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(騎手の養成)
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ばんえい競走の騎手重量は77キロで統一しており、比較的重めに設定していることから過度に減量を行う者は少ない。
 
ばんえい競走の騎手重量は77キロで統一しており、比較的重めに設定していることから過度に減量を行う者は少ない。
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=== 養成機関 ===
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日本の場合、中央競馬では[[1982年]]、騎手養成機関として千葉県に[[競馬学校]]が設立され、騎手課程が設けられた。養成期間は3年間。かつて騎手養成機関は[[馬事公苑]]に設置されており、騎手候補生が騎手講習会(長期講習と短期講習とがあった)を受けた後、騎手免許試験を受験する制度が採用されていた。
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競馬学校の受験資格は、年齢は義務教育卒業から20歳まで。このため騎手課程の場合は現役の大学生や短大卒・大卒は受験が困難か不可能である。体重は育ち盛りの年頃であるため、入所時に44キロ以下。
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地方競馬では[[栃木県]]に[[地方競馬教養センター]]がある。ここの騎手養成は2年間の長期課程である。かつては短期養成課程が存在したが、これは主に競馬場での[[厩務員]]や[[調教助手]]などの経歴者、並びに日本国外の騎手免許を取得しレースに出走した騎手を対象としたものであったが、[[岡田祥嗣]]のように経歴がなくても短期養成課程出身と言う例外もある(幼少期より馬に跨り、かつ岡田の父が厩務員をしていたこともある理由から)。
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地方競馬のうち[[ばんえい競走|ばんえい競馬]]については、騎手を養成する専門機関は存在しない(地方競馬教養センターに養成部門がない)。ばんえい競馬の騎手を目指す者は、ばんえい競馬の各厩舎において基礎技術を習得し、ばんえい競馬が独自の内容で開催している騎手免許試験を受験する。詳細は[[ばんえい競走#騎手]]を参照。
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どちらの機関でも、卒業前に騎手免許試験を受験して合格し、騎手免許を取得した上で、晴れて騎手となる。試験である以上、不合格となり騎手免許が取得できない事態、試験前の負傷・疾病で受験ができないという事態も起き、この場合に騎手になるためには、次の機会を待ち再度受験する必要がある。騎手免許の取得は中央競馬では[[3月1日]]、地方競馬は[[4月1日]]を基点(平地の場合。ばんえいは1月1日が基点)としているが、年に複数回の騎手免許試験が実施される地方競馬では年度途中の騎手デビューも珍しくない(平地の場合。ばんえいは年1回)。
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日本以外の国での場合、日本と同様に専門の養成機関を主体とした騎手養成を行う地域、厩舎で徒弟修業を行い実践で騎乗技術を身に付けるという制度の地域、民間による騎手養成所が各地に設置されている地域など、地域毎に騎手養成方式は様々である。また、そのライセンス取得に至るまでの育成も、日本の様に少数精鋭主義を取り、最初の養成機関の入学試験から卒業までの時点でふるいを掛け続けて、徹底的に絞り込む「狭き門」であるところから、豪州のように、騎手養成所のカリキュラムを修了し、騎乗技術と公正確保に支障のない人物なら、騎手ライセンスを比較的容易に取得できる<ref group="注">その反面、実戦の場でより厳しい生存競争が待つということであり、例えば豪州の場合、騎手には日本のJRAのような[[副業禁止規定]]がないことから、騎手としての収入だけで生活できない者は牧場勤務や店員など様々な副業を行う。</ref> ところまで様々である。
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=== 「一発試験」 ===
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騎手免許を統括するJRA・NARのいずれも、騎手免許試験については上記の養成機関への在籍経験を持たない人物でも、必要条件を満たせば受験自体は可能としている。
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このため、上記の養成機関を経ずに、あるいは上記の養成機関に入ることができなくとも、あるいは中退を余儀なくされても、騎手として必要な乗馬技術を持っていれば、俗に「一発試験」などと呼ばれる形で騎手免許試験を受験すること自体は可能であり、合格すれば騎手免許を手にすることができる。
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日本国外で競馬の世界に入り[[見習騎手]]等の形で騎乗経験を積むなどの手順を踏んで受験する騎手もいる。現在までにこのような手順で「一発試験」を突破し騎手免許を取得した者には、中央競馬では[[横山賀一]]、地方競馬では[[中村尚平]]・[[笹田知宏]]の例があるが、非常に少ない。また、中村と笹田は帰国後に地方競馬の厩舎に入り調教厩務員を経験している。
