福原愛

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福原愛

福原 愛(ふくはら あい、1988年11月1日 - )は、日本卓球選手。宮城県仙台市生まれ、血液型はB型。全日本空輸(ANA)に所属。日本オリンピック委員会選手強化キャンペーン・シンボルアスリート制度適用選手。ITTF世界ランキング最高位は6位(2012年8月、12月)。青森山田高校卒、早稲田大学中退。内閣府災害被害を軽減する国民運動サポーター」。

来歴[編集]

幼少時[編集]

福原愛

1988年11月1日に仙台に生まれる。1992年8月13日から卓球を始めた。3歳9ヶ月から卓球の英才教育を受け、4歳でテレビに初登場し、「天才卓球少女」「泣き虫愛ちゃん」と呼ばれるようになった。一躍国民的アイドルとなった5歳10ヶ月で全日本選手権バンビの部(小2以下)史上最年少で優勝、以降数ある大会で優勝し、史上最年少記録を多く作った。

小4でプロ宣言し、ミキハウスと専属契約を結び、仙台より大阪へ引っ越した(注・2001年4月から日本卓球協会はレジスタードプロ制度をなくした。これにより、以降は子供選手でも誰でもプロ(商業)活動が出来るようになっている)。一家はミキハウス本社のある大阪府八尾市に引越し、福原は当時できたばかりのミキハウス練習場に通うようになった。

この時に、王子卓球クラブの作馬六郎から「王子サーブ」を習得し、以降このサーブは福原愛の代名詞ともなった(今はほとんど使っていない)。大阪では公立小学校に通っていた。小6の6月に、ITTFジャパンツアー一般の部に選ばれ初出場で代表デビューを果たす。中学は大阪の強豪である私立四天王寺中への進学を考えていたが、福原はプロ契約してるため、全中やインターハイなどに規定で出場できないという懸念があった。結局地元公立中へ入学したが、一ヶ月でスポーツの名門私立学校、青森山田中学校に転校した。青森山田中は中高一貫教育を目指してその年に開校。法人は卓球専用の体育館などの施設を備えている。同校を選んだのはミキハウスJSCに所属したままプロ活動をしたいという福原サイドの意向に、理解を示したのが大きな理由である。これにより福原は多くの卓球遠征が可能になった(その後福原は「卓球界に大きな貢献をした」ということで、全中インターハイ国体も特例で出場できるようになった)。ミキハウスは青森JSC(ジュニアスポーツクラブ)という組織を作り、福原をその所属とした(他には青森大学の坂本竜介などがいて、混合ダブルスペアをよく組んでいる)。小西杏とはダブルスで全日本3連覇した(2005年以降、代表では藤沼亜衣と組んでいる)。

以降、中学の3年間は世界各地のITTFプロツアーに数多く出場。安定した成績を見せ、世界ランキングを上げていった。この頃国内の高校以下では無敵となり、また国際試合での強さも見せ、国内シニアの選手にも勝てるようになっていった。選考会などを経て14歳の若さで2003年世界卓球選手権個人戦に抜擢され出場し、日本勢の中で一人躍進、ベスト8に進出。この結果により翌2004年3月の世界選手権団体戦と、4月のアテネ五輪アジア予選出場が内定。2001年にはコーチの黄智敏と1分間に175回のラリーを続けるというギネス記録を達成している。

高校進学からアテネオリンピックまで[編集]

2004年4月、青森山田高等学校に進学。日本より一人選ばれたドーハでの大陸予選でシングルス3位となり、その前年に「オリンピックは夢の夢の夢の夢」と言っていた福原が日本女子3枠目の座を勝ち取った(他は梅村礼藤沼亜衣。なお、小西杏と組んで挑んだダブルスは予選で敗退)。長嶋茂雄の代役として、聖火リレーの最終走者も務めた。アテネ五輪では1回戦をシード通過、2回戦をミャオミャオに辛勝、3回戦はガオ・ジュンに圧勝、4回戦はキム・キョンアに負けた。福原の試合はゴールデンタイムで放送され、3回戦はメダルのかかっていない試合にもかかわらず平均20.1%、最高視聴率31.9%を獲得。これはアテネ五輪放送の中でトップクラスの数字だった。

中国挑戦から北京オリンピックまで[編集]

福原愛

2005年3月にはミキハウスとの契約が満了し、翌月グランプリとの契約を結ぶ。グランプリは福原が青森山田高校に通うことを承認、中国リーグに2年連続で参加することも支援。直後に、中国で最もレベルの高い超級(スーパー)リーグに参加、遼寧本鋼チームと契約した。この超級リーグは週1、2回の日程、広大な中国大陸を試合毎に行き来する移動に多忙を極めたが、福原は全試合に出場した。だが、チームに世界2位の王楠、4位の郭躍がいたため、シングルスの出番が少なくダブルスが多かった。期間中は中国のインタビュー番組や、卓球の雑誌にも登場した。8月の最終戦は岡山県で、日本で初の超級の試合を行った。2005年2月にはアジアカップで強豪の郭焱を破り2位に、同年11月の女子ワールドカップ(各大陸の世界ランキング上位者と推薦選手の16人でのITTF大会でまだ新しい大会)に推薦が決まり出場したが、リ・ジャウエイ帖雅娜といった強豪相手に快進撃を続け3位銅メダルを獲得し、世界ランクを一気に16位まであげた。2006年5月には世界選手権ブレーメン大会で銅メダル(2004年ドーハ団体に続き2度目)を獲得した。放送したテレビ東京の視聴率は最高12%を出した。好調だった2006年度はチームを広東佐川急便に変えて超級リーグに参加(なお、チームの2006年度オーナー権を福原サイド(千秀企画)が買っている)。

父は高校卒業後の進路として当初、大学も青森山田学園系列の青森大学を考えていたが、福原本人が早稲田大学スポーツ科学部を強く志望し、2006年8月より書類提出、面接を経て9月13日に合格が決まった。同学部による2年目の実施となるトップアスリート入学試験によるものであった。

