水俣病

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水俣病(みなまたびょう)(英語:Minamata disease)は、日本の化学工業会社であるチッソが海に流した廃液により引き起こされた公害病である。世界的にも「ミナマタ」の名で知られ、水銀汚染による公害病の恐ろしさを世に知らしめた。なお、舞台となった水俣湾環境庁の調査によって安全が確認され、現在では漁が行われている。

概説

環境汚染による食物連鎖により引き起こされた人類史上最初の病気であり、「公害の原点」といわれる。(2009年9月4日朝日新聞)

1956年熊本県水俣市で発生が確認されたことがこの病名の由来であり、英語では「Minamata disease」と呼ばれる。この後、新潟県下越地方阿賀野川流域で昭和電工が起こした同様の公害病の病名も水俣病であることから、これを区別するために前者を熊本水俣病、後者を第二水俣病または新潟水俣病(にいがたみなまたびょう)と呼称する。ただし、単に「水俣病」と言われる場合には前者を指す。水俣病、第二水俣病、イタイイタイ病四日市ぜんそく四大公害病とされ、日本における高度経済成長の影の面となった。

原因物質の特定

原因物質は容易に確定されなかった。1958年7月時点では、熊本大学医学部研究班は原因物質としてマンガンセレンタリウム等を疑っていた。当時、水銀は疑われておらず、また前処理段階の加熱で蒸発しており検出は不可能であった。しかも有機水銀を正確に分析し物質中の含有量を測定する技術は存在していなかった。しかし、翌年(1959年)7月、熊本大学水俣病研究班は、原因物質は有機水銀だという発表を行った(1959年10月、水俣病発見者細川一院長は、院内ネコ実験により、アセトアルデヒド酢酸製造工場排水を投与した猫が水俣病を発症していることを確認し、工場責任者に報告している(この時点ではメチル水銀の抽出までには至っていない)。しかし、工場の責任者は実験結果を公表することを禁じた[1])。これは、排水口周辺の海底に堆積するヘドロや魚介類から水銀が検出されたことによる。公式見解として、メチル水銀化合物 と断定したのは、1968年9月26日であった。これは、水銀中毒であることは確かだが、当時、数ある有機水銀のうちのメチル水銀が原因であるという確証が得られなかったことに起因する。この物質がメチル水銀であったことはすぐに判明したものの、初期の曖昧な内容が東大医学部などの反論を招いた。そして、それに対する再反論作成の必要に迫られるなどして原因特定の遅れを招くことになった為である。なお、当時の文献や、それを引用した文献では、原因物質は単に有機水銀と表記されていることがある。

水俣病発生地域

日本国内

水俣病の名を付与されているものは、水俣市周辺(八代海沿岸)、新潟県阿賀野川流域だけ。

日本国外

1970年代前後に中国吉林省から黒竜江省にかけての松花江流域で、メネン水銀および無機水銀による土壌汚染が明らかになった。1990年代になってアマゾン川流域でも水銀による住民の健康被害が確認された。中国のものは、吉林省吉林市にある化学工場の、チッソ水俣工場と同様の工程が原因。このほか、五大湖に面するカナダオンタリオ州グラッシイナロウズ、ホワイトドッグの地区などでも有機水銀中毒が報告されている。フィリピンミンダナオ島アマゾン川流域などの金鉱山下流の健康被害は採鉱で利用した金属水銀が環境中に放出され、一部は有機水銀に変化し魚介類にも蓄積されていることが明らかになっている。

臨床所見

おもな症状

水俣病はメチル水銀による中毒性中枢神経疾患であり、その主要な症状としては、四肢末端優位の感覚障害、運動失調、求心性視野狭窄、聴力障害、平衡機能障害言語障害振戦(手足の震え)等がある[出典 1]。患者には重症例から軽症例まで多様な形態が見られ、症状が重篤なときは、狂騒状態から意識不明をきたしたり、さらには死亡したりする場合もある[2]。一方、比較的軽症の場合には、頭痛、疲労感、味覚嗅覚の異常、耳鳴りなども見られる。

メチル水銀で汚染されていた時期にその海域・流域で捕獲された魚介類をある程度の頻度で摂食していた場合は、上記症状があればメチル水銀の影響の可能性が考えられる。典型的な水俣病の重症例では、まず口のまわりや手足がしびれ、やがて言語障害、歩行障害、求心性視野狭窄、難聴などの症状が現れ、それが徐々に悪化して歩行困難などに至ることが多い。これらは、メチル水銀により神経細胞が破壊された結果であるが、血管臓器、その他組織等にも作用してその機能に影響を及ぼす可能性も指摘されている[出典 1]。また、胎盤を通じて胎児の段階でメチル水銀に侵された胎児性水俣病も存在する[出典 1][出典 2]

上記のうち、いくつかの症状が同時に現れるものもあるが、軽度の場合には、臨床症状だけでほかの病気と識別診断するのは一般に困難である。このような様々な症状の程度は、一般にメチル水銀の曝露量に依存すると考えられるが、メチル水銀は既に体内に残留していないため、過去にさかのぼって曝露量を推定することは困難である。発症後急激に症状が悪化し、激しい痙攣や神経症状を呈した末に死亡する劇症型は、高濃度汚染時期に大量のメチル水銀を摂取し続けたものに見られる。この臨床症状は典型的なメチル水銀中毒であるハンター・ラッセル症候群(有機水銀を使用する労働者に見られた有機水銀中毒症)とよく一致し、これが水俣病原因物質究明の決め手となった。劇症型には至らないレベルのメチル水銀に一定期間曝露した場合には、軽度の水俣病や、慢性型の水俣病を発症する可能性がある。

