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2020年1月8日 (水) 04:04時点における版

{{日本の内閣総理大臣 |代数 = [[第1次海部内閣|76]]・[[第2次海部内閣|77]] |名前 = 海部 俊樹<br />(かいふ としき)<br />[[Image:Kaifu Toshiki 1-2.jpg|100px]] |生年月日 = {{生年月日と年齢|1931|1|2}} |出生地 = [[愛知県]][[名古屋市]] |出身校 = [[早稲田大学]]第二法学部卒業 |資格 = [[法学士]] |前職 = 衆議院議員秘書<br />国家基本政策委員会委員 |世襲 = 無 |就任 = [[1989年]][[8月10日]] |退任 = [[1991年]][[11月5日]] |選挙区 = [[愛知県第9区]] |当選回数 = 16回 |党派 = [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] |没年月日 = (存命中) |花押 = }} '''海部 俊樹'''(かいふ としき、[[1931年]]([[昭和]]6年)[[1月2日]] - )は、[[日本]]の[[政治家]]。前[[衆議院議員]](16期)。[[内閣総理大臣]](76、77代)、[[大蔵大臣]](87代)、[[文部大臣]](98・108代)、[[新進党]][[党首]](初代)、[[自由改革連合]]代表(初代)、[[自由民主党総裁]](第14代)を歴任。 == 略歴 == [[Image:小渕・小沢・海部.jpg|400px|thumb|[[自民党総務会]]で新幹事長が了承され握手する[[小渕恵三]]幹事長、[[小沢一郎]]前幹事長、[[海部俊樹]]首相。[[1991年]][[4月8日]]撮影]] 初の昭和生まれの内閣総理大臣でもある。派閥は[[二階派]]に属した(最高顧問)。[[2009年]]の衆議院解散の時点で、衆議院議員では連続当選回数16回、勤続年数49年と現職トップだった。 * [[1931年]] - [[愛知県]][[名古屋市]]に写真館を経営する家に生まれる * [[1948年]] - 旧制東海中学(現:[[東海中学校・高等学校|東海高校]])卒業 * [[1951年]] - [[中央大学]][[専門部]]法科卒業 * [[1952年]] - [[早稲田大学]][[法学部|第二法学部]]に[[編入学]] * [[1954年]] - 早稲田大学第二法学部卒業 * [[1956年]] - 早稲田大学[[大学院]]法学研究科中退 * [[1960年]] - [[11月20日]] [[第29回衆議院議員総選挙]]に全国最年少で当選 * [[1966年]] - [[8月1日]]、労働政務次官([[第1次佐藤内閣第3次改造内閣]]) * [[1974年]] - 12月9日、[[内閣官房副長官]]([[三木内閣]]) * [[1976年]] - 12月24日、[[文部大臣]]([[福田赳夫内閣]]) * [[1985年]] - 12月28日、文部大臣([[第2次中曽根内閣第2次改造内閣]]) * [[1989年]] - [[8月10日]]第76代内閣総理大臣 * [[1990年]] - [[2月28日]]第77代内閣総理大臣 * 1990年 - 12月29日、第2次海部改造内閣発足 * [[1991年]] - 11月、内閣総理大臣辞任 * [[1994年]] - 6月、自民党離党。7月、[[自由改革連合]]代表。12月、[[新進党]]初代党首 * [[1998年]] - 1月、新進党分党に伴い無所属(院内会派「無所属の会」) * [[1999年]] - 1月、[[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]最高顧問 * [[2000年]] - 4月、[[保守新党|保守党]]最高顧問 * [[2002年]] - 12月、保守新党最高顧問 * [[2003年]] - 11月、保守新党の解党・自民党への合流により、復党 * [[2009年]] - 8月30日、[[第45回衆議院議員総選挙]][[落選]]、同日政界引退を表明。 == 政治姿勢 == 初当選以来、[[番町政策研究所|三木派]]に所属し、[[三木武夫]]の秘蔵っ子として知られていた。また海部自身もクリーンな政治家として三木を尊敬し、「わかりやすく、きれいな政治」を信条としている。「理想の政治家は?」との問いに対しては、常に「三木武夫」と回答していたほどである。