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また、特に地方競馬では、最初はまず厩務員として厩舎に入り調教騎乗などの実務の実践経験を現場で習得して調教担当厩務員などとなる、つまりは厩舎・競馬場での実践で受験に必要な技術を身に付け、その上で「一発試験」で受験→合格という手順を踏んで騎手となる方法がある。この厩舎で実務経験を積んで「一発試験」を受け騎手になったという経歴を持つ人物は数多いが、中にはJRA・地方競馬の騎手養成課程で中途断念を余儀なくされた人物が、再び騎手を志して厩舎に入り、「一発試験」を乗り越えて晴れて騎手免許を手にするケースも見られる。このような「再起」の経緯を持つ騎手としては[[石崎駿]]・[[安藤洋一]]などの例がある。なお、これは一見すれば大きな遠回りをしている様に見えるが、JRA競馬学校騎手課程を中途退学後に地方競馬の厩務員を経て「一発試験」で騎手免許を取得した石崎駿のケースでは、結果的に同時に競馬学校に入学した競馬学校騎手課程第18期生よりも半年以上早く騎手デビューを果たすことになった。
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=== 「学士騎手」 ===
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騎手免許試験の受験資格には年齢の上限<ref group="注">[[#日本における免許制度|日本における免許制度]]で記載したように下限は16歳である。</ref>が設けられておらず、かつての騎手養成機関の短期課程も騎乗技術を持つ事実上は競馬サークル内部の人間を対象としたもので、年齢制限が緩かったことから、「一発試験」やかつて存在した騎手養成の短期課程を経て騎手となった人物の中には、[[大学]]卒業後に縁あって厩舎に入り下乗りを経て騎手になるという経歴を辿った、俗に「[[学士]]騎手」などと呼ばれる人物がごく少人数ではあるが存在する。
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いずれも元騎手であるが、JRAでは[[太宰義人]]・[[山内研二]]、地方競馬では[[森誉]]([[船橋競馬場|船橋]])・[[橋口弘次郎]]([[佐賀競馬場|佐賀]])・早川順一([[足利競馬場|足利]])などの例がある。なお、他にもJRAの[[大久保正陽]]や[[川合達彦]]、地方競馬では[[達城龍次]]が大学卒の学士騎手の範疇であるが、この3人は、騎手業と学業を両立させた上で大学を卒業したというさらに稀有な人物である<ref group="注">大久保の場合は、大学に通っていたのは1950年代後半で、現在のような騎手の[[競馬の競走#調整ルーム|調整ルーム]]での前日集合という規則はまだなく、さらにJRAの場合、[[トレーニングセンター]]開設以前の競馬関係者の本拠地は市街地の競馬場であり、若い競馬関係者が[[夜学]]に通うことは可能であった。</ref><ref group="注">川合の場合は、騎手デビューの1年後に所属厩舎の許可を得て滋賀県内の夜学(定時制の高校)に通っていたが、当時の規則上競馬の仕事と学業との両立が難しく、出席日数不足で高校を自主退学した。その後フリーの騎手となり、1999年8月3日より6日まで実施された旧・[[大学入学資格検定]]を受検して一発合格した後に、立命館大学を受験して合格し、2000年4月より2004年の3月まで現役騎手を続けながら同大学に通っていた。大久保は同大学の先輩に当たり、また、川合は競馬学校世代の騎手で唯一の大学卒業者でもある。</ref><ref group="注">龍城は[[早稲田大学]]に入学し、現役騎手を続けながら卒業している。ただしJRAの大久保や川合などとは異なり、龍城は通信教育部への入学であったため、それゆえに大学に通学する日数は少なくて済むことから、競馬開催および騎乗数への影響は少なかった。龍城は学士騎手となったのみならず、騎手になる前には[[俳優]]で活躍しており、競馬関係者では珍しく学歴・職歴の両面で異色の経歴を有している。</ref>。
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=== 外国人騎手・元騎手に対する試験 ===
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元々、何らかの事情で一度引退した騎手が「一発試験」で騎手免許を再取得し復帰するケースはしばしば存在した<ref group="注">代表例として、JRAの[[蛯沢誠治]]、[[西田雄一郎]]は不祥事により一時的に騎手免許を返上、数年後に再取得している。</ref><ref group="注">地方競馬の例として[[兵庫県競馬組合]]では、他の競馬場から転入する際には、騎手免許を一時的に返上させられ、厩務員として6か月から1年の間従事し、騎手免許を再取得する内規があり、[[有馬澄男]]、[[北野真弘]]、[[中越豊光]]といった実績のあった騎手も例外がなかった。</ref>。ただこの場合の受験資格は従来明文化されていなかった。これに対し2014年度のJRA騎手免許試験からは、外国人騎手の受験と同時に元騎手が復帰する場合の受験資格も明文化され、「過去にJRAの騎手で、騎手から直接JRAの調教助手または厩務員に転身したもの」以外は原則として試験の一部免除を行わないことになった。
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2014年度の試験より、原則として元JRA騎手や外国人騎手については、一次試験のうち騎乗技術の実技試験が省略されるほか(外国人騎手の場合は体力測定も省略)、筆記試験も通常の騎手試験と内容が異なり、元JRA騎手については「競馬関係法規」のみ、外国人騎手の場合は「競馬関係法規及び中央競馬の騎手として必要な競馬に関する知識」のみとなる。また一次試験を日本語ではなく英語で受けることも可能になった。二次試験も外国人騎手については実技試験が省略され、代わりに技術に関する口頭試験が行われる(実質的には一次・二次とも地方競馬の騎手と同等の試験内容となっている)。ただし二次試験は全て日本語で行われるため、実際に試験を受験したミルコ・デムーロは一時騎乗を自粛してまで日本語の勉強を優先させ試験に備えた。
  
