黒田博樹

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ドジャース時代(2010年)

黒田 博樹(くろだ ひろき、1975年2月10日 - )は、ニューヨーク・ヤンキースに所属するプロ野球選手投手)。

父は元プロ野球選手の黒田一博

経歴

日本時代

父・黒田一博が監督を務めたボーイズリーグのチーム・オール住之江で活躍。上宮高から東都専修大学へ進学。上宮高では控え投手だったが、大学にて力をつけエースに君臨。チームは4年生春から東都大学1部リーグに昇格する。同年から大学野球でのスピードガン場内表示が始まった神宮球場において、大学生で初めて球速150km/hを計時し注目を浴びた。1部リーグ通算6勝4敗。

1996年、ドラフト逆指名2位で広島東洋カープに入団。1999年、シドニーで行われたインターコンチネンタル杯に日本代表として出場し韓国戦で勝利、台湾戦で完封勝利を収める。同年、カープの先発ローテに名を連ねる。

若い頃はスピードはあるものの制球難で、好投したかと思えば次の登板で初回5失点するなど好不調の波が激しく、成績も不安定であったが、2000年9月20日の巨人戦から閉幕まで4連続完投勝利を挙げ、一本立ちを果たす。

2001年はオールスターゲームに初出場。

2003年はそれまでのエース・佐々岡真司に代わって開幕投手となる。前半は不調で勝てない時期が続いたが、後半から本来の調子を取り戻し、最終的に13勝を挙げ3年連続2ケタ勝利を達成し、アテネオリンピック野球アジア予選にも出場。

2004年は6月20日に自己最速の157km/hを記録。アテネオリンピックでは野球日本代表中継ぎとして2勝し、銅メダル獲得に貢献。

2005年4月15日の横浜ベイスターズ戦では三浦大輔と互いに完封リレーを行い0-0というスコアで引き分けた。オールスターゲームではファン投票で選出され4年ぶりの出場を果たし、リーグ最多勝利で初タイトルを獲得。タイトル料込みで年俸2億円に達する。

2006年の国別対抗戦WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)には広島から新井貴浩と共に選出され、岩村明憲福留孝介と共に「無名の注目選手」とされるも、2月24日の12球団選抜との練習試合で打球を右手に受け負傷。出場辞退を余儀なくされる。

5月31日にFA権を取得。本人は「これを機に他球団の評価も聞いてみたい」と語った。6月まで5勝6敗、防御率、WHIP1.11と安定した投球を続け、オールスターゲーム出場直前の7月2日の中日ドラゴンズ戦からは負け無しの8連勝を記録。7月は4勝0敗、防御率0.84、WHIP0.78の活躍で月間MVPをチームメイトの栗原健太と共に受賞。更に8月も続けて4勝0敗、防御率1.11、WHIP0.86の活躍で月間MVPを連続受賞。球団史上初の2ヶ月連続月間MVP受賞となった。この時、「広島カープの歴史に名前を残せて嬉しい」と発言した。しかし、9月には右ひじを痛めて長期離脱。10月16日の中日戦で救援で復帰登板、プロ初セーブを記録した。この年、13勝6敗1セーブ、WHIP1.00、防御率1.85で最優秀防御率のタイトルを獲得。1点台でのタイトル獲得は1992年赤堀元之以来、セ・リーグでは1989年の斎藤雅樹以来の快挙となった。また、テンポの良い投球を評価されてスピードアップ賞を受賞。シーズン終盤、FA移籍の情報が各スポーツ紙を賑わせている真っ只中、長いカープの低迷と共にファンの熱も冷めてしまったと評されたファンが動き、完成させたのが広島市民球場外野席に突如現れた巨大横断幕である。それには多くのファンからのメッセージ、そして大きな文字で「我々は共に闘って来た 今までもこれからも… 未来へ輝くその日まで 君が涙を流すなら 君の涙になってやる Carpのエース 黒田博樹」と記されていた。更にシーズン最終登板試合には満員のファンが黒田の背番号15の赤いプラカードを掲げ球場を赤色に染め上げ、後に「あのファンの気持ちは大きかった」と述べた。この一連のエピソードは翌年7月に『誰がために〜黒田博樹物語〜』(漫画:吉原基貴、原案協力・取材:戸塚啓)として漫画化され、ヤングアニマル白泉社)に掲載された。オフには監督のマーティ・ブラウンの奨めで渡米し右肘関節のクリーニング手術(数か月で投球可能となる軽い手術)を行った。