一方、長らくの間、ハンター・ラッセル症候群という水俣病患者中最も重篤な患者、いわば「頂点」に水俣病像を限定してしまい、その「中腹」「すそ野」である慢性型や軽症例を見逃す結果を招いてしまったとの批判がある[3]。人体では、メチル水銀自体は比較的排泄されやすい化学物質の一つであるが、中枢神経系などに入り込みやすく、胎盤を通過しやすいという化学的な性質を有しており、その毒性作用は神経細胞に生じた障害によるものである。いったん生じた脳・神経細胞の障害の多くは不可逆的であり、完全な回復は今のところ望めないが、リハビリによりある程度症状が回復した例は多数存在する。一方で、若い頃に健康であった者が、加齢にともなう体力低下などにより水俣病が顕在化する場合も考えられる。

重症例はもちろん、軽症であっても、感覚障害のため日常生活に様々な支障が出てしまう。例えば、細かい作業が出来ず、あるいは作業のスピードが落ちる。怪我をしても気付かず、傷口が広がったり菌が侵入する原因となる。こうしたことから、「危なくて雇えない」などと言われ、職を失ったとする証言は判決文や出版物中に複数存在する。 水俣病公式発見前後、劇症型の激しい症状は、「奇病」「伝染病」などといった差別の対象となった。こうした差別のため、劇症型以外の患者が名乗り出にくい雰囲気が生まれ、熊本大学研究班に送られてくる症例は劇症患者ないしそれに近いものだけとなり、ますます水俣病像=ハンター・ラッセル症候群という固定観念が強くなってしまった。

原因

水俣病はメチル水銀による中毒性の神経系疾患である[出典 1]。メチル水銀中毒のうち、環境汚染の関与が認められるものをとくに水俣病と呼ぶとされ、環境汚染によってメチル水銀が魚介類等に蓄積し、それを摂取することによって発病したものを指す。なお、有機水銀が合成された理論的メカニズムは、今なお完全に明らかになっていない(これは、製造工程の設計時点では水俣病の発生を事前に回避することが難しかったことを示している)。

水俣病の発見と裁判

原因究明への動き

水俣湾とチッソ水俣工場の位置関係。1932年から1958年まで、水俣工場から排水路を経由して百間港に廃水が流された。その後は、1968年に水俣工場でのアセトアルデヒド生産が停止されるまで、排出先が水俣川河口に変更された。

日本で水俣病とされる病気が集団発生した例は過去に2回ある。そのうちの一つは、新日本窒素肥料(現在のチッソ)水俣工場が、アセトアルデヒドの生産に触媒として使用した無機水銀(硫酸水銀)から発生したとするメチル水銀である。アセトアルデヒドは、アセチレンを希硫酸溶液に吹き込み、触媒下で水と反応させることにより生産される。工場は触媒の反応過程で副生されたアルキル水銀化合物(主として塩化メチル水銀)を排水とし、特に1950年代から60年代にかけて水俣湾八代海)にほぼ未処理のまま多量に廃棄した。そのため、魚にメチル水銀の生体濃縮が起こり、これを日常的に多量に摂取した沿岸部住民等への被害が発生した。1960年には新潟県阿賀野川流域でも同様の患者の発生が確認され、新潟水俣病と呼ばれる。これは、阿賀野川上流の昭和電工鹿瀬工場が廃棄したメチル水銀による。 メチル水銀中毒が世界ではじめて報告されたのは1940年イギリスである。このときはアルキル水銀農薬工場における、従業員の中毒例であった。ハンターとラッセルによって、運動失調、構音障害、求心性視野狭窄がメチル水銀中毒の3つの主要な臨床症状とされたため、これをハンター・ラッセル症候群と呼ぶ。

1959年7月に有機水銀説が熊本大学や厚生省食品衛生調査会から出されると、チッソは「工場で使用しているのは無機水銀であり有機水銀と工場は無関係」と主張し、さらに化学工業界を巻き込んで有機水銀説に異を唱えた。これは当時、無機水銀から有機水銀の発生機序が理論的に説明されていなかったことによる。病気の発見から約11年が経過した1967年になり、ようやくチッソ工場の反応器の環境を再現することで、無機水銀がメチル水銀に変換されることが実験的に(いまだ”理論的”にではないことに注意)証明された。しかし、排水と水俣病との因果関係が証明されない限り工場に責任はないとする考えかたは、被害の拡散を防ぐための有効な手段をほとんど打てずに経年していく、という重大な問題を抱えることになり、結果として大量の被害者を生みだし、地域社会はもとより補償の増大などで企業側にとっても重篤な損害を生むもとになった。

原因の特定が困難となった要因の1つとして、チッソ水俣工場と同じ製法でアセトアルデヒドを製造していた工場が当時国内に7カ所、海外に20ヵ所以上あり、水銀を未処理で排出していた場所も他に存在したにも関わらず、これほどの被害を引き起こしたのは水俣のみであり、かつ終戦後になってから、という事実がある。この事実が化学工業界の有機水銀起源説の反証として利用されて研究が進まず、発生メカニズムの特定をとことんまで遅らせることとなった。

チッソ水俣工場では、第二次世界大戦前からアセトアルデヒドの生産を行っていたにもかかわらず、なぜ1950年過ぎから有機水銀中毒が発生したのかは、長期にわたってその原因が不明とされてきた。現在でも決定的な理論はまだ出現していない[4]。だが、生産量の増大ならびにチッソが1951年に行った生産方法の一部(助触媒)変更による水銀触媒のアルキル生成物の上昇が患者の大量発生になんらかの形で関係したと考えられている。生産工程の変更は、アセトアルデヒド合成反応器内の硫酸水銀触媒の活性維持のために助触媒として使用していた二酸化マンガン硫化第二鉄に変更(近年の研究で二酸化マンガンが有機水銀の中間体の生成を抑える事が明らかになりつつある)したために、塩化メチル水銀などのアルキル水銀を多く発生させることとなり、それが排水として流されたことが考えられている。また、チッソ水俣工場がアセトアルデヒド生産を開始したのは1932年からで、年間生産量は1954年までは209 - 9,159トンであったが、1950年代中頃から増産が続き、1956年には前年度の約1.5倍の15,919トンとなり、1960年には45,244トンで最高となった。また、当時の生産設備は老朽化が進んでいたが、経費削減で更新を怠ったため、廃液の流出が年々加速度的に増えつつあったことが当時の薬剤購入量から示されている。[5]このように、この時期の生産量の急激な増大や、老朽設備運転による廃液量の増加に代表される利益至上主義による化学プラントプロセス管理の無視、助触媒の変更等が組み合わさった結果、最終的には大量のメチル水銀の生成につながったと考えられている。最近の研究によると、工場から海域へ廃棄されたメチル水銀の量は0.6 - 6トンに達したと推定されている。やはり化学工業界が反証として利用していた事実、すなわち、自然の海域には無機水銀をメチル水銀に変換する天然の細菌が存在するが、それらが生成するメチル水銀はごく微量であると熊本県は主張している(ただし実際には誰も研究しておらず、現在までに水俣湾の有機水銀濃度がこの細菌によって増えたというデータは存在しないだけであるが)。