 
== 出典・脚注 ==
 
== 出典・脚注 ==

2019年11月30日 (土) 11:34時点における版

騎手(きしゅ)とは、馬に跨り、馬上から馬を操縦する人のことである。

競馬制度は国家・地域によって異なり、それぞれに独自の競馬文化と歴史を有し、開催運営や人材育成のシステムが築かれている。その中において「騎手」という意味の言葉が、競馬競走への参加に必要な資格ないし公的なライセンスとしての資格称号を指すこともある。

解説

競馬の場合、平地競走障害競走では競走馬の背に騎乗するが、ばんえい競走繋駕速歩競走ではそりや馬車に搭乗して操縦する。また騎手は自分の体重を含め指定された重量(斤量)で騎乗することが求められる。

英語で騎手を表すジョッキーjockey)は、ジャックやジョンの蔑称であるジョックに由来する。ジョックは後にジョッキーと訛り、単に競馬好きや馬好きを表すようになった。かつてイギリスの競馬施行体であったジョッキークラブも元々は競馬愛好家の集まりである。現在の意味を持つようになったのは、騎手や調教師、馬主が分業されるようになった19世紀以降で、古い英語が残るオセアニア諸国などではライダーと呼ばれることが多い。繋駕速歩競走ではドライバーと呼ぶ。また日本では俗称として乗り役とも言う。そのほか「JK」や「J」との略称も使用されている。

日本における免許制度

競馬法に基づき、農林水産大臣の認可を受けた日本中央競馬会(JRA)と地方競馬全国協会(NAR)がそれぞれ試験を実施、免許を交付している。JRAの競馬学校、NARの地方競馬教養センターの騎手課程を経て、受験資格を得るのが一般的である。国家資格である。