FA権取得に伴い、10月15日に球団から「4年10億円+生涯保障、指導者手形」という条件を提示される。年俸だけを単年ベースでみると、1年2億5000万円であり、2006年の年俸が2億円であることから、タイトル奪取などの活躍とFA宣言をもってしても5000万円のみの昇給で、以後3年は現状維持だが、カープで従来2億円超えを経験した選手は前田智徳と金本のみであり、破格の条件と言えた。そして11月6日に4年12億円(基本年俸2億5000万円+単年最大5000万円の出来高込。当初の条件に出来高を上乗せしている)でFA権を行使せずに残留することを表明。「今後も国内他球団の移籍はない」と明言し、国内なら「生涯広島」を宣言した。なおこの契約は、4年の契約期間内で自由にメジャーリーグ挑戦できるようになっていた。

FA権を行使せずに残留を決めたこと、残留会見での「僕が他球団のユニフォームを着て、広島市民球場でカープのファン、カープの選手を相手にボールを投げるのが自分の中で想像がつかなかった」、「僕をここまでの投手に育ててくれたのはカープ。そのチームを相手に僕が目一杯ボールを投げる自信が正直なかった」という発言は各方面に主に好意的な反響を呼んだ。また、この年の選手会のベストエピソード賞に選ばれ、黒田の野球用具を担当するSSKは、社を挙げて黒田をキャンペーンすることを決定した。そして市民に感動を与えたことが評価され、広島市は「広島市民表彰」を黒田に授与すると発表した(球団4人目)。

2007年も開幕投手となり、長谷川良平以来球団2人目の5年連続開幕投手となる。またデーゲームは大の得意で、6月3日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦では2003年7月6日からのデーゲーム13連勝を記録した。7月14日の東京ドームでの読売ジャイアンツ戦にて通算100勝を達成した(ちなみにプロ初勝利も東京ドームでの巨人戦だった)。オールスターゲームに2度目のファン投票選出で4度目の出場。例年夏場を得意としていたが、この年の8月からはクオリティ・スタートすら守れない試合が続き、8月と9月は2勝3敗、防御率4.58、WHIP1.48を喫した。

10月18日にFA権を行使する事を明らかにした。MLB球団は以前から黒田に目を付けており、特にテキサス・レンジャーズゼネラル・マネージャージョン・ダニエルズが興味を示した発言をしていた。ジョー・アーボンと代理人契約を結び、12月1日に球団本部長の鈴木清明へ退団を申し入れ、メジャーリーグのチームへ移籍する事を明らかにした。その一方で記者会見では「評価されるのもカープのおかげで、また日本に帰ってプレーするならこのチームしかない」とも語った。

12月15日、ロサンゼルス・ドジャースと3年3530万ドルで契約を結んだことをAP通信が明らかにした。これにより、カープ初の日本人メジャーリーガー誕生となった。背番号は18だったが、会見場では08番を着けた。これはユニフォームが間に合わなかったためであり、同年にドジャースとマイナー契約したロバート・ブースが先に背番号08番を着けていた。ドジャースから当初提示された条件は4年契約だったが、「ワクワクする気持ちはほとんど湧いてこなかった。戦地に行くつもりでアメリカに行く。4年間もそんな苦しいことはできない。『苦しい時間』が短い方が自分は頑張れる。3年間できちんとした成績を残せれば、4年目に同等かそれ以上の契約を交わせるはずだ」として契約年数短縮を自ら申し出た。

