マウリッツ (オラニエ公)

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マウリッツ・ファン・ナッサウ(オラニエ公マウリッツ、Maurits van Nassau-Siegen, Prins van Oranje, 1567年11月13日 - 1625年4月23日)は、オランダ総督オラニエウィレム1世の次男で、父の死後、スペインとの八十年戦争において中心的な役割を果たした。

死に臨んで、「2プラス2は4である。」ということを自己の信条にしたほどの合理主義者であったとされる。また、自らの軍隊に徹底した訓練を行うとともに、そのマニュアル化を行った。これがヨーロッパ各国の軍隊に多大な影響を与えたことから、「軍事革命」とも評価される。

生涯[編集]

マウリッツは1567年ドイツ西部のディレンブルクで生まれた。母アンナザクセン選帝侯モーリッツの娘であった。祖父の名を取ってマウリッツ(モーリッツ)と命名され、父方の叔父ナッサウ=ディレンブルク伯ヨハン6世の元で育てられた。

1584年の父オラニエ公ウィレム1世の暗殺後、1585年ホラント州ゼーラント州の総督となった。その後、1597年までに再び北部7州をまとめ上げた。教養人でもあった彼は、古代ローマ帝国時代の軍事に関する文献を踏まえつつ、自らの軍隊に独自の教練を施した。こうして軍の強化に成功し、スペインとの八十年戦争を優勢に進めた。

深刻な財政難に陥っていたスペイン・オランダ両国は、次第に戦争を継続することが困難になっていった。1608年よりハーグ(デン・ハーグ)で和平交渉が行われ、最終的には1609年アントウェルペンで休戦協定が成立した。

父が暗殺されたように、オランダ内部では絶えず政争が続いていた。キリスト教改革派であったマウリッツは、寛容派に属した政敵オルデンバルネフェルトを処刑して自らの政権を維持した。1625年、マウリッツはハーグで死去した。生涯独身を通し、嫡子がなかったため、家督と地位は異母弟フレデリック・ヘンドリックに受け継がれた。

「軍事革命」[編集]

マウリッツが従兄のナッサウ=ジーゲン伯ヨハン(叔父ヨハン6世の子)とともに行った一連の軍事訓練は、「軍事革命」とも評価される画期的なものであった。もちろん、従来の軍隊にも軍事訓練はあったが、マウリッツはその訓練を非常に精緻なものとした。例えば、銃を扱う際にも、その動作を数十にまで細分化し、かけ声に合わせて一斉に動作できるようにした。また、行進の規則を定めることで、指令に従って軍団が迅速に陣形を変えることを可能にした。こうした訓練は、非戦闘中の兵士の士気を維持させることにもなった。また、訓練を通じて、本来傭兵の寄せ集めでしかない軍隊の中に、ある種の連帯意識を形成させることにも寄与した。

ちなみにこれらの訓練マニュアルは秘密裏にされず、書物として刊行された(『武器の操作、火縄銃マスケット銃・槍について、オラニエ公マウリッツ閣下の命令によって著す』、未訳)。そのため、諸外国がマウリッツの教練を参考にして、自国の軍隊を鍛え上げるようになった。

さらにマウリッツは、パイク兵方陣テルシオ)による白兵戦闘が主流であった当時のヨーロッパの陸戦を刷新し、三兵戦術の基盤を築いた。マウリッツが生きている間は、それでも名将アンブロジオ・スピノラ率いるスペイン軍との戦闘は五分五分といったところであったが、彼の死後、オランダは当時ヨーロッパ最強の軍事大国であったスペインとの八十年戦争を乗り切って完全独立を果たすことができた。

またマウリッツは将校を育成するための士官学校も創設した。この士官学校の卒業者の中には、のちにバルト海一帯の覇権を握るスウェーデングスタフ・アドルフに仕える者もいた。スウェーデン軍の強化は、この卒業生の功績によるものも大きいと推測されている。このように、軍事史におけるマウリッツの影響は、オランダ一国にとどまらずヨーロッパ全体に広まった。

加えてマウリッツは、軍隊にステヴィンアローム等の優れた数学者・技師などを招き、新兵器の開発も振興した。

日本との交渉[編集]

1609年慶長14年)日本江戸幕府)に進出したオランダ東インド会社はマウリッツをオランダ「国王」とする書簡を駿府で前将軍大御所徳川家康に提出し、朱印状による交易を認められた。以後、オランダ東インド会社はオランダ総督を「国王」とするフィクションを維持することになる。

先代:
フィリップス・ヴィレム
オラニエ公
1618年 - 1625年
次代:
フレデリック・ヘンドリック