受験資格は受験日時点で16歳以上の者であるが、さらに以下に記載した事項に該当するものは受験できない。

など(詳細については出典を参照のこと)。

中央競馬、地方競馬ともに有効期限は1年で、続けて騎乗する場合には試験を受け、免許を更新する必要がある。現行の制度では調教師免許などと同時に取得することはできない。中央競馬では平地競走障害競走で、地方競馬では平地競走とばんえい競走でそれぞれ免許を交付している。

免許更新は中央が3月1日付、地方は所属する場により2015年以降年3回に分けられ、4月1日(南関東)、8月1日(金沢、笠松、名古屋、兵庫)、12月1日(ばんえい、北海道、岩手、高知、佐賀)付となる。また不合格になった者は翌年の同じ回より前の試験は受験できない。

中央競馬の騎手免許では、2009年までは競馬学校出身者、地方競馬全国協会の騎手免許を受けている者であって『本会の定めた基準』に該当する者、それ以外で分けられていたが、2010年以降は競馬学校出身者、地方競馬全国協会の騎手免許を受けている者、それ以外の3種類に変更された[注 1]

短期騎手免許

指定競走・交流競走・特別指定交流競走で騎手免許がない競走に騎乗する場合には、試験なく「その競走に限定した騎手免許」が交付される。日本国外の競馬で騎乗している騎手に対しては、日本国内の調教師・馬主を引受人として臨時に行われる試験に合格した上で、1ヶ月単位の短期免許を1年の間に3ヶ月間まで交付する。詳しくは短期免許の項目に譲る。

ダブル免許制と安藤勝己

2003年2月までJRA・NARの免許を両方持つ騎手は存在しなかったが、2003年2月に当時笠松競馬場所属であった安藤勝己がJRAの免許試験に合格し、同時にNARの騎手免許の取消願を提出した。

この時、NARはダブル免許を容認し、中央競馬の免許の取得による免許の取消には応じなかったため、2003年3月1日から安藤はJRAとNARの両方の免許を所有することとなった。この時点でJRAは、地方競馬の免許で騎乗した場合には中央競馬の免許を取り消すとしていた。さらに、安藤がNARの交流競走に騎乗した時には、地方競馬全国協会はすでに免許があるとして、短期免許は交付しなかった。したがってJRAは特例として認めざるを得ない状況になり、特例を適用した。

その後、2003年6月16日に地方競馬全国協会は、安藤のNARにおける騎手免許を取り消したため、この特例は解消された。

調騎分離

現在、中央競馬及び地方競馬では騎手免許と調教師免許を同時に持つことはできない。つまり、調教師が自分の管理する競走馬に乗ってレースに出走することは現行の規定では不可能である。

1930年代以前は「調教師兼騎手」は珍しい存在ではなかった。一例を挙げると大久保房松などは、管理馬に騎乗して日本ダービー制覇を達成している(1933年、カブトヤマ)。調教師と騎手の業務が分離されるようになったのは、1937年日本競馬会競馬施行規定が規定されてからである。ただしこの規定は、日本競馬会発足以前に免許を受けていた調教師(騎手)に対しては、1942年12月31日までは猶予期間とされたため、猶予期間中は引き続き調教師が騎手としても騎乗することができた。

なお、戦後の一時期も調教師が騎手を兼務することが可能であったが、1948年より調騎分離が厳格に適用されることになり、調教師と騎手の兼務が不可能となり、現在に至っている。

ばんえい競馬においては平地競馬よりもかなり遅く、1978年度より完全実施されている。

外国人と騎手免許

日本国籍を持たない騎手に対する免許制度としては、1994年より短期騎手免許制度が設けられているが、前述のとおり短期免許では騎乗期間が年間で最大3か月間に限られる。これに対し、外国人騎手からは「年間を通じて騎乗できる免許を発行できるようにして欲しい」との要望が以前からあり、これを受けてJRAでは2014年度の騎手免許試験より外国人騎手に対する通年免許の発行を認めることになった(試験の詳細については後述)。なお外国人騎手が中央競馬の通年免許の発行を受けた場合、当該騎手は「年間を通じて中央競馬で騎乗すること」が必須要件となる。