このように、「水俣病発生当時、工場はメチル水銀を流していなかった」、「自然の海域で無機水銀から生成した有機水銀が水俣病の原因となった」などの主張に明確な根拠はない。そもそもの遠因として挙げられるのは、当時世界中で採用されていたアセチレン法アセトアルデヒド工法である。これはあくまで「経験的」に効率よい水銀の安定回収ができる工法であり、理論的な生成機序の研究はされておらず、したがって有機水銀の中間体が出来ることは誰も気づかなかったのである。

発見に関わる経過

既に1942年頃から、水俣病らしき症例が見られたとされる。1952年頃には水俣湾周辺の漁村地区を中心に、猫・カラスなどの不審死が多数発生し、同時に特異な神経症状を呈して死亡する住民がみられるようになった(このころは「猫踊り病」と呼ばれていた)。

  • 1946年:日本窒素がアセトアルデヒド、酢酸工場の排水を無処理で水俣湾へ排出。
  • 1949年頃:水俣湾でタイ、エビ、イワシ、タコなどが獲れなくなる。
  • 1952年:熊本県水俣で最も早期の認定胎児性患者が出生。ただし認定は20年後。
  • 1953年:熊本県水俣湾で魚が浮上し、ネコの狂死が相次ぐ。以後、急増。
  • 1954年:8月1日付熊本日日新聞で、ネコの狂死を初報道。

水俣病患者で最古の症例とされるのは、1953年当時5歳11ヶ月だった女児が発症した例である[6]が、患者発生が顕在化したのは1956年に入ってからである。新日本窒素肥料水俣工場附属病院長の細川一は、新奇な疾患が多発していることに気付き、1956年5月1日、「原因不明の中枢神経疾患」として5例の患者を水俣保健所に報告した。この日が水俣病公式発見の日とされる。

  • 1954年:熊本県水俣でのちに水俣病と認定された患者が12人発生。ほかに5人死亡。

当初、患者の多くは漁師の家庭から出た。原因が分からなかったため、はじめは「奇病」などと呼ばれていた。水俣病患者と水俣出身者への差別も起こった。その事が現在も差別や風評被害につながっている。

  • 1956年:5歳11か月の女児がチッソ水俣工場付属病院小児科に入院。5月1日に水俣保健所が「原因不明の奇病発生」として水俣病を公表。後に水俣病の「公式確認」となる。この年、50人が発病し11人が死亡。

1956年頃から、水俣周辺では脳性麻痺の子どもの発生率が上昇していたが、1961年胎児性水俣病患者が初めて確認された。水俣ではその後、合わせて少なくとも16例の胎児性患者が確認されている。水俣病の原因物質であるメチル水銀は胎盤からも吸収されやすいため、母体から胎児に移行しやすい。さらに、発達途中にある胎児の神経系は、大人よりもメチル水銀の影響を受けやすいことが今日では明らかになっている。

  • 1957年:水俣保健所の実験で、水俣湾内で獲れた魚介類を与えたネコに奇病発生。
  • 1958年:熊本県が水俣湾海域内での漁獲を禁止。

水俣近海産の魚介類の市場価値は失われ、水俣の漁民たちは貧困に陥るとともに食糧を魚介類によらざるをえなかった為、被害が拡大されていくことになった。

水俣市では新日本窒素肥料に勤務する労働者も多いことから、漁民たちへの誹謗中傷が行われたり新日本窒素肥料への批判を行う者を差別することも多かった。[7]

1958年9月、新日窒水俣工場は、アセトアルデヒド酢酸製造設備の排水経路を、水俣湾百間港から不知火海(八代海)に面した水俣川河口の八幡プールへ変更した[8]。しかし、1959年3月から水俣病患者は、水俣湾周辺に留まらず、水俣川河口付近及び隣接する津奈木町や海流の下流部にあたる鹿児島県出水市と不知火海沿岸全体に拡大していった。このことによってアセトアルデヒド酢酸設備排水が水俣病を引き起こすことは明らかになった(これを「壮大なる人体実験」と水俣病関係者は呼んでいる)。 1959年10月、この事実を知った通産省は新日窒に対しアセトアルデヒド製造そのものの禁止はせずに、アセトアルデヒド製造工程排水の「水俣川河口への放出」のみを禁止した。新日窒は通産省の指示に従い、排水経路を水俣川河口から水俣湾百間港に戻し1968年まで排水を流し続けた。 また、同じ1959年の10月に新日窒附属病院の細川一院長は、院内ネコ実験により、アセトアルデヒド酢酸製造工場排水を投与した猫が水俣病を発症していることを確認し、工場責任者に報告している(猫400号実験)。しかし、工場の責任者は実験結果を公表することを禁じた[9]

同じく1959年には、熊本大学医学部水俣病研究班が水俣病の原因物質は有機水銀であると公表しており、水俣病の原因が新日本窒素肥料水俣工場から排出された水銀である疑いが濃くなった。同年11月12日には厚生省食品衛生調査会が水俣病の原因は有機水銀化合物であると厚生大臣に答申したが、その発生源については新日窒水俣工場が疑われるとの談話を残すに留まり、直接答申者である調査会の「水俣食中毒特別部会」は翌13日に解散させられた。この水俣病の有機水銀原因説に対して新日本窒素肥料や日本化学工業協会などは強硬に反論した。厚生省食品衛生調査会が水俣病の原因を有機水銀化合物と結論。