また三木が総裁選で[[田中角栄]]に敗れた時には人目をはばからず号泣したという逸話もある。早稲田大学大学院時代に、[[明治大学]]大学院にも学びにくるほどであった。 三木派が河本派に移行してからは、[[1994年]]に離党するまでの間、名実共にナンバー2として[[河本敏夫]]を支えたが、河本とは対照的に資金的な貢献が少なかったため、「財布閉じ器」と渾名される。ニューリーダーの次を狙う政治家として[[橋本龍太郎]]、[[藤波孝生]]らと共に「[[ネオ・ニューリーダー]]」と呼ばれた。 [[早稲田大学雄弁会]]の先輩である[[竹下登]]ら早大出身者との親交が深かったため、「現住所河本派・本籍竹下派」とも言われた。「竹下が総理になった暁には、河本派を離脱して竹下のもとに馳せ参じるのでは?」と囁かれた事もある。 代表的な文教族であり、[[福田赳夫内閣]]と[[第2次中曽根内閣]]で文部大臣を務めている。文部大臣時代の功績としては[[共通一次試験]]の導入があげられる。また「[[青年海外協力隊]]」の生みの親のひとりとしても知られている。 == 総理総裁就任と辞任 == [[Image:加藤・西岡・小沢・海部.jpg|300px|thumb|[[特別国会]]にて左から[[加藤六月]]、[[西岡武夫]]、[[小沢一郎]]、[[海部俊樹]]。[[1990年]][[7月27日]]撮影]] [[宇野宗佑]]が[[第15回参議院議員通常選挙]]の大敗北により辞任することになったが、宇野を指名したのが竹下派であったため、竹下派からは宇野の後任の総裁選への出馬を見送ることになった。[[リクルート事件]]で有力政治家が謹慎している中で、極端な世代交代を避けたかった竹下が、「'''時計の針を進めず、戻さず'''」として年齢の割に当選回数があり、かつ同じ稲門(早稲田大学)として近い関係にあった海部を首相にする構想を打ち出したことから、思いがけず総理総裁の座が転がり込んできた。[[自民党総裁選]]では海部の他に、[[林義郎]]と[[石原慎太郎]]が出馬したが、竹下派の支持を得た海部が両者をおさえて[[自民党総裁]]に選ばれた。 参院選の結果、自民党が過半数割れに追い込まれたことにより、[[ねじれ国会]]に突入した。自民党が依然過半数を占めていた衆議院は海部俊樹、野党が過半数を確保した参議院は[[日本社会党委員長]]の[[土井たか子]]を指名した。[[日本国憲法第67条]]第2項の規定に基づき、[[両院協議会]]にて協議されたが両院の意見は一致せず、衆議院にて指名された海部が内閣総理大臣に就任した([[衆議院の優越]])。 海部が首相に就任した頃は、いわゆる[[リクルート事件]]などで国民の間に政治不信が強まっていた。それだけに、清新なイメージで颯爽と登場した海部に寄せられた党内外の期待感は大きかった。組閣においてはリクルート事件にかかわったとされる政治家を排除(リクルート・パージ)し、リクルートと関係の薄い政治家を優先的に登用した。このため党内の不満が高まり、後の政治改革法案が廃案になる遠因にもなった。[[内閣官房長官|官房長官]]の[[山下徳夫]]が宇野と同じく女性スキャンダルを騒がせた際、すぐに山下を更迭させて[[環境庁長官]]だった女性議員の[[森山真弓]]を官房長官に横滑りさせて女性初の官房長官に起用させたり、様々な行事で夫婦同伴をするなど女性層を意識させた戦術をして、1990年の衆院選では衆院単独過半数を獲得する。 また党内基盤が脆弱であった海部は自民党にとってはその場しのぎの「看板」でしかなく、党内は相変わらず権力闘争に明け暮れていた。[[石原信雄]]の回顧録には「海部さんは重大な法案などを決める時には金丸、竹下両氏の判断を仰いでいた。」と記されており、自民党幹事長を務めていた[[小沢一郎]]は「担ぐ[[神輿]]は軽くてパーな奴が一番いい。」等と海部を暗に揶揄され、[[金竹小]]と評された竹下派実力者三人が海部首相以上に強い影響力を持っていた。自民党総裁にして内閣総理大臣でもある海部は、本来味方であるはずの自党に振り回され、小選挙区導入反対派の[[加藤紘一]]、[[山崎拓]]、[[小泉純一郎]]の「[[YKK (政治同盟)|YKK]]」などによる党内からの猛烈な倒閣運動を受けた。しかし、圧倒的な世論の支持が海部を守った。[[湾岸戦争]]における経済的な協力や[[掃海艇]]派遣では驚異的なねばり腰で法案を成立させた。このことに限らず、外交面では当時の[[マーガレット・サッチャー|サッチャー]]英首相や[[ジョージ・H・W・ブッシュ|ブッシュ]]米大統領から絶大な信頼を得ていた。