交響曲「ローマ」 (ビゼー)

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交響曲ハ長調「ローマ」は、ジョルジュ・ビゼーの2作目の交響曲である。第二番とされることもあり、しばしば「組曲」とも言われる。彼は更に2曲交響曲を作ったと伝えられるが、気に入らず晩年に焼却したといわれる。17歳で急いで作曲された《交響曲 第1番》とは異なり、22歳の頃から33歳の頃にかけて実に10年越しで作曲された。ビゼーは完全には満足しておらず、沢山の改訂を加えたが、決定稿に至らぬまま世を去った(亡くなったのは36歳の時である)。すべての楽章がビゼーの生前に上演されているが、すべて一緒に演奏されたことはなかった。最終的な改訂稿で全曲を通して初演されたのは、作曲者の歿後になってから、1875年のことである[1]。おそらくビゼーが作品について不満を漏らしていたために、しばしば「未完成交響曲」であるかのように論じられるが、作品は完成されており、音符は全部入っておりオイレンブルクのスコアでは完全に譜面化されている。録音は増えつつあるが、美しいメロディーがふんだんにあるが、FMの放送用録音が多く演奏会場では滅多に取り上げられていない。

創作の背景と経緯[編集]

ビゼーは1857年ローマ大賞を獲得すると、それから2年間を無料でローマのフランス・アカデミーに留学した後、1年間ドイツに留学するよう要請された。ドイツには行かず仕舞いになったものの、ローマには1860年7月まで逗留しているEncyclopedia Britannica</ref>。パリにまっすぐ引き返す代わりにイタリア中を旅行して、1858年1859年には行かなかった土地に向かった。リミニで初めて、4つの楽章をそれぞれイタリアの別々の都市(ローマ、ヴェネツィアフィレンツェナポリ)に捧げた交響曲という案を練っている[2]。この頃には初期の草稿がいくらか出来上がっていたのかもしれない。ヴェネツィア入りした頃に母親が重病であるとの知らせを受けて、直ちに帰国している[2]

1861年までにスケルツォ楽章「ヴェネツィア」を書き上げる(この楽章は今でも全体の中で出来が良いと認められている)。同年11月に非公開で初演され、公開初演は1863年1月11日ジュール・パドルーの指揮によってシルク・ナポレオン(Cirque Napoléon)において行われ、会場にはカミーユ・サン=サーンスの姿もあった。演奏は低調で、多くの聴衆から敵意に満ちた反応を引き出した。しかしながら1月18日に国立美術協会で再演されると、今度はずっと前向きな反応が得られたのであった[2]

1866年までにビゼーは全曲の初稿を書き上げたが、不満を覚えて全体の改訂に着手した。1868年には再び手を入れている[2]。改訂版のうち、スケルツォ以外の3つの楽章は、それぞれに標題的な題名つきで、又もやパドルーの指揮で上演された[2]。それでもビゼーは不愉快で、作品にもう一度手を加えた。1871年までにはどうやらビゼーの手を離れたらしい(ビゼーが他の企画に没頭していたからである)[1]。交響曲全体が最終稿によって初演されたのは、ビゼーの死後の1875年のことである[1]。作品は1880年に《ローマ》と題して出版されており、1871年になされた変更がおそらくは採用されている[2]

「ローマ」という副題[編集]

形態においては、交響曲と交響組曲とのいくぶん中間に位置付けられる。グローヴ音楽大事典によると、「標題音楽とするのはなるほど的確だとはいえないし、抽象的な交響曲にしては構成が無頓着すぎる[2]」。ビゼー本人が「交響曲」と呼んだにもかかわらず、しばしば組曲扱いされており、中には「交響組曲 第3番」などと番号付けした例すら見られる[3]。別名が通用している理由の一つとして、初期の交響曲も同じハ長調なので、2つめの野心作の交響曲を組曲と呼べば混同が少ないだろうと考える向きがあったこと[3]が挙げられる。しかしながら、このような言い換えが行われるようになったのは、(ビゼーの歿後60年の)1935年以降のことである。1935年は、ビゼーの最初の《ハ長調交響曲》が実在することが初めて公にされた年であった。

作品[編集]

《ローマ》の出来栄えはひどく不揃いである。スケルツォ楽章はたいてい、活気と風雅さに満ちた最も出来の良い楽章と指摘される。両端楽章は、華やかさとアカデミックな衒学趣味とが含まれており、緩徐楽章は一般に不出来であると看做されており、時には「鈍重で退屈」とも評される[1]。だがグスタフ・マーラーは《ローマ》を高く買っていて、1898年から1899年までのシーズンでウィーン初演を指揮し、あまつさえ1910年の演奏旅行ではアメリカ人聴衆に本作を披露している[4]。ちなみにアメリカ初演は、1880年11月にセオドア・トマスの指揮によってメトロポリタン・コンサートホールにおいて行われた。当時の『ニューヨーク・タイムズ』紙の音楽評論担当者は、作品には多くの称賛すべき点が散見されるが、曲のまとめ方は未熟で、曲は未完成といった雰囲気がする、と述べている[5]

楽器編成[編集]

フルート2(第2はピッコロ持ち替え)、オーボエ2(第2はコーラングレ持ち替え)、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニハープ2、弦五部

楽曲構成[編集]

以下の4つの楽章から構成され、全曲の演奏に30分程度を要する。

第一楽章[編集]

アンダンテ・トランクィッロ~アレグロ・アジタート(ハ長調) Andante tranquillo - Allegro agitato

第二楽章[編集]

「スケルツォ」アレグレットヴィヴァーチェ Scherzo: Allegretto vivace

第三楽章[編集]

「アンダンテ・モルト(ヘ長調) Andante molto

第四楽章[編集]

「「終曲」アレグロ・ヴィヴァチッシモ(ハ長調) Finale: Allegro vivacissimo

音源[編集]

何度か録音されており、主立った指揮者では、トマス・ビーチャム卿やランベルト・ガルデルリルイ・フレモーエンリケ・バティスミシェル・プラッソンらが取り上げてきた[6]

時おり終楽章のみが、「謝肉祭」と題して、単独で録音されている[7]。元々《ローマ》の終楽章は、ナポリを描く意向であったにもかかわらず、皮肉なことに、「ローマの謝肉祭(フランス語"Carnaval à Rome")」[8]と題されることもある。

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参考文献[編集]