンが押し寄せ、史上初めて観客席が開放された。さらに1月16日に行われた『新入団選手歓迎式典・交流会』ではスタジアム史上最高の約11,000人(前年は512人)のファンが集まり、上空には取材ヘリが8機飛ぶ中、ルーキーでは異例の入団記念グッズ(Tシャツ・フェイスタオル・ストラップ)が発売され販売開始約1時間で完売。球場のある鎌ケ谷市には大きな経済効果がもたらされ、テレビ報道による同市のPRとしては約160億円の広告効果があった。

2月1日から沖縄県名護市で行われた春季キャンプにも、那覇空港に1,000人以上が出迎え、キャンプ初日には400人以上の報道陣が集まり、その一挙手一投足が連日マスコミで報道された。このキャンプ期間中に名護市のキャンプ地を訪れた観客数は計27,150人と、前年の11,550人の2倍以上になった。

4月17日のプロ初登板・初先発試合(ロッテ戦、札幌ドーム)は、放送権利を元々北海道テレビ放送が持っていたことからキー局のテレビ朝日が当初放送予定だった番組を急遽中止しスタッフを派遣、「緊急生中継」として、斎藤の投球回を中心にローカル枠で放送した。デーゲームにもかかわらず、この試合の北海道地区における平均視聴率は29.4%、瞬間最高視聴率37.0%を記録。中継した北海道テレビのレギュラーシーズンの野球放送としては史上最高の視聴率をたたき出した。

9月10日東北楽天ゴールデンイーグルス戦(日本製紙クリネックススタジアム宮城)では、2006年の夏の甲子園決勝以来となる田中将大との対決が実現した。チケットは前売りのみで売り切れてしまうほどの大きな盛り上がりを見せた。

2012年

3月30日、自身初の開幕投手をプロ初完投勝利で飾った試合(埼玉西武ライオンズ戦、札幌ドーム)の中継(札幌テレビ放送)において、平均視聴率31.6%を記録。それまでの最高記録だった2011年の斎藤がプロ初登板した試合中継(上記)の29.4%を上回り、北海道内の球団公式戦中継で最高記録を更新。瞬間最高視聴率は39.4%。

詳細情報

年度別投手成績

2011 日本ハム 19 19 1 0 0 6 6 0 0 .500 472 107.0 122 5 35 1 5 62 6 0 41 32 2.69 1.47
通算:1年 19 19 1 0 0 6 6 0 0 .500 472 107.0 122 5 35 1 5 62 6 0 41 32 2.69 1.47
  • 2011年度シーズン終了時

記録

投手記録
打撃記録
その他の記録

背番号

登場曲

関連企業

  • バウ企画(マネジメント契約)
  • ミズノ(アドバイザリープロスタッフ契約)

参考文献

関連項目

外部リンク

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