2013年10月に行われた1次試験ではミルコ・デムーロ(イタリア)が試験を受験、外国人騎手によるJRAの騎手試験受験第1号となったが、この年は不合格となった。

2015年にミルコ・デムーロとクリストフ・ルメール(フランス)が騎手免許試験に合格。外国人騎手として初めてJRAの通年免許を取得した。

その後、ダリオ・バルジュー(イタリア)が2015年と2016年の2回、JRA騎手免許試験の1次試験を受験したが、2年連続で不合格となった。

母国と日本の騎手免許併用の可否については、国により差異があり、併用ができないフランスの騎手免許を取得していたルメールはJRA通年免許の取得にあわせてフランスの騎手免許を返上している。

騎手の養成

平地競走の騎手は着衣や馬具を含めて50数キロ(日本の場合、最も軽いケースで48キロ)での騎乗が求められることから、特に体重に関しては並の職業の比ではない厳しい自己管理の技術を必要とし、なおかつ馬に乗り操縦し競走を行うための専門的な騎乗技術が必要である。また、競馬関連法規や騎手としての競走の公正確保のために必要な知識や情報を学習することも必要である。

従って、一般の人いきなり騎手になるということは極めて困難であり、よって専門的な養成が必要なスポーツである。そのため、競馬を開催している国や地域毎に騎手業のライセンス制度が整備されており、日本も含めて競馬が開催される国の大半には騎手養成のための教育機関や養成所が設置されている。他方、養成機関を経由せず、競馬場や厩舎、あるいは競馬関連産業で競走馬の扱い方を身に付けた人物が、技能試験を受けて騎手となれるシステムが整備されている国・地域も多い。

ばんえい競走の騎手重量は77キロで統一しており、比較的重めに設定していることから過度に減量を行う者は少ない。

養成機関

日本の場合、中央競馬では1982年、騎手養成機関として千葉県に競馬学校が設立され、騎手課程が設けられた。養成期間は3年間。かつて騎手養成機関は馬事公苑に設置されており、騎手候補生が騎手講習会(長期講習と短期講習とがあった)を受けた後、騎手免許試験を受験する制度が採用されていた。

競馬学校の受験資格は、年齢は義務教育卒業から20歳まで。このため騎手課程の場合は現役の大学生や短大卒・大卒は受験が困難か不可能である。体重は育ち盛りの年頃であるため、入所時に44キロ以下。

地方競馬では栃木県地方競馬教養センターがある。ここの騎手養成は2年間の長期課程である。かつては短期養成課程が存在したが、これは主に競馬場での厩務員調教助手などの経歴者、並びに日本国外の騎手免許を取得しレースに出走した騎手を対象としたものであったが、岡田祥嗣のように経歴がなくても短期養成課程出身と言う例外もある(幼少期より馬に跨り、かつ岡田の父が厩務員をしていたこともある理由から)。

地方競馬のうちばんえい競馬については、騎手を養成する専門機関は存在しない(地方競馬教養センターに養成部門がない)。ばんえい競馬の騎手を目指す者は、ばんえい競馬の各厩舎において基礎技術を習得し、ばんえい競馬が独自の内容で開催している騎手免許試験を受験する。詳細はばんえい競走#騎手を参照。

どちらの機関でも、卒業前に騎手免許試験を受験して合格し、騎手免許を取得した上で、晴れて騎手となる。試験である以上、不合格となり騎手免許が取得できない事態、試験前の負傷・疾病で受験ができないという事態も起き、この場合に騎手になるためには、次の機会を待ち再度受験する必要がある。騎手免許の取得は中央競馬では3月1日、地方競馬は4月1日を基点(平地の場合。ばんえいは1月1日が基点)としているが、年に複数回の騎手免許試験が実施される地方競馬では年度途中の騎手デビューも珍しくない(平地の場合。ばんえいは年1回)。