一方、1959年12月30日には、新日本窒素肥料は水俣病患者・遺族らの団体と見舞金契約を結んで少額の見舞金を支払ったが、会社は汚染や被害についての責任は認めず、将来水俣病の原因が工場排水であることがわかっても新たな補償要求は行わないものとされた。同時に工場は、汚水処理装置「サイクレーター」を設置し、工場排水による汚染の問題はなくなったと宣伝したが、のちに「サイクレーター」は水の汚濁を低下させるだけで、排水に溶けているメチル水銀の除去にはまったく効果がないことが明らかにされた。このほかこの年には、新日本窒素肥料は、排水停止を求めていた漁業組合とも漁業補償協定を締結した。これらの一連の動きは、少なくとも当時、社会的には問題の沈静化をもたらし、水俣病は終結したとの印象が生まれた。実際には、それまで水俣湾周辺に限られていた患者の発生も、1959年始めころから地理的な広がりを見せており、このあとも根本的な対策が取られないままに被害はさらに拡大していった。その一方、声を上げることのできない患者たちの困窮はさらに深まっていった。 1960年、政府は経済企画庁通商産業省厚生省水産庁からなる「水俣病総合調査研究連絡協議会」を発足させて原因究明にあたらせたが、何の成果も出すことなく協議会は翌年には消滅している。

このころ、清浦雷作東京工業大学教授はわずか5日の調査で「有毒アミン説」を提唱し、戸木田菊次東邦大学教授は現地調査も実施せず「腐敗アミン説」を発表するなど、非水銀説を唱える学者評論家も出現し(御用学者)、マスコミや世論も混乱させられた。

なお、2004年10月の水俣病関西訴訟における最高裁判所判決は、国や熊本県は1959年の終わりまでには水俣病の原因物質およびその発生源について認識できたとし、1960年以降の患者の発生について、国および熊本県に不作為違法責任があることを認定している。

  • 1961年:水俣市で女児(3歳)死亡。病理解剖で胎児性水俣病と確認。
  • 1962年:水俣病審査会、脳性小児マヒ患者16人を胎児性水俣病と認定。
  • 1963年:2月16日、熊大研究班の報告会で、入鹿山且朗熊大教授が「新日窒水俣工場アセトアルデヒド酢酸設備内の水銀スラッジから有機水銀塩を検出した」と発表[10][11]。</br>
  • 1964年:1月、白木博次東大医学部教授が、入鹿山らの研究結果を論拠に、水俣病の原因がメチル水銀であることを確定する論文を発表(これが1968年9月の厚生省による水俣病とメチル水銀化合物との因果関係の公式認定に繋がることとなった)。
  • 1965年新潟大学は、新潟県阿賀野川流域において有機水銀中毒と見られる患者が発生していると発表した。これはのちに新潟水俣病あるいは第二水俣病と呼ばれるようになる。

政府が発病と工場廃水の因果関係を認めたのは1968年である。1968年9月26日、厚生省は、熊本における水俣病は新日本窒素肥料水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因であると発表した。同時に、科学技術庁は新潟有機水銀中毒について、昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀を含む工場廃液がその原因であると発表した。この2つを政府統一見解としたが、この発表の前の同年5月に新日窒水俣工場はアセトアルデヒドの製造を終了している。このとき熊本水俣病が最初に報告されてからすでに12年が経過していた。なお、厚生省の発表においては、熊本水俣病患者の発生は1960年で終わり、原因企業と被害者の間では1959年12月に和解が成立しているなどとして、水俣病問題はすでに終結したものとしていたが、その後の展開から見てもこれは妥当な判断であったとは言い難い。事実、国は水俣病発生の責任を認めず、原告と国との裁判はその後も続いた。国は1990年に出された裁判所の和解勧告(9月に東京地方裁判所が、10月に熊本地方裁判所福岡地方裁判所が相次いで同じ趣旨の勧告を出す)を拒否しており、和解に転じるのは1996年のことである。また、原告で和解を拒否した水俣病関西訴訟の裁判は、上記のように、2004年10月まで続いた。

公害裁判

1967年、新潟水俣病の患者は昭和電工を相手取り、新潟地方裁判所損害賠償を提訴した(新潟水俣病第一次訴訟)。四大公害裁判の始まりである。政府統一見解後の1969年6月14日には、熊本水俣病患者・家族のうち112人がチッソを被告として、熊本地裁に損害賠償請求訴訟(熊本水俣病第一次訴訟)を提起した。

  • 1969年:公害被害者全国大会開催。水俣病、イタイイタイ病、三池鉱山の一酸化炭素中毒、森永ヒ素ミルク中毒、カネミ油症などの被害者代表百数十人が集まる。
  • 1970年:大阪厚生年金会館で行われたチッソ株主総会に、白装束の患者(一次訴訟原告家族)らが、交渉を拒みつづけたチッソの社長に直接会うために、一株株主として参加した。大阪・水俣病を告発する会発足。

1971年、新潟水俣病一次訴訟の判決があり、昭和電工は有害なメチル水銀を阿賀野川に排出して、住民にメチル水銀中毒を発生させた過失責任があるとして、原告勝訴の判決が下された。これは、公害による住民の健康被害の発生に対して、企業の過失責任を前提とする損害賠償を認めた画期的な判決となった。

  • 1971年:水俣病患者が新たに16人認定される。患者総数150人、うち死者48人。

1973年3月20日には、熊本水俣病第一次訴訟に対しても原告勝訴の判決が下された。すでに熊本県で水俣病が発生したあとに起きた新潟水俣病の場合と異なり、熊本での水俣病の発生は世界でもはじめての出来事であった。そのため、熊本第一次訴訟で被告のチッソは「工場内でのメチル水銀の副生やその廃液による健康被害は予見不可能であり、したがって過失責任はない」と主張していた。判決はこれについても、化学工場が廃水を放流する際には、地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有するとして、公害による健康被害の防止についての企業の責任を明確にした。

