石見銀山

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logo 石見銀山遺跡とその文化的景観
日本
龍源寺間歩(入口)
龍源寺間歩(入口)
(英名) Iwami Ginzan Silver Mine and its Cultural Landscape
(仏名) Mine d'argent de Iwami Ginzan et son paysage culturel
面積 中核地域…442ha
緩衝地域…3221ha
登録区分 文化遺産 (ii)(iii)(v)
自然遺産 -
登録年 2007年
拡張年
IUCN分類
備考
公式サイト ユネスコ本部 (英語)
地図

[[画像:||石見銀山の位置]]

ファイル:Iwami Ginzan Silver Mine, Shimizudani Refinery Ruins 001.JPG
清水谷精錬所跡(2007年5月2日撮影)

石見銀山(いわみぎんざん)とは戦国時代後期から江戸時代前期にかけての日本最大の銀山である。鉱脈は石見国東部、現在の島根県大田市大森の地を中心とし、同市仁摩町温泉津町にも広がっていた。日本を代表する鉱山遺跡として1969年昭和44年)に国指定の史跡に登録された。2007年平成19年)に、ユネスコ世界遺産への登録が決定された。殺鼠剤の『石見銀山』については後述の「副産物」を参照のこと。

開発

鎌倉時代末期にが出たという伝説もあるが本格的に開発したのは博多の商人・神谷寿貞である。海上から山が光るのを見た寿貞は領主・大内義興の支援と出雲の銅山主・三島清右衛門の協力を得て1526年大永6年)、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出した。義興の死後、大内義隆九州経営に気を取られている間、1530年享禄3年)に地方領主・小笠原長隆が銀山を奪い、3年後に大内氏が奪回した。大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。この年に寿貞は大森に入り、中国渡来の銀精錬技術である灰吹法に日本で初めて成功した。この技術でより効率的に銀を得られるようになり全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をすることになる。灰吹法確立以前は鞆ヶ浦(仁摩町)・沖泊(温泉津町)から鉱石のまま積み出され取引された。

銀山争奪

1537年天文6年)、出雲尼子経久が石見に侵攻、銀山を奪った。2年後に大内氏が奪還したものの、その2年後に尼子氏が小笠原氏を使って再び銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。義隆の死後は毛利元就が尼子氏との間で銀山争奪戦を繰り広げ、最終的に毛利氏が勝利を収める。1584年天正12年)、毛利氏が豊臣秀吉に服属すると銀山は毛利氏と豊臣氏の共同管理となり、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てられた。

商業への影響

石見銀山が開発された時期は日本経済の商業的発展の時期と重なっていた。このため、精錬加工された銀(丁銀)は基本通貨として広く国内(主に銀本位制の西日本)で流通したばかりでなく、16世紀後半からマカオを拠点に来航するようになったポルトガル17世紀初めに来航したオランダ東インド会社、さらに中国密貿易商人らとの活発な交易をも支えた。当時の銀産出量は世界全体の3分の1(その生産量の平均は年間38トン程度であったと推測されている)に達し、スペインのペルー副王領・ポトシ(現・ボリビア世界遺産)のセロ・リコと並ぶ銀産出地として西欧・中国でも有名になった。丁銀は秤量貨幣(額面が無く重量で価値が決定。取引の際は必要に応じ切り分けて使用)のため、原形をとどめる物は希少。

その殷賑ぶりは当時のポルトラーノ地図にも記載されている。航海術の発展に伴って西欧諸国の王侯、特にスペイン国王はイスラム圏から入手した地図を大量に持っており、更には独自にかなりの地図を作成した。この地図を持った船団が、インドマレー半島中国・日本にも貿易の手を伸ばし、石見銀山で産出される銀を求めてやってきた。

銀山を手中にした武将(大内氏、尼子氏、毛利氏豊臣氏)は積極的にこれらの海外諸国と貿易を行い、その輸入品の中に当時貴重であった火縄銃が含まれていた可能性も指摘されている。