2007年4月1日には早稲田大学スポーツ科学部に入学し青森から東京の阿佐ヶ谷に引っ越した。早稲田大学入学前「インカレなど大学の試合に出たい」との意向を示し、彼女の入学を受けて関東学連日本卓球協会は、プロ選手が大学の大会に出場できるように事前に規約改正を行った。しかし同年5月に行われた春季リーグでチームを一部昇格に導くことはできず、それ以降インカレ、リーグ戦に出場することはなかった(翌2008年春リーグから関東学生リーグは1部所属校を6校から8校と増やした。)。2007年4月3日、全日本空輸(ANA)との所属契約(単年)を発表、同時にグランプリとの4年契約を2年で終了したことを発表した。これについて父親が「大学進学で東京に住むこともあり、環境すべてを見直したかった」と説明した。

2007年5月の第49回世界卓球選手権個人戦では3回戦敗退。大学の試合には2007年春リーグ以外出場しておらず、個人練習での強化に努めている。2007年4月より『とっさの中国語』(NHK教育)にレギュラー出演した。2008年1月、世界ランクが10位と、世界ランクの上位から1カ国・地域2名を上限とし上位20名に与えられる代表資格を獲得し北京五輪日本代表に内定した。6月、JOCから日本選手団の開会式旗手に任命された。卓球選手では初であり、最年少である。本人は会見で「(団旗の)グラムの重さより、日本(代表としての)の重さをすごく感じると思う」と意気込みを話した。五輪では平野早矢香、福原、福岡春菜の3人でシングルス、団体戦に出場した。

ロンドンオリンピックまで[編集]

福原愛

その後よりレベルの高い試合で実戦感覚を養うことを目的として、2009年4月で早稲田大学卓球部での活動を休止し、海外で行われるITTFプロツアーを中心に出場。日本国内ではサンリツ(物流会社)の卓球部の一員として日本リーグに参戦することになった。そして、海外ツアーや中国のスーパーリーグ参戦を優先するため、および早稲田大学の単位の取得が困難になったために、2010年3月で早稲田大学を退学し、卓球に専念して2012年ロンドン五輪に臨む意向であることが関係者から明らかになった。2008年1月全日本卓球選手権で敗れた後、大学の授業にあまり出席できないこと、また2008年が五輪イヤーでもあることから関係者が福原の休学ないし中退を示唆していた(彼女は入学後も練習を早稲田大学では行わず青森や秋田で練習を続けた。また五輪出場権獲得のために世界ランク高位を維持するため、海外の卓球ツアーに多く出場したため欠席も多かった)。

2011年5月、ロッテルダム世界選手権混合ダブルスにおいて岸川聖也とペアを組み、この種目では日本選手34年ぶりの銅メダルを獲得。大会終了後の5月16日付世界ランキングで日本人2番目の9位となり、ロンドンオリンピックシングルス出場権を獲得。2011年11月27日にはロンドン五輪と同会場で行われたテスト大会のプロツアー・グランドファイナルで石川佳純と女子ダブルスに出場して準優勝を収め、主戦場としてきたシングルス以外に活路を見出していた。そして2012年1月21日東京体育館で開催された全日本選手権において、決勝戦で石川佳純を4-1で下し、13回目の挑戦にして念願の選手権を獲得している。

2012年は3月に開催された第51回世界卓球選手権団体戦ドイツの旗 ドイツドルトムント)に石川佳純平野早矢香藤井寛子石垣優香と共に日本代表として出場するも、準々決勝で大韓民国代表にフルセット(2-3)の末に敗れてメダルを逸してしまった。

7月に開催されたロンドンオリンピック卓球競技では、女子シングルス戦では第5シードとして3回戦から登場し、アンナ・チホミロワ(ロシア)を4-0と退け、4回戦ではジエ・リー(オランダ)に対し、ゲームカウント1-3と追い詰められたが、そこから3ゲームを連取して4-3でオリンピックでは自身初の準々決勝進出を達成。準々決勝では世界ランク1位の丁寧と対戦して、第1ゲームでは先にゲームポイントを迎えたが、これを取れず、結局0-4で敗れた。団体戦には平野早矢香石川佳純と共に出場。1回戦アメリカ、準々決勝ドイツを破った後の準決勝シンガポール戦では第1戦目でシングルス銅メダリストの馮天薇を3-1で破った。続く2戦目の石川のシングルス、3戦目の石川・平野ペアのダブルスも日本が勝ち、日本勢オリンピック史上初の決勝進出を果たす。決勝戦で中国に0-3で敗れ2位となったが、日本卓球史上初となる銀メダルを獲得した。

ロンドンオリンピック終了後[編集]

ロンドンオリンピック終了後、8月24日に前年夏に故障した右肘滑膜ひだ障害の手術に踏み切った。故障を抱えながら出場した2012年3月の世界選手権ドイツの旗 ドイツドルトムント)やオリンピックなどでの歴戦の疲労蓄積も踏まえ、手術箇所の治療や疲労回復等を目的に当面(2~3ヶ月程度)休養を取る予定としている。

略年譜[編集]

ミキハウスJSC(ジュニアスポーツクラブ)に所属
  • 1999年3月 - 日本卓球協会の理事会で承認され、レジスタードプロに登録(3月20日付け、10歳)
  • 2005年4月 - グランプリと所属契約。(4年) 中国超級リーグに参加、遼寧省チームに入団(4月に契約、6月 - 12月まで中断をはさみ試合)
  • 2006年3月 - 中国超級リーグ、広東佐川急便チームに移籍(3月に契約、6月 - 8月まで試合)
  • 2006年8月 - 早稲田大学スポーツ科学部トップアスリート入学試験に出願
  • 2006年9月13日 - 早稲田大学スポーツ科学部に合格
  • 2007年3月1日 - 青森山田高等学校卒業
  • 2007年4月1日 - 早稲田大学スポーツ科学部入学
  • 2007年4月3日 - 全日本空輸 (ANA) との所属契約(単年)を発表、同時にグランプリとの4年契約を2年で終了したことを発表
  • 2010年3月 - 早稲田大学スポーツ科学部自主退学
  • 2012年1月 - 全日本選手権・女子シングルス初優勝
  • 2012年8月 - ロンドンオリンピック女子団体で銀メダル獲得