  • 1973年:環境庁が水銀値25ppm以上の底質(海底や川底)はすべて除去することを決める。これに基づき水俣湾の汚泥除去と埋め立てが行われる。
  • 1973年:水俣市の水俣病認定患者が自殺。

補償と救済

水俣病として認定された患者は原因企業であるチッソおよび昭和電工からの補償を受ける。補償内容は1973年に患者と原因企業間で締結された補償協定により、一時金一人1,600万~1,800万円、年金、医療費の支給などで、認定患者の数は約3,000人(死者含む)である。公害健康被害の補償等に関する法律(公健法)による水俣病の認定は、国(環境省)の認定基準にしたがって、国からの委託を受けた熊本県・鹿児島県および新潟市が行う。

  • 1974年:5歳で水俣病に冒され、18年間危篤状態だった女性が死亡。水俣病患者100人目の死者。
  • 1975年:チッソ幹部が水俣病の「殺人、傷害罪」で告訴される。昭和63年2月、チッソ元社長ら業務過失致死罪で有罪判決。
  • 1975年3月、水俣病関西患者の会が結成される。
  • 1976年熊本地方検察庁、水俣病でチッソ関係者を業務上過失致死傷害罪で起訴。4大公害事件で初の刑事訴追。昭和54年3月22日、熊本地裁で有罪判決(福岡高等裁判所支持)。

現在の認定基準は1977年に「後天性水俣病の判断条件」として公表された判断条件(昭和52年判断条件とも言われる)で、汚染地区の魚介類の摂取などメチル水銀への曝露歴があって感覚障害が認められることに加え、運動障害・平衡機能障害・求心性視野狭窄・中枢性の眼科または耳鼻科の症状などの一部が組み合わさって出現することとされている。

  • 1979年:熊本地域水俣病に関わる刑事事件で、被告の元チッソ幹部2人に有罪判決。

一方、この水俣病認定基準が医学的ではなく政治的で不十分であるとの批判があり、この認定から外れた住民(未認定被害者)の救済が今日まで続く補償・救済の主要な問題となってきた。

  • 1980年:水俣病認定申告者が国・県も被告に加え提訴。第3次訴訟。以後申請者の提訴が相次ぐ。平成5年、地裁が国・県の発生拡大責任を全面的に認める判決。
  • 1982年:「チッソ水俣病関西訴訟原告団(団長岩本夏義)」結成、チッソ水俣病関西訴訟提訴。
  • 1987年:水俣病第3次訴訟で、熊本地裁がチッソとともに初めて国と県の責任を認め、総額6億7,400万円の支払いを命じる。
  • 1988年:3月1日に行われた水俣病の刑事裁判の上告審で、最高裁がチッソ元社長と元工場長の上告を棄却し、禁固2年・執行猶予3年の有罪判決。刑事訴訟後から12年ぶりで、患者の公式確認以来では32年ぶりの決着である[出典 3]
  • 1989年:週刊新潮2月16日号pp31-32に〝水俣病「ニセ患者」も三十年〟として胎児性患者・上村智子の母親の意見を掲載

私らが裁判に勝ったら、一任派の人たちも千八百万円もらいなすった。それはまだいいのやけど、お金が出たばっかりに、〝自分もそげんとじゃ(そういう症状だ)〟と言う人の出てきたとです。それも、以前は伝染病やとか言うとった人やら、〝あそこの家は貧乏やから、魚しか食うもんがなくて病気になった〟とか、陰口叩いとった人に限って我も我もと申請ばするとです。ろくに魚も食べんのに水俣病になった人やら、四十年になった水俣に越してきた人やらが、〝水俣病や、水俣病や〟言うて・・・・。絶対、焼酎飲みすぎてアル中になった人やら、中風やらの人が申請しとるとです

  • 1990年12月5日、水俣病裁判の国側の責任者として、和解拒否の弁明を続けていた環境庁企画調整局長が自殺
    • 是枝裕和「しかし…ある福祉高級官僚 死への軌跡」(1992年 あけび書房) ISBN 4900423661
    • 山内豊徳「福祉の国のアリス」(1992年 八重岳書房) ISBN 4841211500
    • 鎌田慧「家族が自殺に追い込まれるとき」(1999年 講談社) ISBN 4062097028
    • 是枝裕和「官僚はなぜ死を選んだのか 現実と理想の間で」(2001年 日経ビジネス人文庫) ISBN 9784532190682
  • 1992年:水俣市の中学校の調査で、水俣病の偏見から文通を断られたり、修学旅行でからかわれるなどの差別に悩むケースが多いことがわかる。

国や原因企業などを相手に損害賠償請求訴訟を起こしていた未認定被害者らは、1995年自民党社会党新党さきがけ連立与党三党による調停を受け入れ、これら訴訟の大半が取り下げられた。このときの政治解決により、被害者には一時金260万円などが原因企業から支払われたほか、医療費の自己負担分などが国や県から支給されており、その対象者は約12,700人に上る。この政治解決を受け入れずに、訴訟を継続したのが水俣病関西訴訟である。

  • 1995年:政府、水俣病の未確認患者問題につき最終解決策を決定。村山首相、原因の確認・企業への対応の遅れを首相として初めて陳謝。国の法的責任には触れず。
  • 2001年:水俣病事件で国・熊本県の責任を認める初の高裁判決が下り、チッソに対する除斥期間経過も撤回した。関西水俣病訴訟団が国・熊本県に上告を断念するように申し入れたにも関わらず、国・熊本県が最高裁へ上告する。

2004年、最高裁は関西訴訟に対する判決で、水俣病の被害拡大について、排水規制など十分な防止策を怠ったとして、国および熊本県の責任を認めた。また認定基準については、昭和52年判断条件は補償協定に定めた補償内容を受るにたる要件として限定的に解釈すべきであるとし、その症状の一部しか有しないものについてもメチル水銀の健康影響を認め、チッソなどに600万円~850万円などの賠償の支払いを命じた。