幕府直轄領

ファイル:Hotspring Yunotsu Shimane 02.jpg
かつての外港の一つ、温泉津の町並み

関ヶ原の戦い後、徳川家康は石見を幕府直轄領とし初代銀山奉行として大久保長安を任命した。長安は山師(鉱山経営者)・安原伝兵衛らを使って石見銀山開発を急速に進め、家康に莫大な銀を納め朱印船貿易の元手にもなった。銀山開発の費用・資材(燃料など)を賄うため周辺の郷村に直轄領である石見銀山領(約5万石)が設置され、大森に奉行所(銀産出量の減少により、後に代官所に格下げ)が置かれた。

当初、産出した銀は現・大田市の鞆ヶ浦(仁摩町)や沖泊(温泉津町)から船で搬出されていた。冬の日本海は季節風が強く航行に支障が多いため、長安は大森から尾道まで中国山地を越え瀬戸内海へ至る陸路の「銀山街道」(大森~粕淵~九日市(美郷町)~三次甲山御調~尾道)を整備し、尾道から京都伏見の「銀座」へ輸送するようにした。幕府(直轄地外では沿道各藩)による取り締まりの下、直轄地内の郷村に対する人的・物的負担や街道各村にも銀の輸送にあたる人馬や経費負担(警備・接待など)の提供が厳しく課せられ、大きな負担となった。時として訴え出る者や争議が起こったが、この輸送は幕末まで続いた。

1731年享保16年)、大岡忠相の推挙により任ぜられた第19代代官の井戸平左衛門正明(いどへいざえもんまさあきら)は60才の高齢と任期2年の短期にもかかわらず領民から「いも代官」として慕われ、現在の島根県だけでなく鳥取広島県にも功績を称える多くの頌徳碑が建てられている。その功績は享保の大飢饉に苦しむ領民のため薩摩国から他の地域に先駆け石見国に甘藷(さつまいも)導入・普及をもたらし、飢饉の際には自らの財産や裕福な農民から募った浄財で米を買い、幕府の許可を得ぬまま代官所の米蔵を開いて与えたり年貢を免除・減免した(後年備中国笠岡で没した原因として病死説と切腹説があり、前者が概ね定説となっているが論議も続いている)。

終末

石見銀山は江戸時代前期にも日本の膨大な銀需要を支えた(も産出)が元禄期になると次第に産出量が少なくなり、江戸末期にはほとんど産出しなくなった。幕末には長州戦争長州藩が一帯を占領している。1887年明治19年)からは大阪の藤田組(後の同和鉱業→DOWAホールディングス)により再開発の試みが続けられた。藤田組は採鉱施設・事務所などを大森から柑子谷(仁摩町大国)の「永久鉱山」に移すが、1923年大正12年)には休山するに至った。その後日中戦争太平洋戦争の最中、軍需物資としての銅の国産化を目論んで1941年(昭和16年)より銅の再産出を試みるものの、1943年(昭和18年)の水害で坑道が水没する大打撃を受け、完全閉山となる。鉱業権はDOWAホールディングスが保有している。

現在でも銀山採掘のために掘られた「間歩」と呼ばれる坑道が500余り残り、龍源寺間歩の一部は一般公開されている。

副産物

  • 石見(大森)銀山で銀を採掘する際に砒素は産出していないが、同じ石見国(島根県西部)にあった旧笹ヶ谷鉱山津和野町)で銅を採掘した際に砒石と呼ばれる黒灰色の鉱石が産出した。砒石には猛毒である砒素化合物(亜ヒ酸)を大量に含んでおり、これを細かく砕いたものを殺鼠剤とした。この殺鼠剤は主に販売上の戦略から全国的に知れ渡った銀山名を使い、「石見銀山ねずみ捕り」あるいは単に「石見銀山」と呼ばれて売られた。
  • 金銀の精錬工程として当時の日本においては先進的であった「灰吹法」という技術が使われ、その際にの蒸気を吸い込んだ鉱夫たちは急性または慢性の鉛中毒を発症した。鉛には発がん性もあると考えられているので、坑道内の出水・高温多湿や鉱滓・煤塵などの劣悪な環境も相まって、当時の鉱夫は短命であったといわれる。大森地内に各宗派の寺院が多数あることや古文書の研究からその平均寿命はおよそ30歳程度であり、家族構成はその多くが独身もしくは夫婦のみと伝えられている。「灰吹法」と似たものとして水銀を用いるアマルガム法がある。
  • 1977年(昭和52年)、作家・杉本苑子は代官・井戸平左衛門正明を題材にした小説「終焉」を発表。