メジャーリーグ時代

ロサンゼルス・ドジャース

2008年4月4日のサンディエゴ・パドレス戦でメジャーデビューし、初勝利。6月6日のシカゴ・カブス戦でメジャー初完封を記録。7月7日にはホームアトランタ・ブレーブスを相手に9回1安打無四球完封勝利。7回終了時点までは完全試合の内容で、最終的にも走者は8回に出した1人しか許さなかった。MLBにおいて新人投手が8回途中まで完全試合を続けるのは、1984年のオーレル・ハーシュハイザー以来初めてで、完全試合を達成していれば、サンディ・コーファックスに次ぐドジャース史上2人目、日本人メジャー初の快挙となるはずだった。監督のジョー・トーリから「どちらが本当の彼なのか」と言われるなど好不調の波も激しかった他、好投しても打線の援護を得られなかった試合も多く9勝10敗でシーズンを終了したが、防御率とWHIP、クオリティ・スタートでリーグ20傑に入り、FIPではリーグ9位の3.59を記録。

2009年は野茂英雄松坂大輔に次いで日本人史上3人目の開幕投手として4月6日のパドレス戦に登板。チームは4-1で勝利し2003年の野茂以来となる勝利投手となった。しかし直後に左脇腹を痛めて故障者リストに入り、前半戦はWHIP1.14と安定した投球を続けるも3勝5敗、防御率4.67を喫する。8月16日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦ではラスティ・ライアルの打球を頭部に受けるなど故障者リストに名を連ねる時期もあって規定投球回には達しなかったが、後半戦は5勝2敗、防御率2.98、WHIP1.13と好投を続けた。

2010年は2008年を上回るQSを記録し充実した投球内容であったが、好投した試合で打線の援護に恵まれない場合が多く、監督のジョー・トーリにも同情された。それでも8月30日フィラデルフィア・フィリーズ戦で10勝目を記録し、自身メジャー初の二桁勝利を達成した。後半戦は14試合に先発し防御率2.87、WHIP0.93。8月2日のパドレス戦での4回での降板以外は、全て6回以上を投げる安定した投球を続け、8月13日のブレーブス戦ではメジャーでの自己最速となる98mph(約158km/h)を記録。最終的に11勝、防御率3.39、投球回数196回1/3、奪三振数159と主要カテゴリーでメジャー自己最高の成績を記録する充実のシーズンとなった。

オフにはドジャースとの契約が終了しFAとなる。ESPNが作成したFA選手ランクリストでデレク・ジーターを上回るベスト30に入り「援護が少なく、勝利数が伸びなかったため過小評価されている」と高評価を受け、複数球団が獲得を目指し去就が注目された。一部報道で古巣広島へ復帰の可能性も報じられ、日本の球団も獲得に動いたが、11月15日に1年1200万ドル(約9億8400万円)でドジャース残留が決定。その後自身のブログで「日本に復帰するならカープしか考えていなかった」と改めて明言した。

2011年7月1日のロサンゼルス・エンゼルス戦でメジャー通算100先発を達成。前半戦は18試合の登板で6勝、防御率3.06、WHIP1.22の成績で折り返すが、10敗を喫する。10敗中6試合がクオリティ・スタートだったが、前年に引き続き得点援護率がリーグワースト2位を記録するなど打線の援護に恵まれなかった。しかし、その投球内容は高く評価され7月までポストシーズン進出を目指す複数の球団がトレードでの黒田の獲得を目指していることが盛んに報じられたが、トレード期限前の7月30日にトレード拒否権を行使して残留。「プレーオフの魅力はあったし葛藤はあった。昨年契約した時ドジャースでやると決めたし、その原点に戻りました」とコメントした。後半戦は14試合の登板で7勝6敗、防御率3.09、WHIP1.20と安定した投球を続け、シーズン通算では16敗を喫したものの13勝、リーグ9位の防御率3.07、161奪三振と主要3部門で2年連続キャリアハイを更新する記録をマークし、目標としていた初の200イニングにも到達した。