プレースタイル[編集]

右利き前陣速攻。中国卓球の経験を積んでいる事から、中国スタイルの卓球であり、粒がやや高い表ソフトからのバックハンドに特徴がある。尊敬する選手は王楠。左利きに憧れている。体が柔らかく低い打球点から繰り出すバックハンドは世界でもトップクラスである。中学、高校前半の頃はよくピンチで王子サーブというしゃがみ込みサーブを使っていたが、今は返されることが多い為、全く使っていない。

ペースの速い卓球で、ラケット裏面には粒のある表ソフトラバーを貼り、ナックルなどの変化球を出せる。小学生の頃は日本卓球協会の規定で違う種類のラバーを貼れなかった為、両面表ソフトラバーであった。2007年全日本後あたりにラバーをハイテンションラバーに変え、フォームも振りを大きくするなど今までに無い改革に取り組んでいる。2006年11月のワールドカップでティエにストレート負けしたのを見て父親は海外では速い球を打てないと通用しないと考え「一度愛の卓球スタイルをぶっ壊す」と言っていた(しかし、その後もスランプが続いたため、戻したという話もある)。

課題として、単調なショートサーブが多く、フォアハンドが弱い事が度々指摘されている。国内ではカットマンや、粒高ラバーなどの異質攻撃選手に苦手意識がある。また、「試合中、みんなが思っている以上に何も考えていません」と話すように、作戦をあまり考えないため、代表監督から怒られたこともある。それゆえ相手に研究されると弱い一面を持ち、本人は「ビデオ研究をすると、相手が強く見えるから嫌い」とあまり研究したがらない。

2012年のロンドンオリンピックに際しては、課題とされていた下半身を中心とした筋力強化やフォアハンドの改善に取り組み、その成果が出たと評価されている。

小さい頃から天才少女と言われてきた理由の一つに、同世代の国内選手には負けなかった事がある。中1で全日本ジュニア(高校以下)を制すとその後3連覇。どの大会でも一度も負けなかった。だが2006年8月のインターハイ、シングル決勝で同じ年齢の宇土弘恵就実)に初めて負けを喫した(ストレート負け)。また、国際大会では世界の強豪相手に善戦して世界ランクを上げて行ったが、国内大会の一般の部ではシングルの優勝が少なく、人気の割に実績が乏しいという印象を与えていた。全日本卓球選手権でも長年ベスト4を超えられず不本意な成績を残していたが、2012年1月、成長著しい連覇のかかった石川佳純を決勝で下し、ようやくシングルのタイトルを獲得した。なお、全日本の他の出場可能な部門(バンビ・カブ・ホープス・カデット13歳以下・カデット14歳以下・カデットダブルス・ジュニア・女子ダブルス・混合ダブルス)ではすべて優勝しており、史上初の全日本グランドスラム達成者となった。

小学校時代は「ヨー!」(「よーし」の略)というかけ声を使っていたが、中学以降は思春期に入ったためにこのかけ声を使わなくなり、中学後半ぐらいから徐々に大きなかけ声を出すようになり、アテネ五輪で「サー!」は福原の代名詞ともなった(もっとも卓球でこのように声を出す選手は多く決して珍しいことではない)。ただ、強い相手などにはかけ声が全然出ないこともある。「サー!」のかけ声には最大で3連続「サー!サー!サー!」もあり、「サー!ナイスボールサー!」もある。気合が入ると相手がミスしても「サー!」が出る。声が裏返る時もあり、年々闘争心が強くなっている。福原は「かけ声をかけるということは、自分が点を入れているという事なので、いっぱい叫びたいですね」と話す。声の音程には気を使っており、「会場で他の人と同じような音を出すと意味が無いじゃないですか」ということで今の甲高い声になったらしい。中国の選手達の影響で「サー!」を採用したことを、2006年10月30日放映の関西テレビフジテレビ系列番組『SMAP×SMAP』で明らかにした。

マネジメント[編集]

福原の両親は福原に徹底的に卓球の英才教育を施した。3歳から卓球を始め練習時間は毎日4 - 5時間、今では7 - 8時間。年に休みは3日程度。

両親と兄がマネジメントに当っている。特に父親の権限は大きく、福原の進路や練習方法、コーチの選択、大会やイベントやテレビ出演などを管理しているのは、ほとんど父親の判断によるという。福原愛の卓球スケジュール、練習方法を決めているのは当初は卓球経験者の母親であったが、その後は父親主導になり今はマネジメントなど含め全て管理している。

2004年度末まで日本代表監督の西村卓二から熱血指導を受けてきたが、その後代表監督となった近藤欽司から指導を受けている。

コーチは専属の中国人を住み込みで契約している(時には元中国チャンピオンなど)。その方針は今も続いており、現在はカットマン専門のコーチ含め2人が専属コーチで常に福原と帯同している。正月などは頻繁に中国合宿を繰り返し、中国の技術を体に染み込ませ、コミュニケーションのため中国語も身につけた。コーチが瀋陽出身であることからその発音には訛りがある。

人物[編集]

幼少時から天真爛漫な笑顔でお茶の間の人気者となっていたが、思春期になるにつれメディアに対し喋りたがらないことが増え、悲しそうな表情をすることも多くなった。福原自身は、当時を振り返って、「周りのこととか、卓球以外のことが見えてきていた」と語っている。中学2年生頃から、徐々に再び笑顔を見せるようになり、インタビューにもきちんと答えるようになった。

幼児期を除いて試合後、泣くことはほとんどなく、また勝って泣いたことは一度も無かった。しかし2008年2月の世界選手権広州大会、予選の韓国戦では5番手でフルゲーム、デュースの末に勝利して一位通過を決め、福原は珍しくメンバーとともに号泣し、喜んだ。

