狩野永徳

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狩野 永徳(かのう えいとく、天文12年1月13日1543年2月16日) - 天正18年9月4日1590年10月12日))は安土桃山時代の絵師である。狩野派室町時代から江戸時代まで日本画壇の中心にあった画派)の代表的な画人であり、日本美術史上もっとも著名な画人の1人である。現存する代表作に『唐獅子図屏風』、『洛中洛外図屏風』、『聚光院障壁画』などがある。

概要[編集]

永徳は狩野松栄の息子で、狩野元信の孫にあたる。永徳は法号で名は源四郎、諱は州信(くにのぶ)。

狩野派の棟梁として織田信長豊臣秀吉という天下人に仕え安土城聚楽第大坂城などの障壁画を制作した。永徳が力を振るったこれらの代表的な事績は建物とともに滅びてしまったものが多く、真筆とされる現存作品は比較的少ない。永徳といえば『唐獅子図』や『檜図』のような雄大なスケールの豪快な作品(大画)がよく知られるが、細部を緻密に描写した「細画」もよくしたとされる(『本朝画史』)。現存する代表作の1つである上杉本『洛中洛外図』は、彼が細密描写に秀でていたことを示している。

生涯[編集]

天文12年(1543年)、松栄の長男として生まれる。最初に永徳の事績が記録に現れるのは山科言継の日記『言継卿記』の天文21年1月29日1552年2月23日)の条でこの日に狩野法眼(元信)が孫を連れて将軍・足利義輝に拝謁したことが記録されており、この「孫」が当時10歳(数え年)の永徳と推定されている。

永徳の代表作の1つと見なされている上杉本『洛中洛外図屏風』はその注文者、制作年代、景観年代について多くの説があるが20世紀末の研究の進展により永禄8年(1565年)の完成と見なされるようになった。当時永徳は23歳である。この屏風は天正2年(1574年)、織田信長から上杉謙信に贈られている(『上杉年譜』)。

また五摂家の筆頭である近衞家とも関係が深く、永禄10-11年(1567-1568年)には近衛前久(さきひさ)邸の障壁画を描いている(言継卿記)。

天正4-7年(1576-1579年)には安土城に障壁画を描き(『信長公記』)、天正11年(1583年)には大坂城、天正14年(1586年)には聚楽第の障壁画を担当するなど信長や豊臣秀吉をはじめとする権力者に重く用いられた。

天正17年(1589年)には後陽成天皇内裏の障壁画を担当し、天正18年(1590年)には八条宮家の障壁画を描いた。同年9月、永徳は東福寺法堂(はっとう)の天井画の龍図を制作中に病気になり、ほどなく死去した。享年??。死因は、現代風に言えば過労死ではなかったかともいわれている。なお、東福寺法堂の天井画は永徳の下絵を元に弟子の狩野山楽が完成させたが現存しない。

代表作[編集]

聚光院は大徳寺の塔頭で、永徳は方丈の障壁画を父松栄と共に描いた。永徳が担当したのは『花鳥図』16面および『琴棋書画図』8面から成る。制作年代については従来聚光院創建の年である永禄9年(1566年)、24歳の作品とされていたが画風の検討や方丈自体の建立年代の見直しから、かなり後の天正11年(1583年)とする説も有力になっている。平成18年(2006年)より順次複製が制作され、オリジナルは京都国立博物館に寄託される。
京都の中心部(洛中)と郊外(洛外)を鳥瞰的に描いた洛中洛外図の代表作で永禄8年(1565年)までに永徳が描き、天正2年(1574年)に織田信長が上杉謙信に贈ったものとされる。歴史資料としても貴重で、この屏風に描かれた人物の数は約2,500人という。この屏風については描かれた都市景観から、制作年代についてさまざまに議論されてきた。屏風に描かれた景観年代を天文16年(1547年)のものと見なし「永徳筆ではない」とする説が発表されて論争を巻き起こしたこともあるが、絵画作品の景観年代と制作年代は必ずしも一致するものではなく今日この説はほぼ否定されている。その後歴史家の瀬田勝哉や黒田日出男の研究により、本作品は永徳の筆で、注文者は足利義輝、制作完成は永禄8年(1565年)とする説がほぼ定説となっている(黒田日出男『謎解き洛中洛外図』など)。
天正10年(1582年)に秀吉が毛利家に贈ったものと言われるが確証はない。明治期に皇室に献上された。永徳筆である旨の狩野探幽(永徳の孫)の書入れがある。