ニューヨーク・ヤンキース

2012年1月13日にニューヨーク・ヤンキースと契約合意し、26日に1年1000万ドルで契約を結んだ。

4月13日のエンゼルス戦で移籍後初勝利を挙げる。24日のテキサス・レンジャーズ戦ではダルビッシュ有と投げ合い、6回2/3を5安打2失点に抑えるも3敗目を喫した。6月13日のブレーブス戦では日米通算150勝を達成。17試合の登板で8勝7敗、防御率3.50、WHIP1.26の成績で前半戦を終える。7月18日のトロント・ブルージェイズ戦では、野茂英雄大家友和に次いで日本人史上3人目となるメジャー通算50勝を達成。試合は7回雨天コールドのため、記録上完封勝利となった。23日のシアトル・マリナーズ戦では、この日トレードでヤンキースに移籍したイチローと共に先発出場し、7回を3安打1失点9奪三振の好投で野茂英雄以来日本人選手史上2人目となる3年連続の10勝目を挙げる。8月14日のレンジャーズ戦では、日本人選手単独2位のメジャー通算52勝目となるシーズン2度目の完封勝利を挙げ、監督のジョー・ジラルディに「今季の投手陣の中で最高の投球内容だった」と絶賛された。9月16日のタンパベイ・レイズ戦ではメジャー移籍後自己最多の14勝目を挙げ、2年連続の200投球回にも到達した。10月4日のレギュラーシーズン最終戦の地区優勝を賭けたレッドソックス戦に登板し勝利を挙げた。レギュラーシーズンの16勝、勝率.593、投球回数219回2/3、奪三振167個の成績は3年連続キャリアハイを更新する記録となった。特に16勝は日米通じてキャリアハイであった。

黒田、日本人最高年俸蹴っていた!2億4600万円低い金額で残留

ヤンキースの黒田博樹投手(37)がレッドソックスからの「日本選手歴代最高年俸オファー」を断り、ヤ軍に残留していた。レ軍関係者によると同地区のライバル球団から右のエースを引き抜くため、年俸1800万ドル(約14億7600万円)の1年契約を用意していた。

さらに同関係者は「獲得可能なら、さらにオファーを上乗せする用意もあった」と明かした。日本選手の歴代最高年俸はイチローの1800万ドル(2009~2012年)。レ軍へ移籍すれば、単独トップとなることが確実だった。

しかし、黒田はジーター、ペティットら主力選手からの強い引き留めもあり「今年戦った仲間と世界一に挑戦したいと思った」と決断。レ軍より最低でも300万ドル(約2億4600万円)低い、ヤ軍の1年1500万ドル(約12億3000万円)のオファーを選んだ。

レ軍は黒田を獲得できれば、レスター、バックホルツと並ぶ3本柱を形成でき、ヤ軍の大幅な、戦力ダウンも見込めていた。ヤ軍のブライアン・キャッシュマンGMも「お金ではなく、うちに残ることを優先してくれた」と感謝しきり。黒田の「男の決断」に救われた。

残留黒田に称賛の声。ヤ軍GM「金には目もくれなかった」

2012年11月21日に年俸1500ドルの1年契約でヤンキース残留が決まった黒田が、現地メディアから称賛を浴びた。スポーツ専門局ESPNは「他球団のヤ軍より高い年俸や複数年契約オファーを断った」と報道。

ブライアン・キャッシュマンGMの「彼は金には目もくれなかった。ヤ軍でのプレーを楽しんでくれたのだと思う」との談話を紹介。去就が未定の先発左腕ペティットの再契約にも弾みがついたとした。

選手としての特徴

2008年から2011年にかけての両リーグの現役先発投手中8位となる通算与四球率2.10と安定した制球力を誇り、スリークォーターから平均球速92.1mph(約148.2km/h)、最速157km/hを計測した速球ツーシームシンカー、フォーシーム)と平均球速87mph(約140km/h)の高速フォーク、平均球速84mph(約135km/h)の高速スライダーを武器にする本格派右腕で、カーブカットボールも投げ分ける。中でもスライダーとフォークはメジャーでも高い評価を得ており、特にフォークはダン・ヘイレンのスプリッターと共に「現役最高のスプリッター」と評されている。