2007年12月、眼鏡をかけて成田空港に現れ、遺伝により乱視になったことを告白した。本人はコンタクトレンズにしたかったようだが、20分ではずしてしまうほどコンタクトレンズが合わず、眼鏡にしたとのこと。福原も「ぼやけて見えた世界が当たり前だったので、眼鏡をつけるとスッキリする」と視界不良を認めている。ただ視力自体は1.5-1.0と悪くない。

中国での評価[編集]

中国での福原への関心は高く、Yahoo!の中国サイトが2005年4月に発表した世界卓球8大美女に福原愛が選ばれた(他には張怡寧王楠白楊リ・ジャウエイなど。日本人では他に柏木有希が選ばれている)。

当時の小泉純一郎首相の靖国神社問題などで、中国では反日感情が高まり日本に冷たい態度を示すことが多かったが、そんな中で福原のニュースを中国英字紙チャイナデイリーは2006年3月16日付紙面の1面トップで、卓球の中国超級リーグ広東省チームに移籍した日本人選手、福原愛のカラー写真を掲載した。写真は赤いユニフォーム姿の福原が地元の子供達に囲まれ笑顔を見せているもので、福原を「著名な日本の卓球選手」と好意的に紹介した。福原は日本の中国大使館を何度か表敬訪問しており、「中日友好」の色紙を持って王毅駐日大使(当時)と撮影に応じた。他にも日中友好関連のイベントに招かれている。

2008年2月の第49回世界卓球選手権団体戦では、「福原愛永遠支持」と横断幕を掲げた十数人の中国ファンが応援したり、日本ー韓国戦で福原が5番手で登場し接戦をものにした試合を中国メディアは「福原選手が大逆転演じる」(成都日報)、「感涙の福原愛 『観客が力くれた』」(新浪体育)、「みんな福原愛ちゃん大好き」(斉魯晩報)など、福原を中心に見出しや記事を構成した。また、インタビューを「中国語も英語も流暢で立派だ」と褒め称えるところもあった。(斉魯晩報)

同年4月には「福原愛は現在、日本のナショナルトレーニングセンターで北京五輪に向けて積極的にトレーニング中」と中国誌が報じた。上海万博事務協調局は24日、2010年の上海万博の日本親善大使に卓球の福原愛選手ほか2名に決定したことを発表した。同年4月26日の聖火リレー(長野市)では、当初日本オリンピック委員会からの出走依頼はなかったが、中国側から中国大使館枠で参加を要請され、走った。福原の走る姿は中国でも新聞の一面などで大きく報じられた。同年5月7日、胡錦濤国家主席が来日し、早稲田大学で特別講演した折に大学構内で卓球対戦した。胡錦濤に随行していた中国チャンピオンの王楠も参加。同席した日本の福田康夫首相も卓球に誘われたが不得手だということで断ったため、4人のダブルスではなく3人の変則卓球となった。この模様は日中両国で報道された。胡錦濤は福原に「あなたは私のことを知らないかも知れないが、私はあなたのことを知っている」と話しかけた。同年9月27日、山東省煙台市沖の豪華客船で行われた王楠の結婚式に、王楠の介添え役(中国のメディアは「伴娘」と表記)として、セクシーなベアトップのドレス(中国のメディアは「性感低胸装」と表記)を装って出席した。中国のメディアは、このニュースを大きく報道した。王楠夫妻は既に2005年10月に結婚していたが、北京五輪の為に式をあげていなかった。なお、新郎の介添え役は当初王皓が務める予定だったが彼の試合があったために馬琳が行った。

中国でのニックネームは「瓷娃娃(ツーワーワー)」(磁器のお人形という意味、肌がきれいな事から)、「小愛(シャオアイ)」(愛ちゃん)。

語録[編集]

  • 「メダルとれなくて、期待してくれた方にすみませんと言いたいです。」 - アテネ五輪で敗戦した直後のコメント(2004年8月)
  • 「楽しみに来た訳じゃありませんので。」 - アテネ五輪、楽しんでますか?とレポーターに訊かれて
  • 「ミックスゾーンで泣くのだけは嫌だった。」 - アテネ五輪の敗戦のコメントをふり返って
  • 「全然可愛いと思ってませんが、気をつけてることは、睡眠をよくとることです。」 - イベントで子供に可愛さの秘訣を聞かれ(2005年)
  • 「今まで『愛ちゃん』と呼んでた人から急に『愛さん』とか『愛選手』って呼ばれたら「えっ誰?」って思っちゃうんで。『愛ちゃん』でいいです。」 - いつまでも、「『愛ちゃん』と呼んでいいのかな?」と聞かれ・同上インタビューより
  • 「思ったより簡単だった」「何も練習してこなかった」「卓球の方が難しい」 - アニメ「こてんこてんこ」の声収録を終えて(2005年12月)
  • 「当たって砕けてきます!」 - 2005年世界卓球選手権の意気込みを聞かれ
  • 「泣いてもしょうがないから」小さいとき記者に「もう泣かないの?」と聞かれたとき
  • 「小さい頃はメディアの方に追っかけまわされるのが嫌だったんですけど、最近はメディアがないと、自分の気持ちが世間の人たちに伝わらない面もあるので、今はメディアをすごくありがたいと思い感謝してます。メディアのみなさんに対しては失礼ですが、ちょっとお友達のような感覚でいます。」 - 外国特派員協会インタビューより、メディアについて(2006年10月11日)
  • 「週刊誌に載る様なことはしません。」 - 『SMAP×SMAP』で中居正広に大学で一人暮らしした時のことを聞かれ(2006年10月30日放送)
  • 「ちょっとイラッときた。見せ物かって」 - 世界選手権合宿最終日に石川佳純との練習試合が組まれ、多くのマスコミが集まっていたことについて(2007年5月8日)
  • 「勝ててた試合だと思います。」 - 2007年世界選手権3回戦で世界ランキング60位台のドデアンにストレート負けして
  • 「このような大役を仰せつかって、本当に光栄だと思います。」 - JOCより北京五輪選手団旗手に選ばれたことについて会見で(2008年6月10日)
  • 「次は23歳?いい女になれるように頑張ります」 - 北京五輪女子シングルス4回戦敗退後のインタビューで(2008年8月21日)
  • 「いつかこういう日がくると思っていた」 - ジャパントップ12卓球大会決勝で石川佳純に敗れた際に(2010年2月11日)。