  • 2005年:未確定患者が熊本地裁に集団提訴。

この判決の後、それまで補償を求めてこなかった住民からも被害の訴えや救済を求める声が急増した。国は医療費の支給などが受けられる新保健手帳の受付を再開したが、この受給者は2006年11月末までに6,500名を超えている。このほかに公健法による患者認定のあらたな申請者も4,600人にのぼっている。さらに1,000人以上を原告として、国や原因企業などを相手取った新たな損害賠償請求訴訟も提起されるなど、救済と補償問題は未だに解決には至っていない。

  • 2007年10月:「水俣病被害者互助会」が、胎児の時や幼少期にチッソ水俣工場が排出したメチル水銀の汚染被害を受けたとして、2億2800万円の損害賠償を求め熊本地裁に提訴。
  • 2007年:水俣病関西訴訟の81歳女性が認定求め提訴。

2007年11月19日チッソの後藤舜吉会長は救済問題で、新救済策について、「(チッソの負担分は)株主や従業員、金融機関などへの説明がつかない」として受入拒否を意向を正式表明[12]したが、鴨下一郎環境大臣は、チッソに負担を求めていく考えを明らかにした。

その前文において「国及び熊本県が長期間にわたって適切な対応をなすことができず、水俣病の被害の拡大を防止できなかったことについて、政府としてその責任を認めおわびするとともに、公健法に基づく判断条件を満たさないものの救済を必要とする方々を水俣病被害者として受け止め、その救済を図る」ことが定められた。しかし同法は、具体的な救済の範囲が示されていないことや原因企業チッソの分社化を含むものであったため批判の動きも見られた。

  • 2010年3月:未認定患者らでつくる水俣病不知火患者会(約2100人)が提訴した損害賠償請求について、熊本地裁は和解を勧告し、その和解協議において裁判所の所見が示された。

所見の内容は、水俣病と判定された原告に一時金210万円及び療養手当を被告の国・県・チッソが支給することとされており、原告被告双方が和解案を受け入れることを表明した。

  • 2010年4月16日:水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法の救済措置の方針を閣議決定。

水俣病が生ずる原因となったメチル水銀を排出した事業者であるチッソ、昭和電工の責任と、いわゆる関西訴訟最高裁判決において公害防止政策が不十分であったと認められた国及び熊本県の責任とを踏まえて、水俣病被害者をあたう限りすべて、迅速に救済することとし、一定の感覚障害を有する方を対象に一時金210万円及び療養手当等を支給することが定められた。

  • しかし、この一時金について、厚生労働省は「収入である」と判断し、一時金支給を受けている被害者が生活保護の支給を受けられなくなっているケースが多発している。こうした世帯は、熊本・鹿児島両県で100世帯を超える数で存在しているという。かえって生活苦が増したとの被害者からの声が相次いでおり、有識者からは「実情に合わない制度である」として問題視する意見が多い。熊本県などは制度の見直しを要望しているものの、厚生労働省は「原則通りの運用であり、変更予定は無い」としている[13]。これに関連して、一時金や和解金の支給開始直後から生活保護の支給を打ち切られた鹿児島県出水市在住の患者ら4人が、同市の処分を不服として、処分を取り消すよう鹿児島地裁2011年9月9日に訴訟を起こした[14]

水俣病と行政

1987年3月30日、熊本水俣病の第三次訴訟(熊本地裁)で、相良甲子彦裁判長(当時)は原告勝訴の判決を下し、国と県の責任を認めた。

2002年2月2日、チッソは最終処分場(いわゆる八幡プール)の外周道路及び護岸を水俣市に寄付を申し入れた。さらに2002年10月7日、水俣市は寄付を受入れ、所有権移転登記した(出典:有印公文書がブログで公開されている)。現在では、八幡プールの外周道路へは、自由に市民や観光客が出入りで可能であり、護岸の劣化した様子を観察できる。

2004年10月、熊本水俣病についての政府の責任を認める判決が最高裁においてなされた。公害に対する政府の責任を明確にしたという意味では画期的な判決ではあるが、被害者の立場からすればあまりにも遅すぎる判決であった。

後藤田正晴皇太子徳仁親王小和田雅子の結婚について、雅子が水俣病を引き起こしたチッソの社長を歴任した江頭豊の孫にあたることから、患者の憎悪や国民の不満が皇室に向くことを危惧し、「皇居に莚旗が立つ」と反対した。しかし水俣病患者から皇室に抗議行動がされたことはない。

行政訴訟

平成26年5月16日、国と熊本県に対し、食品衛生法に基づく被害実態調査と違法性の確認を求める行政訴訟が起こされた[15]

厚生省(当時)は、「すべての魚介類が汚染されているわけではない」などとして食品衛生法の適用を見送った。一方で、東日本大震災後の原子力発電所事故による食品への放射性物質の汚染に対しては、これと同様に、すべての食品が汚染されているわけではないにも関わらず、食品衛生法に違反するものとして解釈を示し、都道府県等に対して販売されないよう処置されたいと通達[16]しており、両者の解釈に齟齬が生じている。

慰霊

水俣病資料館にある、水俣メモリアルの一部「祈りの噴水」

水俣病公式確認から40年目に当たる1996年、水俣湾埋立地に隣接する水俣市明神地区に水俣病メモリアルが完成した。その後、水俣病公式確認から50年目に当たる2006年4月30日、水俣湾親水護岸に水俣病慰霊の碑が建立された。碑には行政によって認定された犠牲者314名の名簿が納められた。名簿に記載された犠牲者は認定死亡患者の2割に過ぎず、それも一般に公開されないことを条件に記載を承諾したものだった。これは水俣病患者もその遺族も、いまだに続く水俣病や水俣病患者に対する差別を恐れた結果である。なお、水俣病未認定死亡患者は名簿にその名を記載することさえ許されていない。これらの事実は、水俣病が与えた社会的影響が未だ解決には程遠い事や、水俣病の認定制度の問題点を浮き彫りにしている。