メジャー移籍前後で投球スタイルを変えており、広島時代にはフォーシームを主体としていたが、ドジャースに移籍する数年前から「ツーシーム系を内に、スライダー系を外に、フォークで高低をつける。打者が狙っている球を投げ、打たせて取ることが理想」という理想図を描き、移籍後はフォーシームをほとんど投げずツーシーム主体の投球となった。そのため広島時代に投げていた最速150km/hを越えることもあるシュートを、右打者の膝元に沈ませる速球・シンカーに進化させたという。その他、スライダーに関しても2008年のシーズン序盤に痛打を浴びる事が多かったために握りを変えたという。

広島時代には完投数リーグ1位の年が6度もあるタフネスぶりから「ミスター完投」の異名を持った一方で、完封数は年に1回程度。11年間で74完投を記録したが、完封に関しては14回に留まった。黒田自身も完投にこだわりを持っていたが、メジャーでプレーするようになってからは「いくら1試合を完封しても、次の登板でノックアウトを喫してしまってはチームにとって意味がない。それよりも7回、7回を連続してきっちり投げた方がチームへの貢献度が高くなる。この場所で完投にこだわることは自己満足に過ぎない」と思うようになったという。

OBからの評価も高く、江川卓は自著で「調子がいい時の彼のストレートは、ど真ん中に放っても打たれない」、中日ドラゴンズ監督だった落合博満は「今日(2006年7月2日、3安打完封)の黒田は俺が現役の時でも打てない。だからうちの選手が打てる訳がない」と絶賛された。

フィールディングの評価も高く、2008年には35のアシストを記録した。1999年の甲子園での阪神戦では満塁で決勝のセーフティバントを成功させたことがある一方、打撃は苦手で連続無安打の記録を作ったこともあり、2010年に開幕から39打席無安打を続けた際には地元紙から「いくらピッチャーでもひどい」と酷評された。

上記のように高い評価を得る一方で、好投した試合での打線の援護に恵まれないことで有名であり、先述した通りドジャース時代には毎年のように好投しながらも援護に恵まれず、監督のジョー・トーリからも同情されていた他、ESPNからも「援護が少なく、勝利数が伸びなかったため過小評価されている」と指摘され、2006年の広島時代には最優秀防御率でありながら援護率で最下位を記録している)。ヤンキース移籍後も他のローテーションピッチャーと比べて好投した試合での援護が著しく少なく、メディアから「黒田は弁護士を雇ってチームメイトを無援護で訴えるべきだ」と書かれたこともあった。

人物

  • アメリカでも常に広島カープの試合を細かくチェックしている。自宅ではカープの試合をインターネットで見られるように契約し、視聴も出来る環境にした。
  • 上述のFA去就の言動が好意的にとられていることや、初のカープ出身メジャーリーガーということもあり、現在でも広島の地方ニュースやローカルのスポーツニュースで登板試合が毎回報道されている。
  • 両親をガンで失ったため、癌の研究や啓発を行う活動に多額の寄付をしており、ロサンゼルスのメディアに紹介されたこともある。父が肺ガンになった際は入院先の広島に足しげく通い、メジャー挑戦を1年先延ばしにしたのは父の闘病を支えたい気持ちが強かったというのも理由のひとつだった。
  • ドジャースでほぼ毎日キャッチボールを共にしたクレイトン・カーショウと仲が良い。カーショウとは10歳以上の年齢差があり、国籍や考え方、生活習慣も違ったが、お互いに尊重し合いながら成長していったという。投球についてたびたび話し合うだけでなく、プライベートでも頻繁に食事を共にしたり、プレゼントを贈り合ったりもしていた。2011年にトレードでの移籍に心が傾いた際にもカーショウにだけ心境を明かした他、この年ドジャースで最後の登板となった試合前にカーショウとキャッチボールをした際には、この年233イニングを投げたカーショウは、既にシーズン最後の登板を終えてキャッチボールを禁じられていたためコーチたちに止められたが、「いいんだ、ヒロが先発するんだから、僕がキャッチボールの相手をするのは当然だろう」としてキャッチボールを続けたといい、カーショウはこの年最後のミーティングでも「ヒロに話しておきたい。ドジャースに来年も残ってほしいんだ」と話し、ミーティングが終わってロッカールームに戻った黒田は感極まって泣いてしまったという。この年のオフにFAとなり移籍先の球団を選んだ際には、「カーショウと投手同士としては対戦したくないな」という思いからナショナル・リーグの球団への移籍は避けたという。
  • 日本とはやり方の違うアメリカのトレーニングについて「アメリカに来たのでアメリカの野球を受け入れないと、自分のことも受け入れてもらえないと思った。こっちに来た以上はこっちのやり方も自分でトライしてみないと。そういう姿勢というのは、みんなに伝わると思う。アメリカの野球をしに来たので、調整法であれ、トレーニングであれ、一度受け入れることは大事」として積極的に取り入れ、「結果も毎年良くなっているので、アメリカのやり方を信じてトライしたのも僕にとっては良かった」と語っており、また、日本でプレーしていた頃は「練習や試合だけの日もあれば、ゆっくりする日もあるんだろうな」とメジャーについてのイメージを漠然と描いていたが、毎日のようにユニフォームを着て球場に行かなければならない実状を経験して、練習時間が長いと言われる日本のほうがむしろ「しんどくない」と思ったという。そのため「日本と同じような調整では絶対に身体がもたない」と思い、調整法を変えていくことに至ったという。