エピソード[編集]

  • 「愛」という名の由来は母方の祖母、愛子から一字もらっており、「みんなに愛されるような子に」という願いをこめて父が命名した。卓球を始めたきっかけは、10歳離れた兄が中学から卓球を始め、経験者の母は息子の卓球練習にかかりっきりになり、自分も構って欲しくてやり始めたことだった。
  • 時期により体重の増減が大きい(練習量が多く、その分食べるため)。大きな大会が始まると緊張、疲れから食が進まなくなり痩せてしまうため、大会前は多少体重を増やして臨むことが多い。ベストは48キロ。母親は小さい頃、食が細いのを心配したという。
  • NHK、2004年正月の番組で足型を取ったところ偏平足であった。足のサイズは24cmで本人はもっと身長が伸びると思っていたが中3で成長は止まってしまったという。公称155cm。
  • 座右の銘は「よく寝て、よく食べ、よく笑う」だったが、2006年に兄から変更を促され「一意専心」に変わった。
  • 子供好きだが、小、中学生ぐらいの大きな子は苦手と話している。
  • 卓球以外のスポーツは苦手で高校の時、体育は好きな教科ではなかったという。小さい頃は水泳教室にも通っていて、親は卓球と水泳のどちらに専念させるか考えていた時期があった。ランニングが苦手だったが2005年以降ランニングなども強化し、筋力をつけスピード、パワーのアップを図っている。
  • スコートをたまに履くことがあり、2006年1月の全日本選手権ダブルスで小西と共にスコートを履いた。同大会ではベスト4まで進出したものの、「試合に集中できない」というコメントを出した。
  • アニメ「こてんこてんこ」で彼女の演じた役はその後かないみかが演じた。
  • 幼少時、「明石家さんまのスポーツするぞ!大放送」に出演した時、明石家さんまとの試合で敗北し、番組中に泣いたことがある。
  • 幼少の頃「天才卓球少女」としてTV出演をしていた時代の変わった卓球対戦相手にサッカーイラク代表の選手がいる。その番組出演時には明石家さんまとも対戦した。
  • 幼少時に、デーモン小暮との対決で山なりの叩きつけサーブを打たれ、福原はボールに届かず悔しくて泣いたことがある。
  • 大阪は2008年度五輪開催地として正式に立候補し、さまざまな招致活動を行ったが(大阪オリンピック構想)福原愛を誘致のシンボルの一つとした(福原が大阪に引っ越した一つの要因ともされる)。大阪は大阪五輪の盛り上げの一環として、2001年に世界卓球選手権シングル、団体(同時開催)を大阪に誘致し、福原愛もエキシビジョンとして桂三枝(現・六代桂文枝)とオープニングマッチを行なうなどして盛り上げた。
  • 2004年1月の「クロアチアオープン」の最中に39度の高熱になった。
  • アテネ五輪では家族が大量のおにぎりを会場に持参したが、入り口のセキュリティ・チェックで「爆弾ではないか」と係員に一時引き止められた。
  • 2004年10月、埼玉県彩の国まごころ国体では、会場のウイング・ハット春日部(客席3,500人)に連日5,000人もの客がつめかけ、国体初の入場規制がされることもあった。
  • 2005年放送「おしゃれカンケイ」では、泣くところを撮られることよりも、泣くまで撮影が続けられたと語り、それについて嫌な思いをしたと発言している。
  • 2006年の「世界卓球選手権シンガポール戦では強豪リ・ジャウェイを下し予選リーグ通過を決めた。
  • 秋田県湯沢市稲住温泉敷地内に、卓球道場「友誼館」が完成し、2006年10月26日公開開始。移築してあった旧秋ノ宮村役場(白井晟一設計の建造物)を改装した。
  • 2007年 - 2008年の年末年始に急性胃腸炎で入院した。
  • 2008年6月、北京五輪選手で「さわやかな汗がもっとも似合う人」女子1位に選ばれた。
  • 2008年9月、東京代々木体育館で、不審な男に追い掛け回されるハプニングがあった。男は婚姻届を持ち福原にサインを迫ったが、早大卓球部監督の機転で難を逃れた。
  • 2008年5月4日に仙台市体育館で開催された北京五輪壮行試合と日本リーグ・ビッグトーナメント仙台大会に出場した福原は、開始式で「青葉区国見ヶ丘出身です」と発言し、会場を沸かせた。この大会には、福原のほかに仙台育英学園高等学校卒の平野早矢香および岸川聖也の両選手も出場し、仙台ゆかりの北京五輪卓球代表3人が揃って参加し賑わった。
  • 2016年夏季オリンピックにおける東京オリンピック構想のイメージキャラクターの1人として、都営バスの一部車両に福原が描かれたラッピング車両が存在した。
  • バドミントンの藤井瑞希とは青森山田高校で同級生で出席番号(五十音順)も近いこともあって仲が良く、2012年のロンドンオリンピックで藤井瑞希・垣岩令佳ペアが銀メダルを獲得した際には選手村の宿舎で号泣しながら出迎えた(藤井とペアを組んでいた垣岩令佳も高校の後輩にあたる)。

戦歴[編集]