政府は水俣病に対して積極的な解決を図るとしているが、認定基準を改めないなど実質的な進展は見られない。

差別と中傷

水俣病に対しては、発生当初から差別や中傷が行われてきた。2000年代以降は沈静化したとされていたが、2014年5月1日に、水俣病慰霊式の様子がテレビニュースで放映された際、出演しインタビューに応じていた認定患者で水俣市立水俣病資料館の語り部の会長を務める男性が、ニュース放映日以降、「いつまで騒ぐのか」などの中傷電話を継続的に受けている実態が明らかになった[17]

他、2010年6月に熊本県内で行われた中学校サッカー部同士の試合で、水俣市内の中学校チームの選手に対し、対戦校の部員が「水俣病、触るな」などの暴言を繰り返し行っていたことも判明している。

第三水俣病

1973年(昭和48年)5月22日、朝日新聞により福岡県大牟田市の「有明海に第3水俣病」と報道され全国に水銀パニックが発生したが、その後の調査により誤報である事が判明した。

また、河川の堆積物から多量の水銀が発見された新潟県関川水系でも、約10名の水俣病類似症状の発生が1973年に報告された(関川水俣病)が[18]、1971年(昭和46)の患者認定基準を適用した結果、否定された。関川水系の水銀は流域の工場に由来するものと、上流部にある黒姫山妙高山新潟焼山などの火山由来によるものとの双方が起源となっている。

また、山口県徳山市(現周南市)も第三水俣病として問題になったことがあったが、徳山は無機水銀であり水俣病ではないとされた。無機水銀を含むヘドロは徳山港埋立地に今なお存在している。(徳山の公害概要)

環境汚染

水俣市内には、多くの廃棄物が埋められていることは、「第4号公害調査報告書(昭和50年度~昭和51年度前期)水俣市市民部公害課発行」に記されている。この報告書が発行された昭和52年3月は、水俣病訴訟の時期であり、当時の浮池正基水俣市長「人間回復と環境復元対策を慎重に、かつ早期に実現し・・・」と巻頭に記している。なお埋設廃棄物・土壌・地下水汚染等の環境汚染について明記した書籍は他に見当たらず貴重な文献であり、水俣市資料センターで閲覧できる。 工場から排出される廃棄物を埋め立てた八幡プールの一部には、水俣クリーンセンターや水俣エコタウンが立地している。周辺の擁壁や石垣の隙間からは、カーバイト屑を含む高アルカリの地下水が湧き出ていることが現地で確認できる。

水俣病を描いた作品

小説・ルポルタージュ
  • 武田泰淳 - 『鶴のドン・キホーテ』1957年(水俣病に言及した最初の小説だろう。すでにチッソが原因企業であることを会社も地域住民も知りつつ隠している地域事情が描かれている)
  • 水上勉 - 『不知火海沿岸』1959年12月(『別冊文藝春秋』(70号)に掲載。事件の舞台を水潟市とし、新潟水俣病の発生を予見している)
  • 水上勉 - 『海の牙』1960年(『不知火海沿岸』を大幅に加筆し改題)
  • 石牟礼道子 - 『苦海浄土 わが水俣病』1969年(この作品によって日本中に水俣病が知られるようになった)
  • 石牟礼道子ほか - 『みなまた 海のこえ』1982年(絵本)
  • 吉田司 - 『下下戦記』1987年
絵画・写真
映像
  • 土本典昭 - 『実録 公調委・勧進・死民の道』
  • 土本典昭 - 『水俣一揆−一生を問う人びと』1973年
  • 土本典昭・小池征人・有馬澄雄-『水俣病-その20年-』1976年(ドキュメンタリー
  • 土本典昭 - 『水俣 患者さんとその世界』 1970年(ドキュメンタリー)
  • 土本典昭 - 『回想 川本輝夫 ミナマタ 井戸を掘ったひと』1999年(ドキュメンタリー)
  • 土本典昭 - 『みなまた日記 甦える魂を訪ねて』 2004年(ドキュメンタリー)
  • 佐藤真 - 『阿賀に生きる』1992年(新潟水俣病を題材にしたドキュメンタリー)
音楽
漫画
演劇