以上3件は従来から永徳筆とされてきたもので、美術史家の間には永徳作とすることについてほとんど異論はない。
「特別展覧会 狩野永徳」(平成19年(2007年)、京都国立博物館)においては以下の作品を永徳作としている。

狩野派による共作。天正14 - 19年(1586 - 1591年)頃。内、群仙図が永徳筆ではないかと言われる。
伝永徳筆。天正18年(1590年)?。桂宮家旧蔵。元は八条宮邸の障壁画であったと伝えられる。
  • 許由巣父図(重要文化財) - 東京国立博物館
伝永徳筆。2幅からなる紙本墨画。
伝永徳筆。元は建仁寺の塔頭の障壁画であったと伝えられる。
  • 洛外名所遊楽図屏風 四曲一双 - 個人蔵
平成17年(2005年)7月、京都の古物商で発見された(平成18年(2006年)9月13日 朝日新聞報道)。落款等はないが上杉本洛中洛外図と描写法が良く似ている。
  • 花鳥図押絵貼屏風 六曲一双 - 個人蔵
  • 梔子に小禽図(墨画) - 京都国立博物館
  • 老莱子図 - 山口・菊屋家住宅保存会
  • 二十四孝図屏風 六曲一双 - 福岡市博物館
  • 四季山水図 六曲一双 - 香雪美術館
伝永徳筆(左隻のみ)

「特集 狩野派の世界2009」展(平成21年(2009年)、静岡県立美術館)では、以下の作品も永徳作として出品された。

  • 松に叭々鳥・柳に白鷺図屏風 六曲一双 紙本墨画 - 個人蔵(原三溪旧蔵)
  • 瀟湘八景図 一幅 紙本墨画 - 個人蔵(黒田侯爵家旧蔵)

現存しない作品[編集]

天瑞寺は大徳寺内に秀吉が創建したものだが明治7年(1874年)、廃寺になった際、建物とともに障壁画も失われたとされる。

所在不明の作品[編集]

  • 安土城之図 - 天正9年(1581年)以前
天正9年(1581年)、織田信長は安土を訪れた宣教師・ヴァリニャーノに安土城之図屏風を贈った。この屏風は永徳筆ではないかと考えられる。この屏風は安土城下や京で展示され、後に天正遣欧使節の手によって渡欧しバチカンにてローマ教皇に献納された。教皇は住居と執務室を結ぶ廊下に屏風絵を飾ったといわれるが、教皇の死後に屏風は行方不明となった。
昭和59年(1984年)には滋賀県が、平成17年(2005年)には安土町がそれぞれバチカンを調査したがいずれも発見には至らなかった。

参考文献[編集]

  • 武田恒夫『狩野派絵画史』、吉川弘文館、平成7年(1995年
  • 松木寛『御用絵師狩野家の血と力』(講談社選書メチエ)、講談社、平成6年(1994年
  • 小澤弘、川嶋将生『図説上杉本洛中洛外図屏風を見る』、河出書房新社、平成6年(1994年)
  • 川本桂子『狩野永徳』(新潮日本美術文庫)、新潮社、平成9年(1997年
  • 特別展図録『都の形象 洛中・洛外の世界』、京都国立博物館、平成6年(1994年)
  • 特別展図録『狩野永徳』、京都国立博物館、平成19年(2007年)
  • 狩野博幸『狩野永徳の青春時代洛外名所遊楽図屏風』(アートセレクション)、小学館、平成19年(2007年)
  • 並木誠士『絵画の変 日本美術の絢爛たる開花』、中公新書、平成21年(2009年

関連項目[編集]

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