NYも驚愕!「熱い屋根の上で正座」

ヤンキース首脳陣は、今季シーズン中盤から黒田博樹投手(37)に絶大な信頼を寄せるようになった。

きっかけは、黒田が少年時代に体験した日本式しごきトレーニングの実態を地元紙に語ったことだった。メジャー屈指のスーパースター軍団も日本の野球地獄に驚愕し、筆舌に尽くしがたい苦境を乗り越えた黒田の精神力に感服したというのだ。

「黒田が少年時代に置かれた環境は米国だったら犯罪になるのではないか。最近、日本でも親が訴訟をおこすなど、状況は劇的に変わっているが、当時は児童虐待、いじめだった。黒田はしごきを体験した最後の世代だ」

2012年7月、黒田をインタビューしたニューヨークタイムズ紙が、専門家の意見を交えてこう論評した。インタビュー記事のタイトルは「ヤンキースの黒田は痛みの中からつくられた」。黒田の粘投の秘密を解き明かす内容だったが、まるで黒田を地獄から這い上がった怪物のように伝えていた。

確かにこのインタビューでの黒田の告白は、グローバルスタンダードでは強烈だっただろう。水を飲むことが禁止されたまま、早朝から深夜までの練習、正座、ケツバット。およそ米国人には信じられない日本の野球カルチャーのオンパレードだったからだ。前近代的な野球練習を体験したことのある日本の熟年世代の元球児たちでも、驚かされる事実が並んでいた。

大阪・上宮高校時代、練習中にのどの渇きに耐えかねた選手たちが、監督の目を盗んで川や水たまり、トイレの水を飲んだエピソードは、異様な光景として同紙の中で紹介されている。

「そういう時代だったんでしょうね。練習中に水は飲んではいけないと監督が信じていましたから。みんなよく気絶したものです。自分も川に水を飲みに行きました。きれいな川ではありませんでしたが、きれいだと信じたかったですね」(黒田)。

高校1年のとき、制球を乱して自滅したあと、罰走を命じられた場面も驚きだ。朝6時から午後9時まで、15時間連続で4日間走り続けたという。もちろん水を飲むのは禁止だった。

「野球を続けるためには、生き残らなくてはならなかったのです。そのためには免疫機能を鍛えるなければいけなかったですね。小学校のときから軍隊にいるみたいなもで、ミスをすればケツバット。次の日は椅子に座れない」(黒田)。

先輩に怒鳴られ、焼けた歩道に正座をさせられて殴られるのは日常茶飯事。専修大学へ進学してからは、4人部屋に詰め込まれ、下級生は早く起きて先輩の靴下を手洗いをしなければならなかった。

「大学1年生のときは基本的に奴隷です。洗濯ができていないと、今度は熱くなっている屋根の上に正座させられました。足の感覚がなくなり、はって部屋に帰ることになるのです」