脚注

  1. 1962年8月、当時工学部大学院生の宇井純が写真家桑原史成と共に新日窒附属病院を訪ねた際、猫の実験に関するノートを発見。後日、細川一医師(愛媛県三瓶町に帰郷していた)を訪ね確約のうえ、1963年3月と10月の『技術史研究』誌上にて、富田八郎(とんだやろう)の筆名で「水俣病(1),(2)」を発表した。
  2. 劇症型患者の場合、直接の死因としては、大人では食物の誤嚥によって引き起こされる肺炎(嚥下性肺炎)が多く、幼児及び胎児性患者では痙攣によるショック死、食物をのどに詰まらせたことによる窒息死が多く見られた。
  3. 関礼子『新潟水俣病をめぐる制度・表象・地域』(東信堂、2003)などに詳しい。
  4. 1957年から1960年まで水俣工場長だった西田栄一は当初、アセトアルデヒドを疑ったが、戦後の生産量が戦前のピーク期(1940年頃)に達していなかったことから、工場排水が原因ではありえないと結論付けた。
  5. 「水俣病の科学」参照。ただし本書の正確性については、鈴木譲宮沢信雄から批判があり、著者と論争となっている。
  6. この女児は1953年12月頃から、さまざまな症状(よだれ・嘔吐・歩行障害・言語障害・痙攣)を発するようになった。女児は1956年3月15日に死亡し、後に「水俣病公式認定患者第1号」に認定された(『水俣病事件四十年』 p.99-100)。
  7. 水俣市はチッソによって発展した、いわゆる企業城下町である。当時も住民の約7割が、チッソと何らかの関係を持っていたといわれている。
  8. 工場ではこの残渣プールに排水を送り、沈殿物を除去してから水俣川河口に放出するようにしていた。しかし、プールは露天だったため、降雨によりプールから排水が溢れ出て、直接不知火海に流出していった。工場側の見解では、排水が疑われる原因は色(赤茶色。主に鉄分によるもの)にあり、見た目を良くすれば漁民たちの非難をかわせるものと考えていた。
  9. 実験結果が公になったのは1970年7月の水俣病訴訟の細川博士の臨床尋問によってだった。
  10. 熊本大学「新聞見出しによる水俣病関係年表」から1963年2月17日及び22日付熊本日日新聞参照 [1][2][3]
  11. リンク先:「水俣病:民主主義と正義への困難な道のり」[4]P8下段参照)。
  12. チッソ株式会社は同社ウェブサイトの「水俣病問題への取り組みについて」と題するページにおいて、新救済策受入拒否の理由を説明していた。「1. これまでの経緯について 1)補償協定の成立」の項では、1973年7月に患者各派との間に締結された協定について「その成立過程においては、一部の派との間に極めて苛烈な交渉が行われました。それは、多数の暴力的支援者の座り込みによる会場封鎖の下で、威圧的言動や行動により応諾を迫られ、果ては社長以下の会社代表が88時間にわたり監禁状態に置かれるなど、交渉と言うにはほど遠いものでありました。そればかりか、多くの社員が警備中や出勤途上でしばしば暴行を受け、けが人が絶えない有様でした。」[5]と述べるなど、これまでの補償すら同社にとっては不当あるいは過大なものであったかのような説明となっていた。なお上記の記述は、2010年3月現在「この補償協定の成立過程におきましては、大半の会派とは話し合いでの決着を図りましたが、一部の派との交渉は、多数の過激な支援者の座り込みのもとで、威圧的言動や行動により応諾を迫られ、一時は社長以下の会社代表が88時間にわたり監禁状態に置かれるなど、極めて苛烈なものとなり、さらには従業員が暴行を受けることもありました。」[6]と変更されている。
  13. 水俣病百世帯、生活保護停止…原則通りと厚労省 読売新聞 2011年6月9日
  14. 水俣病:和解金で生活保護打ち切り 被害者4人が提訴 毎日新聞 2011年9月10日
  15. 2014年5月16日朝日新聞デジタル
  16. 厚生労働省医薬食品局食品安全部長通知(食安発0317第3号)
  17. 水俣病:語り部の会会長宅に中傷電話「いつまで騒ぐのか」 毎日新聞 2014年6月10日
  18. 「関川水俣病」から「第三水俣病」への視座大分県立芸術文化短期大学研究紀要 33 pp.67-86 19951231

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 坂本 峰至, 赤木 洋勝「水銀の毒性と健康影響」、『廃棄物学会誌』第16巻第4号、一般社団法人 廃棄物資源循環学会、2005年、 185-190頁、 テンプレート:JOI、2012年10月7日閲覧。
  2. 原田 正純「有機水銀による精神薄弱 2症例からみた先天性水俣病の診断について」、『脳と発達』第6巻第5号、日本小児小児神経学会、1974年、 378-387頁、テンプレート:JOI、2012年10月7日閲覧。
  3. 毎日新聞メディア編成本部 毎日新聞戦後の重大事件早見表 1991年5月25日印刷 1991年6月10日発行 沢畠 毅 p.378 ISBN 4-620-30794-7

参考文献

  • 『水俣病』(赤本):(1966年 熊本大学医学部水俣病研究班):医学論文集。水俣病医学研究者の最初のバイブル。表紙が赤いことから関係者の間では「赤本」と呼ばれる。
  • 『公害の政治学 水俣病を追って』(1968年 宇井純/三省堂新書)
  • 『水俣病−水俣病研究会資料』:(1969年 富田八郎/水俣病を告発する会):宇井純が富田八郎(とんだやろう)のペンネームで著した水俣病の古典的科学論文集。
  • 『水俣病に対する企業の責任-チッソの不法行為』:(1970年 水俣病研究会):水俣病裁判を患者勝利に導いた。
  • 『公害原論』(1971年 宇井純/亜紀書房)
  • 『認定制度への挑戦 水俣病に対するチッソ・行政・医学の責任』:(1972年 水俣病研究会):認定制度の問題点を明らかにした。
  • 『講座 地域開発と自治体2 公害都市の再生・水俣』:(1972年 宮本憲一編):最初の社会科学論文集。
  • 『水俣病−20年の研究と今日の課題』(青本):(1979年 有馬澄雄 編集/青林舎 発行):医学論文集。水俣病研究者のバイブル。表紙が青いことから関係者の間では「青本」と呼ばれる。
  • 『水俣の啓示(上・下)不知火海総合調査報告』:(1983年 色川大吉他)
  • 『新編 水俣の啓示 不知火海総合調査報告』:(1995年 色川大吉他):水俣の啓示 上・下を編集して1冊にしたもの
  • 『水俣病事件資料集(上・下巻)』:(1996年 水俣病研究会):上・下巻合わせて2700頁に及ぶ資料集。1926年から1968年までの水俣病関連重要資料を水俣病研究会が20年余にわたって編集。
  • 『水俣病研究(1)--(4)』:(1999--2006 水俣病研究会):水俣病研究会が編集した水俣病関連重要論文集・資料集。
  • 『縮刷版「告発」』・『縮刷版「告発」 続編』(1971年・1974年 「告発」縮刷版刊行委員会):1969年から1973年まで発行された水俣病を告発する会の機関紙「告発」の縮刷版。
  • 『縮刷版「水俣」』(1986年 水俣病を告発する会):1973年に「告発」から「水俣 患者とともに」に名を改めた水俣病を告発する会の機関紙の縮刷版。
  • 宮澤信雄『水俣病事件四十年』(1997年 葦書房
  • 東島大 著、『なぜ水俣病は解決できないのか』弦書房、2010年、ISBN 4863290357

関連項目

外部リンク

環境省(環境庁)
水俣病の原因究明(初期の研究年譜)
地元大学
地元自治体
水俣病資料館
地元マスコミ
支援団体
関連訴訟
水俣病関連資料データベース
水俣病関連年表
水俣病入門
国会論議