日本以外の国での場合、日本と同様に専門の養成機関を主体とした騎手養成を行う地域、厩舎で徒弟修業を行い実践で騎乗技術を身に付けるという制度の地域、民間による騎手養成所が各地に設置されている地域など、地域毎に騎手養成方式は様々である。また、そのライセンス取得に至るまでの育成も、日本の様に少数精鋭主義を取り、最初の養成機関の入学試験から卒業までの時点でふるいを掛け続けて、徹底的に絞り込む「狭き門」であるところから、豪州のように、騎手養成所のカリキュラムを修了し、騎乗技術と公正確保に支障のない人物なら、騎手ライセンスを比較的容易に取得できる[注 2] ところまで様々である。

「一発試験」

騎手免許を統括するJRA・NARのいずれも、騎手免許試験については上記の養成機関への在籍経験を持たない人物でも、必要条件を満たせば受験自体は可能としている。

このため、上記の養成機関を経ずに、あるいは上記の養成機関に入ることができなくとも、あるいは中退を余儀なくされても、騎手として必要な乗馬技術を持っていれば、俗に「一発試験」などと呼ばれる形で騎手免許試験を受験すること自体は可能であり、合格すれば騎手免許を手にすることができる。

日本国外で競馬の世界に入り見習騎手等の形で騎乗経験を積むなどの手順を踏んで受験する騎手もいる。現在までにこのような手順で「一発試験」を突破し騎手免許を取得した者には、中央競馬では横山賀一、地方競馬では中村尚平笹田知宏の例があるが、非常に少ない。また、中村と笹田は帰国後に地方競馬の厩舎に入り調教厩務員を経験している。

また、特に地方競馬では、最初はまず厩務員として厩舎に入り調教騎乗などの実務の実践経験を現場で習得して調教担当厩務員などとなる、つまりは厩舎・競馬場での実践で受験に必要な技術を身に付け、その上で「一発試験」で受験→合格という手順を踏んで騎手となる方法がある。この厩舎で実務経験を積んで「一発試験」を受け騎手になったという経歴を持つ人物は数多いが、中にはJRA・地方競馬の騎手養成課程で中途断念を余儀なくされた人物が、再び騎手を志して厩舎に入り、「一発試験」を乗り越えて晴れて騎手免許を手にするケースも見られる。このような「再起」の経緯を持つ騎手としては石崎駿安藤洋一などの例がある。なお、これは一見すれば大きな遠回りをしている様に見えるが、JRA競馬学校騎手課程を中途退学後に地方競馬の厩務員を経て「一発試験」で騎手免許を取得した石崎駿のケースでは、結果的に同時に競馬学校に入学した競馬学校騎手課程第18期生よりも半年以上早く騎手デビューを果たすことになった。

「学士騎手」

騎手免許試験の受験資格には年齢の上限[注 3]が設けられておらず、かつての騎手養成機関の短期課程も騎乗技術を持つ事実上は競馬サークル内部の人間を対象としたもので、年齢制限が緩かったことから、「一発試験」やかつて存在した騎手養成の短期課程を経て騎手となった人物の中には、大学卒業後に縁あって厩舎に入り下乗りを経て騎手になるという経歴を辿った、俗に「学士騎手」などと呼ばれる人物がごく少人数ではあるが存在する。

いずれも元騎手であるが、JRAでは太宰義人山内研二、地方競馬では森誉船橋)・橋口弘次郎佐賀)・早川順一(足利)などの例がある。なお、他にもJRAの大久保正陽川合達彦、地方競馬では達城龍次が大学卒の学士騎手の範疇であるが、この3人は、騎手業と学業を両立させた上で大学を卒業したというさらに稀有な人物である[注 4][注 5][注 6]