  • 1992年8月 - 3歳で初めてラケットを握る。
  • 1993年9月 - 全日本卓球選手権大会・バンビの部(8歳以下の部)ベスト16
  • 1994年9月 - 全日本卓球選手権大会・バンビの部優勝
  • 1995年9月 - 全日本卓球選手権大会・バンビの部優勝
  • 1996年9月 - 全日本卓球選手権大会・バンビの部優勝
  • 1997年8月 - 東アジアホープス大会(日本代表)
  • 1997年9月 - 全日本卓球選手権大会・カブの部(10歳以下の部)優勝
  • 1997年11月 - 全日本卓球選手権大会・カデットの部(13歳以下の部)優勝(小3)
  • 1998年7月 - 大阪に転居。ミキハウスJSCに所属。
  • 1998年8月 - 東アジアホープス大会(日本代表)
  • 1998年9月 - 全日本卓球選手権大会・カブの部(10歳以下の部)優勝
  • 1998年11月 - 全日本卓球選手権大会・カデットの部(14歳以下の部)ダブルス優勝・シングルス準優勝
  • 1998年12月 - 全日本卓球選手権大会・一般の部 ダブルス ベスト32(史上最年少出場)、ジュニアの部(17歳以下の部)シングルス準優勝(史上最年少出場)
  • 1999年3月20日 - レジスタードプロに登録
  • 1999年8月 - 東アジアホープス大会(日本代表)シングルス ベスト8
  • 1999年9月 - 全日本卓球選手権・ホープスの部(12歳以下の部)優勝
  • 1999年11月 - 全日本卓球選手権・カデットの部(14歳以下の部)準優勝
  • 1999年12月 - 全日本卓球選手権・ジュニアの部(17歳以下の部)ベスト4、一般の部 シングルス ベスト64(史上最年少出場、最年少勝利)
  • 2000年6月 - ジャパンオープン(日本代表)シングルス ベスト64、ダブルス ベスト32 日本代表初出場(小6)
  • 2000年9月 - 全日本卓球選手権・ホープスの部(12歳以下の部)優勝(7連覇)
  • 2000年11月 - 全日本卓球選手権・カデットの部(14歳以下の部)優勝
  • 2000年12月 - 全日本卓球選手権・ジュニアの部(17歳以下の部)ベスト32 
  • 2001年1月 - 第30回後藤杯選手権 女子シングルス 優勝(一般の部でのシングルス初優勝)
  • 2001年4月 - 東アジアホープス大会(日本代表)団体2位、シングルス3位
  • 2001年6月 - 中国オープン 決勝トーナメント進出
    • 世界ランク:126位
  • 2001年9月 - ジャパンオープン シングルス ベスト16、ダブルス ベスト8
    • 世界ランク:98位
  • 2001年12月 - デンマークオープン シングルス ベスト8、ダブルス ベスト8  
    • 世界ランク:67位
  • 2001年12月 - 全日本卓球選手権 ジュニアの部優勝、一般の部 シングルス 7位、ダブルス 3位  
  • 2002年8月 - 全国中学校卓球大会 女子シングルス優勝
  • 2002年9月 - ジャパンオープン ダブルス ベスト8
  • 2002年10月 - 釜山アジア大会 女子団体 銅メダル
  • 2002年12月 - 全日本卓球選手権 ダブルス優勝、ジュニアの部優勝
  • 2003年2月 - アジア選手権 女子ダブルス準優勝
  • 2003年3月 - 日本卓球リーグ実業団連盟ドリームチャレンジカップ 女子シングルス 優勝 推薦参加
  • 2003年5月 - 第47回世界卓球選手権個人戦 シングルス ベスト8
  • 2003年8月 - 全国中学校卓球大会 シングルス優勝 
  • 2003年9月 - アジアジュニア卓球選手権大会 女子団体ベスト4、ダブルス ベスト4
  • 2003年9月 - 中国オープン 3回戦敗退
  • 2003年9月 - ジャパンオープン 3回戦敗退
  • 2003年11月 - ドイツオープン シングルス(アンダー21)優勝
  • 2003年11月 - スウェーデンオープン シングルス(アンダー21)優勝
  • 2003年12月 - 第1回世界ジュニア選手権大会(チリ)ダブルス 銅メダル、シングルス ベスト8
  • 2004年1月 - 全日本卓球選手権 女子ダブルス優勝、ジュニアの部優勝
  • 2004年3月 - 第47回世界卓球選手権団体戦 女子団体 銅メダル
  • 2004年4月 - アジア大陸オリンピック予選 シングルス 3位(アテネオリンピック出場決定)
  • 2004年8月 - アテネオリンピック シングルス ベスト16 ※(直後の世界ランキングwr19位に、初の10位台)次項に詳述あり
  • 2004年10月 - 国体優勝 少年女子団体の部、青森県代表として(埼玉)
  • 2004年12月 - 世界ジュニア卓球選手権大会2004 神戸大会
    • 女子シングルス 3位
    • 混合ダブルス 3位
    • 女子団体 準優勝
  • 2005年1月11~16日、全日本卓球選手権大会
    • 女子シングルス 6回戦敗退
    • 女子ダブルス 優勝
    • 混合ダブルス 優勝
  • 2005年2月 - ジャパントップ12卓球大会 準優勝
  • 2005年3月12・13日 - 第17回女子アジアカップ シングルス 準優勝※(直後の世界ランキングwr32→wr23へ大幅アップ)
  • 2005年3月28日 - 高等学校選抜卓球大会 団体戦準優勝(青森山田高校)
  • 2005年3月31日 - ミキハウスジュニアスポーツクラブ満期終了、一時フリーになる
  • 2005年4月1日 - 中国スーパーリーグ遼寧省チーム入団(一年契約)
  • 2005年4月11日 - グランプリと4年契約を結ぶ
  • 2005年4月30日~5月6日 - 第48回世界卓球選手権上海大会
    • 女子シングルス 3回戦敗退
    • 女子ダブルス ベスト8
    • 混合ダブルス 3回戦敗退
  • 2005年9月 - アジア卓球選手権、ダブルスで銅メダル、ペアは藤沼
  • 2005年10月 - 国体2連覇 少年女子団体の部、青森県代表として(岡山)
  • 2005年11月 - ITTF女子ワールドカップ3位(銅メダル)中国広州 ※(直後の世界ランキングwr25→wr16へ大幅アップ)
  • 2006年1月 - 全日本卓球選手権大会
    • 女子シングルス ベスト8
    • 女子ダブルス ベスト4
    • 混合ダブルス 準優勝
  • 2006年2月 - ジャパントップ12卓球大会 準優勝
  • 2006年3月5日 - 第19回グランプリアジアカップ シングル5位
  • 2006年3月15日 - 超級リーグ広東チームへの移籍契約調印を行う
  • 2006年4月9日 - 日本卓球リーグ実業団連盟 ビッグトーナメント 女子シングルス 優勝(推薦参加)
  • 2006年4月24日 - 5月1日 - 第48回世界卓球選手権ブレーメン大会
    • 女子団体 3位 銅メダル
  • 2006年6月 - ITTFツアー 台湾OP ダブルス優勝 ツアーでは初の優勝、ペアは藤沼
  • 2006年8月7日 - 11日 - インターハイ
    • 女子団体 準優勝
    • 女子シングルス 準優勝
    • 女子ダブルス 優勝
  • 2006年9月 - ITTFツアー ジャパンOP ダブルス銅メダル
  • 2006年10月 - 国体優勝3連覇 少年女子団体の部、青森県代表として(兵庫)
  • 2007年1月 - 平成18年度全日本卓球選手権大会
    • 女子シングルス ベスト16
    • 女子ダブルス 4回戦(初戦)敗退
    • 混合ダブルス 優勝(坂本竜介ペア)
  • 2007年2月10日 - ジャパントップ12卓球大会 準優勝
  • 2007年4月8日 - ビッグトーナメント 初戦敗退
  • 2007年4月30日 - 5月6日 - 第49回世界卓球選手権ザグレブ大会
    • 女子シングルス 3回戦敗退
    • 女子ダブルス 2回戦敗退
    • 混合ダブルス 3回戦敗退
  • 2007年10月 - ITTFツアー オーストリアOP ダブルス優勝平野早矢香とのペア)
  • 2008年1月 - 平成19年度全日本卓球選手権大会
    • 女子シングルス ベスト16
    • 女子ダブルス 優勝(照井萌美とのペア)
    • 混合ダブルス 準決勝敗退(坂本竜介ペア)
  • 2008年2月9日 - ジャパントップ12卓球大会 ベスト4
  • 2008年2月 - 第49回世界卓球選手権広州大会
    • 女子団体 3位 銅メダル
  • 2009年1月 - 平成20年度全日本卓球選手権大会
    • 女子シングルス ベスト4
  • 2009年2月 - ジャパントップ12卓球大会 準優勝
  • 2009年7月 ITTFプロツアー・モロッコオープン
    • 女子シングルス 優勝
    • 女子ダブルス 優勝(石川佳純ペア)
  • 2009年11月 - 第19回アジア卓球選手権大会 混合ダブルス 3位
  • 2009年12月 - 東アジア競技大会 女子ダブルス 優勝
  • 2010年2月 - ジャパントップ12卓球大会 準優勝
  • 2011年1月 - 平成22年度全日本卓球選手権大会
    • 女子シングルス ベスト4
  • 2011年4月 - 日本卓球リーグ ビッグトーナメント石川大会
    • 女子シングルス 優勝
  • 2012年1月 - 平成23年度全日本卓球選手権大会
    • 女子シングルス 優勝(初)