世界遺産

登録までの経緯

日本政府は「東西文明交流に影響を与え、自然と調和した文化的景観を形作っている世界に類を見ない鉱山である」として「石見銀山遺跡とその文化的景観」の世界遺産登録を目指し、2001年(平成13年)に世界遺産登録の前提となる「暫定リスト」に掲載し、2006年(平成18年)1月にUNESCO世界遺産委員会に推薦書を提出した。

2007年(平成19年)5月、各国から推薦された世界遺産登録候補を審査するUNESCOの諮問機関である国際記念物遺跡会議(ICOMOS)が遺跡の普遍的価値の証明が不十分であることを理由に「石見銀山は登録延期が適当」と勧告した。それを受け日本政府や地元は「世界遺産への登録は極めて厳しい」と判断し、ユネスコ政府代表部は委員会構成国の大使や専門家に勧告に反論する110ページにわたる英文の「補足情報」を送るなどして石見銀山の特徴である「山を崩したり森林を伐採したりせず、狭い坑道を掘り進んで採掘するという環境に配慮した生産方式」を積極的に紹介し、巻き返しのための外交活動を展開した。

結果「21世紀が必要している環境への配慮」がすでにこの場所で行われていたことが委員の反響を呼び、6月28日、世界遺産委員会の審議により世界遺産(文化遺産)としての登録が満場一致で正式に決定された。日本の世界遺産登録としては14件目であり、文化遺産としては11件目、産業遺跡としては日本国内初の登録となる。

石見銀山の登録に向けて日本政府の外交活動を率いたユネスコ政府代表部の近藤誠一大使は、2007年(平成19年)9月8日に島根県大田市で開かれたシンポジウムの中で銀山周辺に残る自然が逆転登録の決め手になったことを明かしている。近藤大使はICOMOSによる登録延期勧告を受け、各国政府代表などに対し石見銀山が伐採した分だけ植林していたことなど自然に対する配慮の歴史を積極的に説明したところ、政府代表らの反応がよく強い手ごたえを感じたという[1]

登録対象

和名は島根県教育庁文化財課世界遺産登録推進室による公式サイトの表記、英語表記と数字はユネスコ世界遺産センターによる世界遺産登録物件名と世界遺産登録ID。

銀鉱山跡と鉱山町

  • 銀山柵内(Ginzan Sakunouchi, 1246-001a)
  • 代官所跡(Daikansho Site, 1246-001b)
  • 矢滝城跡(Yataki-jô Site, 1246-001c)
  • 矢筈城跡(Yahazu-jô Site, 1246-001d)
  • 石見城跡(Iwami-jô Site, 1246-001e)
  • 大森銀山伝統的重要建造物群保存地区(Ômori-Ginzan, 1246-001f)
  • 宮ノ前地区(Miyanomae, 1246-001g)
  • 重要文化財 熊谷家住宅(House of the Kumagai Family, 1246-001h)
  • 羅漢寺五百羅漢(Rakan-ji Gohyakurakan, 1246-001i)
  • 佐毘売山神社

石見銀山街道

  • 鞆ヶ浦道(Iwami Ginzan Kaidô Tomogauradô, 1246-002a)
  • 温泉津沖泊道(Iwami Ginzan Kaidô Yunotsu-Okidomaridô, 1246-002b)

港と港町

  • 鞆ヶ浦(Tomogaura, 1246-003a)
  • 沖泊(Okidomari, 1246-003b)
  • 温泉津伝統的重要建造物群保存地区(Yunotsu, 1246-003c)

登録基準

脚注

  1. 銀山登録の秘話、大使が語る / 中国新聞 / 2007年平成19年)9月9日

関連項目

外部リンク

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