[[六四天安門事件|天安門事件]]後、世界から孤立しかかった[[中華人民共和国|中国]]に西側先進国首脳として真っ先に訪問し、円借款を再開させたことには現在でも中国から感謝され「井戸を掘った人」として尊敬されている。 政策の目玉として取り組んだ政治改革関連法案が国会で審議未了廃案となったことを受け、「'''重大な決意で望む'''」と発言。これが衆議院の解散を意味する発言であると受け取られた。首相にとって「伝家の宝刀」の異名を持つ[[衆議院解散|解散権]]は、総理大臣の専権事項である。しかし、自民党内の反海部勢力から大反対の合唱がおこった([[海部おろし]])。最後には海部をバックアップするはずだった竹下派でさえ明確に解散不支持を表明し、結局解散に踏み切ることが出来ず、発言の責任を取る形で[[内閣総辞職]]を選んだ。在任中の内閣支持率は退任直前でさえも50%を超えていた。時には64%ということもあり、国民的な人気は根強いものがあった。 首相在任日数818日間は日本国憲法下において衆議院で[[内閣不信任決議]]が採決されなかった内閣の首相としては最長日数記録である。 == 首相在任中の施策 == ;資金提供 :[[湾岸戦争]]の戦費として多国籍軍に130億米ドルもの資金を提供。しかし、戦後[[クウェート]]の新聞に載せられた感謝広告に日本の国旗が無かったが、その後改められた。この施策に関し保守層からは'''金だけだして人出さない'''、'''似非国際貢献'''、'''一国平和主義'''と罵られ左派からも「アメリカの言いなりになり無駄金を拠出した。」と強く批判されるなど一部から強い批判を浴びた。 ;[[自衛隊ペルシャ湾派遣]] :[[湾岸戦争]]の停戦後に、[[自衛隊]]創設以来初の海外実任務となる[[海上自衛隊]][[掃海艇|掃海]]部隊を[[ペルシャ湾]]に派遣する。 == 自民党離党、自由改革連合代表、新進党党首へ == [[1994年]]6月29日、自民党総裁の[[河野洋平]]が、党の政権復帰のため[[日本社会党]]、[[新党さきがけ]]と[[自社さ連立政権]]構想で合意し、首班指名で社会党の[[村山富市]]に投票することを決めると、これを拒否して離党。旧[[連立与党]]である[[新生党]]や[[日本新党]]から首班指名の統一候補として担がれるも、自民党からの造反は期待されたほどは起こらず、決選投票で敗れることになる。その数日後正式に離党し[[自由改革連合]]結成し代表就任、[[新進党]]結党し初代党首となる。新進党結党会見では臨席した初代幹事長の[[小沢一郎]]に核心の質問が集中し思わず「党首は私なんですから質問の順序が逆じゃないんですか。」といきりたつ一幕もあった。さらにこの光景が放映されたあと[[久米宏]]が「小沢さんが実権を握っているのは皆わかっている。」と発言し止めをさした。 この離党に至る海部の動きに対し、元[[衆議院議長]]・[[田村元]]は、かつて海部が師事した[[三木武夫]]になぞらえて「三木さんは我々と対立したが偉大な政治家であった。三木さんはあえて茨の道を選んだ。しかし、海部はてんぷらのにおいがするほうへつられて歩いて行った」と酷評している。また、当時の自由民主党幹事長代理[[野中広務]]は「元総裁が党を裏切るとは何事」と激怒。自民党本部の八階ホールと総裁室にある歴代総裁[[肖像画]]から海部の肖像画のみ撤去させた。更に野中は海部の肖像画の廃棄処分まで指示したが、周囲から「大人げない」とたしなめられ、海部の肖像画は党本部の収蔵庫に保管されることになった。その後、野中と小沢が連携し[[自自公連立政権]]が成立し海部も与党へと復帰していくこととなり、野中は海部批判を口にしなくなった。 == 自民党復党、政界引退 == 新進党分党後は1年1ヶ月の無所属暮らし([[院内会派]]「[[無所属の会]]」)を経て、自民党との連立政権に加わった[[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]に入党。[[2000年]]の同党分裂の際には、自民連立継続派の[[保守新党|保守党]]に所属する。 [[保守新党]]に改組して臨んだ[[2003年]]に[[第43回衆議院議員総選挙]]では、[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]の新人[[岡本充功]]に[[比例復活]]を許したが、小選挙区勝利で連続当選記録を伸ばし、選挙直後に吸収合併される形で自民党に復党した。