外国人騎手・元騎手に対する試験

元々、何らかの事情で一度引退した騎手が「一発試験」で騎手免許を再取得し復帰するケースはしばしば存在した[注 7][注 8]。ただこの場合の受験資格は従来明文化されていなかった。これに対し2014年度のJRA騎手免許試験からは、外国人騎手の受験と同時に元騎手が復帰する場合の受験資格も明文化され、「過去にJRAの騎手で、騎手から直接JRAの調教助手または厩務員に転身したもの」以外は原則として試験の一部免除を行わないことになった。

2014年度の試験より、原則として元JRA騎手や外国人騎手については、一次試験のうち騎乗技術の実技試験が省略されるほか(外国人騎手の場合は体力測定も省略)、筆記試験も通常の騎手試験と内容が異なり、元JRA騎手については「競馬関係法規」のみ、外国人騎手の場合は「競馬関係法規及び中央競馬の騎手として必要な競馬に関する知識」のみとなる。また一次試験を日本語ではなく英語で受けることも可能になった。二次試験も外国人騎手については実技試験が省略され、代わりに技術に関する口頭試験が行われる(実質的には一次・二次とも地方競馬の騎手と同等の試験内容となっている)。ただし二次試験は全て日本語で行われるため、実際に試験を受験したミルコ・デムーロは一時騎乗を自粛してまで日本語の勉強を優先させ試験に備えた。

出典・脚注

出典

  1. 沖縄の復帰に伴う農林水産省令の適用の特別措置等に関する省令第19条により、沖縄の法令の規定により禁錮以上の刑に処せられた者も対象。刑法第34条の2により、刑期満了後に罰金以上の刑に処せられないで10年を経過した時は、欠格事由の対象外となる。

脚注

  1. による。ただし、2009年までは「過去5年間に中央競馬において年間20勝以上の成績を2回以上収めた地方競馬所属騎手」については異なる内容の試験が行われていたが、2010年以降は「申請年を含む3年間に中央競馬において年間20勝以上の成績を2回以上収めた地方競馬所属騎手」について、実地の騎乗技術試験を省略するのみとなった。
  2. その反面、実戦の場でより厳しい生存競争が待つということであり、例えば豪州の場合、騎手には日本のJRAのような副業禁止規定がないことから、騎手としての収入だけで生活できない者は牧場勤務や店員など様々な副業を行う。
  3. 日本における免許制度で記載したように下限は16歳である。
  4. 大久保の場合は、大学に通っていたのは1950年代後半で、現在のような騎手の調整ルームでの前日集合という規則はまだなく、さらにJRAの場合、トレーニングセンター開設以前の競馬関係者の本拠地は市街地の競馬場であり、若い競馬関係者が夜学に通うことは可能であった。
  5. 川合の場合は、騎手デビューの1年後に所属厩舎の許可を得て滋賀県内の夜学(定時制の高校)に通っていたが、当時の規則上競馬の仕事と学業との両立が難しく、出席日数不足で高校を自主退学した。その後フリーの騎手となり、1999年8月3日より6日まで実施された旧・大学入学資格検定を受検して一発合格した後に、立命館大学を受験して合格し、2000年4月より2004年の3月まで現役騎手を続けながら同大学に通っていた。大久保は同大学の先輩に当たり、また、川合は競馬学校世代の騎手で唯一の大学卒業者でもある。
  6. 龍城は早稲田大学に入学し、現役騎手を続けながら卒業している。ただしJRAの大久保や川合などとは異なり、龍城は通信教育部への入学であったため、それゆえに大学に通学する日数は少なくて済むことから、競馬開催および騎乗数への影響は少なかった。龍城は学士騎手となったのみならず、騎手になる前には俳優で活躍しており、競馬関係者では珍しく学歴・職歴の両面で異色の経歴を有している。
  7. 代表例として、JRAの蛯沢誠治西田雄一郎は不祥事により一時的に騎手免許を返上、数年後に再取得している。
  8. 地方競馬の例として兵庫県競馬組合では、他の競馬場から転入する際には、騎手免許を一時的に返上させられ、厩務員として6か月から1年の間従事し、騎手免許を再取得する内規があり、有馬澄男北野真弘中越豊光といった実績のあった騎手も例外がなかった。

関連項目