オリンピックでの対戦成績[編集]

  • アテネオリンピック女子シングルス
    • 2回戦 - オーストラリアのミャオ・ミャオと対戦し、4-3で勝利。
    • 3回戦 - アメリカのガオ・ジュン(世界ランク12位)と対戦し、4-0で勝利。
    • 4回戦 - 韓国金暻娥(世界ランク6位)と対戦し、1-4で敗退。8強ならず。

受賞[編集]

  • 1993年 - 功労賞(日本卓球協会)
  • 1994年 - 未来賞(ミロスポーツ大賞)
  • 1995年 - 日本スポーツ賞読売新聞社)、特別奨励賞(宮城県体育協会)
  • 1996年 - 奨励賞(宮城県体育協会)、感謝状(兵庫県卓球協会)、感謝状(ライオンズクラブ)
  • 1997年 - 奨励賞(宮城県体育協会)、スポーツ奨励賞(仙台市教育委員会)
  • 1998年 - 奨励賞(宮城県体育協会)、スポーツ奨励賞(仙台市教育委員会)
  • 2003年 - 第5回王国大賞、プレイヤー・オブ・ザ・イヤー(卓球王国
  • 2004年 - 第4回日本卓球人賞
  • 2004年2月2日 - イタリアテルニの親善大使に任命
  • 2005年1月 - 夢見る女の子大賞(ロッテ主催)
  • 2012年9月22日 - 杉並区スポーツ栄誉賞

主な出場イベント[編集]

  • 2000年4月4日 - プロ野球・日本ハム始球式をつとめる(東京ドーム)
  • 2004年1月 - ミキハウスの毎年恒例の新年会に最後の参加をした。ゲストは星野仙一
  • 2004年6月 - ミキハウスの五輪壮行会
  • 2004年8月 - アテネ五輪聖火リレー最終ランナーをつとめる(新宿)
  • 2004年10月20日 - 新宿、都庁前で一日警察署長
  • 2005年2月 - 中国大使館を表敬訪問、卓球交流
  • 2005年4月23日(反日感情が悪化していた時期) - 中国大使館訪問、王穀駐日大使に表敬
  • 2005年3月 - 中越地震で被災した長岡市の南中学を慰問、卓球交流。
  • 2005年5月14日 - 映画『KARAOKE-人生紙一重-』(グランプリ製作)の試写会にゲスト出演
  • 2005年7月 -「中国と日本60年の歩み」写真展(東京)ジャッキー・チェンとともにイベントに呼ばれる。(福原は晴れ着で登場した。)
  • 2005年9月 - 青森山田高校体育館で、幼稚園生を対象にこてんこてんこと気球イベント
  • 2005年9月19日 - 愛・地球博上海ウイークのイベントに出場
  • 2005年11月20日 - スペシャルオリンピックのトーチランの伴走者を務める(青森市)
  • 2006年3月31日 - 日中卓球交流50周年記念イベント(北京)
  • 2006年10月11日 - 外国特派員協会の昼食に招かれインタビューに応じた。(東京都)
  • 2006年10月12日 - 全国旅館生活衛生同業組合連合会全旅連)のイメージキャラクターに選ばれた。(東京都)
  • 2007年5月 - 糖尿病対策の会見「グリコヘモグロビン認知向上運動」に日本卓球協会を代表して出演