復党後は古巣の[[番町政策研究所|高村派]]には戻らず、[[二階俊博]]ら一緒に復党した旧保守新党議員らと[[二階グループ]]を結成した。 自民党復党の折には、[[安倍晋三]][[自民党幹事長]](当時)から復党を「諸手をあげて歓迎します」と言われ、離党した際に撤去された海部の[[肖像画]]も再び掲額された。 しかし、院内に銅像が建てられる50年永年勤続表彰を目指し出馬した[[2009年]]の[[第45回衆議院議員総選挙]]にて、小選挙区で[[岡本充功]]に敗れた<ref>[http://www.47news.jp/CN/200908/CN2009083001000555.html 連続16選の海部元首相が落選 民主前職に敗れ、愛知9区]共同通信2009年8月30日</ref>。[[比例代表制|比例代表]]は73歳未満と定めた党規に抵触し[[重複立候補制度|重複立候補]]が許されなかったため落選し、同日政界引退を表明。海部は総理大臣在任中の成果を強調し選挙に挑んだが、海部の首相時代を知らない若い世代の有権者が増えた事も落選の一因と見られている。首相経験者が落選したのは、1963年の[[第30回衆議院議員総選挙]]の[[石橋湛山]]、[[片山哲]]両元首相以来46年振り<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin2009/news/20090831-OYT1T00059.htm 首相経験者の落選、46年ぶり]YOMIURI ONLINE 読売新聞2009年8月31日</ref>、自民党総裁経験者としては石橋以来2人目である。 == 主な所属議員連盟 == *日独議員連盟会長 *日墺議員連盟会長 *日英議員連盟最高顧問 == 主な肩書き == *(財)日本ソフトテニス連盟会長 *日本ティーボール協会会長 *EU・ジャパンフェスト日本委員会最高顧問 *地球環境行動会議(GEA)最高顧問 *[[中央政策研究所]]最高顧問 == 人物・エピソード== === ネクタイ === '''水玉模様の[[ネクタイ]]'''が[[トレードマーク]]である。これは、三木内閣の官房副長官時代、[[スト権スト]]問題でテレビの討論番組に出演した際、帰宅もままならぬ事から、連日連夜同じ水玉柄のネクタイをしていた事を視聴者に指摘され、それを自らのトレードマークにしたものである。討論番組そのものでは当時[[公労協]]事務局長であった[[富塚三夫]]に対して一歩も引かぬ弁舌を披露し、「自民党に海部あり」と言わしめ、その後出世街道を歩む端緒となった。昭和天皇の大喪の礼でも仄かに水玉模様のネクタイをして注目を浴びた。 === 弁論 === 旧制中学時代には自ら弁論部を創設し地区大会で優勝するなど早くから弁論で頭角を現し、中央大学専門部入学と共に[[中央大学辞達学会]]([[弁論部]])に所属。中央大学専門部法科卒業後、同郷出身の代議士[[河野金昇]]の書生を務めていた。その後、1年間の浪人生活を経て早稲田大学第二法学部夜間部に入学。[[雄弁会]]に所属。当時の弁論大会で優勝した折、総長から「海部の前に海部なし、海部のあとに海部なし」と講評される。議員秘書の傍ら早大[[雄弁会]]で弁論術の研鑚及び人脈作りにいそしむ。同年代の[[雄弁会]]員には[[渡部恒三]]がいる。この時代に培った弁論術・人脈が政界入り後に大きな力となり、小派閥から内閣総理大臣まで登りつめた原動力となった。海部は、[[明治大学]]卒業の[[三木武夫]]の愛弟子であったことから、明治大学にもたびたび公演に訪れていた。 === 29 === [[1960年]]に行われた[[第29回衆議院議員総選挙]]に、河野金昇の死後、後継として出馬し一期務めた[[河野孝子]]未亡人の後継として出馬。応援演説に来た[[井出一太郎]]が放った「'''サイフは落としてもカイフは落とすな'''」というキャッチフレーズで人気が沸騰し、当選した。この時29歳であった事から、「29回総選挙に29歳で初当選したから、29年後には総理大臣になる」と公言していた。自民党内では傍流である三木派に属していた事から、この言葉は半ば冗談のように受け取られ、また本人も講演会等の挨拶におけるリップサービスにしていた。ところが、初当選から29年後の[[1989年]]、諸々の条件が重なり、海部は内閣総理大臣に就任した。 === ヒューストン・サミット === [[1990年]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ヒューストン]]で開催された[[主要国首脳会議|サミット]]における首脳記念撮影の際、海部が身振りを交えて英語で軽い冗談を飛ばしたところ大受けとなり、[[ジョージ・H・W・ブッシュ|ブッシュ]]米大統領・[[マーガレット・サッチャー|サッチャー]]英首相・[[ブライアン・マルルーニー|マルルーニー]]加首相が大爆笑している場面の写真が全世界に配信されたが、一般にはあまり知られていない。 === 皇室 === [[1990年]]は[[秋篠宮]]結婚の儀、[[明仁|今上天皇]][[即位の礼]]・[[大嘗祭]]等重要な[[皇室]]行事が続いたが、海部はすべて問題なくこなした。とりわけ即位儀礼は[[日本国憲法]]下初の挙行であったため儀式にも慎重に手が入れられたが、それぞれの儀礼は滞りなく進んだ。今上天皇は儀式にあたりその細かい部分について海部に直接相談したり、二人だけで話し込んだりすることもあった。今上天皇は海部と年齢が近いこともあり話しやすく感じていたようであり、個人的な信頼関係が生まれていたと言われる。 === [[きんさんぎんさん]] === 記録的な長寿で話題となった[[双子]][[姉妹]]、[[成田きん]]と[[蟹江ぎん]]は生前、「尊敬する[[政治家]]」として海部の名を挙げていた。 === プライベート=== [[三枝の愛ラブ!爆笑クリニック]]に首相退任後、夫婦で出演した。 == 家族・親族 == *[[アニメ]]プロデューサーの[[海部正樹]]は長男。[[天文学者]]の[[海部宣男]]、2008年に[[ノーベル物理学賞]]を受賞した[[小林誠 (物理学者)|小林誠]]、[[シンコーホーム]]詐欺事件で2002年に有罪判決を受けたシンコーホーム元常務の[[海部俊一]]は従弟。[[名古屋コーチン]]の生みの親として知られる、旧[[尾張藩]]士の[[海部壮平]]・[[海部正秀]]兄弟は遠い親戚(壮平・正秀の姉の曾孫)。 == 関連項目 == *[[第1次海部内閣]] *[[第2次海部内閣]]、[[第2次海部内閣改造内閣]] *[[ネオ・ニューリーダー]] *[[石原健太郎]] *[[神田真秋]] *[[小此木彦三郎]] *[[教育美術振興会]] *[[中道新党構想]] *[[PKO国会]] *[[金石清禅]] == 脚注 == {{reflist}} == 外部リンク == *[http://www.anan.ne.jp/kaifu/ 海部俊樹オフィシャルホームページ](公式サイト) *[http://www.jimin-aichi.or.jp/ 自民党愛知県連] {{start box}} {{s-off}} {{succession box | title = {{Flagicon|JPN}} [[内閣総理大臣]] | before = [[宇野宗佑]] | years = 第76・77代:1989年 - 1991年 | after = [[宮澤喜一]] }} {{succession box | title = {{Flagicon|JPN}} [[文部大臣]] | before = [[永井道雄]]<br/>[[松永光]] | years = 第96代:1976年 - 1977年<br/>第106代 : 1985年 - 1986年 | after = [[砂田重民]]<br/>[[藤尾正行]] }} {{succession box | title = {{Flagicon|JPN}} [[大蔵大臣]] | before = [[橋本龍太郎]] | years = 第95代:1991年(兼任) | after = [[羽田孜]] }} {{succession box | title = {{Flagicon|日本}} [[内閣官房副長官|内閣官房副長官(政務担当)]] | before = [[梶山静六]] | years = | after = [[鯨岡兵輔]] }} {{s-par}} {{succession box | title = {{Flagicon|日本}} [[議院運営委員会|衆議院議院運営委員長]] | before = [[田沢吉郎]] | years = 第31代:1972年 - 1973年 | after = [[佐々木秀世]] }} {{s-ppo}} {{succession box | title = [[新進党|新進党党首]] | before = 結成 | years = 初代:1994年 - 1995年 | after = [[小沢一郎]] }} {{succession box | title = 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