米国ではスポーツは娯楽、が大前提。同紙は「ほとんど信じられない話ばかりだが、黒田は真顔ですべて本当だと言った。黒田にはマウンドで臆する様子がない。それも彼の歩んできた人生を考えれば当然かもしれない」と結んでいる。

2011年オフ、ドジャースから強力打線のひしめくア・リーグに移籍した黒田は、開幕直後に負けが先行して苦戦した。しかし、持ち前の粘り強い投球で尻上がりに調子を上げた。7月にベテラン左腕ペティット、エース右腕サバシアが相次いで故障すると、その穴を埋めてチームを地区優勝に導いた。

黒田の少年時代のすさまじい野球経験を知り、ヤンキースの首脳陣の見る目も変わった。ジラルディ監督は「ヒロ(黒田)には経験がある。きっとやってくれるはずだ」とポストシーズンでも全幅の信頼をおいている。

「子供のときは野球が楽しいと思ったことはないです。もし試合で200球投げろと言われたら、疲れるでしょうが、やると思います。そうやって教えられて来ましたから」と同紙に笑顔で答えた黒田。

その笑みがやけに穏やかであることにニューヨークは震え上がったのだった。

詳細情報

年度別投手成績

1997 広島 23 23 4 1 0 6 9 0 -- .400 601 135.0 147 17 63 0 4 64 8 1 72 66 4.40 1.56
1998 18 6 0 0 0 1 4 0 -- .200 199 45.0 53 5 24 0 1 25 1 0 34 33 6.60 1.71
1999 21 16 2 1 0 5 8 0 -- .385 406 87.2 106 20 39 1 3 55 4 0 70 66 6.78 1.65
2000 29 21 7 1 0 9 6 0 -- .600 623 144.0 147 21 61 2 1 116 3 0 73 69 4.31 1.44
2001 27 27 13 3 3 12 8 0 -- .600 786 190.0 175 19 45 1 8 146 7 0 72 64 3.03 1.16
2002 23 23 8 2 1 10 10 0 -- .500 671 164.1 166 16 34 3 1 144 1 0 69 67 3.67 1.22
2003 28 28 8 1 4 13 9 0 -- .591 827 205.2 197 18 45 2 3 137 5 1 77 71 3.11 1.18
2004 21 21 7 1 1 7 9 0 -- .438 639 147.0 187 17 29 1 2 138 1 0 81 76 4.65 1.47
2005 29 28 11 1 3 15 12 0 0 .556 852 212.2 183 17 42 2 7 165 7 0 76 75 3.17 1.06
2006 26 25 7 2 3 13 6 1 0 .684 744 189.1 169 12 21 4 7 144 5 0 49 39 1.85 1.00
2007 26 26 7 1 2 12 8 0 0 .600 738 179.2 176 20 42 3 5 123 1 0 78 71 3.56 1.21
2008 LAD 31 31 2 2 2 9 10 0 0 .474 776 183.1 181 13 42 8 7 116 5 0 85 76 3.73 1.22
2009 21 20 0 0 0 8 7 0 0 .533 485 117.1 110 12 24 1 1 87 5 0 59 49 3.76 1.14
2010 31 31 0 0 0 11 13 0 0 .458 810 196.1 180 15 48 13 5 159 12 0 87 74 3.39 1.16
2011 32 32 0 0 0 13 16 0 0 .448 838 202.0 196 24 49 6 5 161 12 1 77 69 3.07 1.21
2012 NYY 33 33 3 2 1 16 11 0 0 .593 891 219.2 205 25 51 2 8 167 13 0 86 81 3.32 1.17
NPB:11年 271 244 74 14 17 103 89 1 0 .536 7086 1700.1 1706 182 445 19 42 1257 43 2 751 697 3.69 1.27
MLB:5年 148 147 5 4 3 57 57 0 0 .500 3800 918.2 872 89 214 30 26 690 47 1 394 349 3.42 1.18
  • 2012年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

表彰

記録

NPB投手記録
NPB打撃記録
NPBその他記録
MLB

背番号

  • 15 (1997年 - 2007年)
  • 18 (2008年 - )

関連情報

著書

ドラマ出演

脚注

関連項目

外部リンク

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