テレビ出演[編集]

  • 愛が見えた!泣き虫愛ちゃん14年の挑戦(フジテレビ、2003年3月2日)
特別番組で、福原を幼少から成長を追って取り上げたドキュメント。司会は安藤優子。視聴率は14.3%だった。
ドキュメンタリー番組。同日放送回において、超級を中心に取り上げた。NHK総合でも再放送。
同日の放送回において、前年の超級や学校生活に密着した。
  • 新春スペシャル対談 未来に架ける橋(NHK-BS1、2006年1月)
谷村新司との100分に渡る対談番組。
テレビアニメ。妖精アイちゃん役として、声の出演。
2005年12月26日・2006年1月9日の二度にわたり同局で放送された『中国語会話』においてインタビューを受けたことなどがきっかけで、NHKの語学番組出演に関心を持つようになり、出演依頼を快諾した。番組では、共演者の盧思が「ネイティブ並み」と評する発音で、その日のフレーズを紹介する役割を担う。毎週5分という短さであるが、福原にとって初めてのレギュラー番組である。福原の出演部分は時間的都合を考え、全25回分まとめ撮りされた。

ぐるない(2014年12月25日。日本テレビ) ごちそうバトル参加した とんねるずのスポーツ王(毎年1月2日。テレビ朝日) 卓球対決に登場。毎年とんねるずの罠にはまってしまう

CM出演[編集]

2007年4月より放送。また、福原の栄養サポートも行っているとのこと。

アテネ五輪の試合放送[編集]

アテネ五輪初戦当日、福原の試合は20時頃から始まったが当初生中継はされていなかった。しかしテレビ東京は競泳の録画放送から彼女が2ゲーム取られピンチの状態から生中継を開始した。30分程度の放送がされ試合途中で番組は終了した。この試合ではフルゲームの末、逆転勝利した。

同日、NHK-BS1とNHK総合は23時頃から、TBSは0時頃から録画放送を開始。その3局は他局と時間がかぶっているにもかかわらず、ノーカットで試合放送した。次の3回戦はNHK、TBSが生放送をした(19:30-)。NHKだけで平均視聴率は20.1%、勝利した瞬間の最高視聴率は31.9%という高視聴率をマークした(関東地区、ビデオリサーチ調べ)。NHKが「卓球の愛ちゃん人気の高さには驚きました」と話したように、この数字は各局に少なからぬ衝撃を与えた。

最終試合となった3試合目、4回戦は開始が0時頃だったが、これはフジが生放送。2戦目に比べ数字の取りにくい時間帯だったが、これも高視聴率をマーク。福原が敗れた瞬間の最高視聴率は22.7%(フジ:19日0時34分)。

2004年6月2日にマクロミルが調べたアテネオリンピックで注目・期待する選手についてのアンケートで北島康介谷亮子に次いで3位となった。福原はメダルを取れなかったが、マスコミは他のメダリストとともに福原を番組に呼んでインタビューを繰り返した。

アテネ五輪で初めて福原の試合を見たという人が多く、その人たちには福原が出す「サーッ!」という声をはじめて聞くことになり、小さい頃は泣きながら卓球をやっていた少女が、あんなに元気よく声を出していることに感銘を受けた人も多かった。各局のインタビューでは、必ずサーの質問がされ「あれはサーなのかターなのかシャーなのか」という論議がしばらく続いた。『報道ステーション』(テレビ朝日)のインタビューでは「気合いです。何て言ってるのか分からない。」とコメントした。声紋を機械にかけたところ、発音は「ター!」であることが判明した。

関連商品[編集]

  • いくぜ!温泉卓球(彩京PS2ゲームソフト、2000年)小学6年の福原愛が対戦相手として登場
  • 福原愛の卓球一直線(サクセス、PS2ゲームソフト、2005年)高校生の福原愛となって戦う。
  • エキサイトピンポン(エポック、2006年7月)子供の福原愛と、高校生の福原愛と戦える。
  • 福原愛物語(少年サンデーで漫画化、あおやぎ孝夫作、2004年8月4日)
  • 卓球ラケット「福原愛」(バタフライ)
  • 卓球シューズ「WAVE FLORA AI」(ミズノ
  • 卓球練習マシーン「マシンガン愛I、II」(TSP)
  • 卓球のレッスンDVDバタフライより発売されている。
  • 中国の卓球選手ばかりが歌うラップ曲2曲に特別参加している。(2005年・2006年)
  • 2006年度福原愛カレンダーがANAより作られる。(2005年12月)
  • 2頭身フィギュア(ロッテのガムの懸賞の商品になった。2006年)

福原をとりあげた書籍[編集]

  • 福原愛写真集「LOVE ALL」(卓球王国、2005年3月)
  • 愛は天才じゃない - 母が語る福原家の子育てって?(生島淳著、2005年1月、三起商行)母のインタビュー本。
  • 愛ちゃんのあ。(福原の母の著、1997年10月、リイド社
  • スポーツのニューヒロイン〈2〉福原愛物語(本郷陽二著、2005年11月、汐文社) 子供向け
  • 卓球王国(1996年 - )
    • 創刊号以来何度も表紙を飾り、インタビューも数多く取り上げられた。月刊福原愛という1Pの記事があり、名称は何度か変わったが、小学生の頃から続いている企画がある。
  • 卓球レポート(1994年 - )
  • AERA朝日新聞出版、2003年5月12日)表紙を飾った。
  • 小学一年生(小学館、1995年4月 - 1996年3月)表紙を飾った。
  • 中国の卓球雑誌「世界卓球」(2005年8月)で表紙や本編などで大きく取り上げられた。

脚注[編集]

外部リンク[編集]

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