倉石忠雄

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倉石 忠雄(くらいし ただお、1900年7月2日 - 1986年11月8日)は、日本政治家。元労働大臣農林大臣法務大臣

来歴・人物[編集]

長野県更級郡稲荷山町(現・千曲市)に、製糸用繭問屋を経営していた倉石万平の子として生まれる。少年時代の友人に漫画家の近藤日出造がいる。長野中学(現・長野県長野高等学校)を経て、1925年法政大学法科を卒業。法大在学中は弁論部で活躍、森恪の知遇を得て、立憲政友会の院外団にも参加する。この活動で同じく院外団メンバーだった大野伴睦と知り合う。大学卒業後は婦人雑誌を発行していた「婦女界社」に入社する。同社社長の都河竜に目をかけられ二女と結婚、また都河の援助でロンドン大学に留学、社会政策を学ぶ。帰国後は婦女界社常務を務める。戦時中は台湾に渡り、日曹コンツェルン系の南日本化学工業専務、台湾製塩監査役等を歴任。

1947年第23回衆議院議員総選挙日本自由党公認で旧長野2区より立候補し当選。以後連続当選14回。国会対策畑で頭角を表した。1952年福永健司幹事長指名騒動にあたっては、国会対策委員長であった倉石は衆院議会運営委員長の石田博英とともに指名阻止に動き撤回させる。以後石田とともに党内に「民主化同盟」を結成して反吉田運動を展開する。石田とは労政通という共通点もあり、1955年第3次鳩山内閣労働大臣として初入閣、1958年第2次岸内閣でも労相となり、池田佐藤両政権下では自民党労働問題調査会長として、結社の自由と団結権の擁護を定めたILO87号条約批准と関連国内法の整備に尽力した。また、最低賃金法の生みの親でもある。

「世渡り上手」と評されたように、政界遊泳術には端倪すべからざるものがあり、福田赳夫が「党風刷新連盟」を結成するとこれに呼応し、大野派を離れ福田派幹部となる。1966年第1次佐藤内閣第3次改造内閣農林大臣となるが、1968年、米国・北朝鮮間のトラブル(プエブロ号事件)に伴う日本海の漁業の安全操業問題に関するコメントの中で「現行憲法は他力本願だ、やはり軍艦や大砲が必要だ」「こんな馬鹿馬鹿しい憲法を持っている日本はメカケのようなもの」と発言したとされ、野党の追及により辞任を余儀なくされる。しかしすぐに1970年第3次佐藤内閣で農相として入閣する。その後1972年党政務調査会長1973年第2次田中角榮内閣第1次改造内閣で農相、1978年には党総務会長を経て、第2次大平内閣法務大臣となるが、就任記者会見でロッキード事件について触れ「田中元首相には友人として、公明正大で青天白日となることを願う」と述べ、またも物議をかもした。

1983年に政界を引退。若林正俊が地盤を継いだ。1986年11月8日死去。享年86。

英国仕立ての渋いスーツに乗馬ズボンを身にまとい、咥え葉巻というスタイルで、政界きってのダンディ男と呼ばれた。1974年勲一等旭日大綬章受章。


先代:
西田隆男
石田博英
労働大臣
1955年 - 1956年
1958年 - 1959年
次代:
松浦周太郎
松野頼三
先代:
松野頼三
長谷川四郎
桜内義雄
農林大臣
1966年 - 1968年
1970年 - 1971年
1973年 - 1974年
次代:
西村直己
赤城宗徳
安倍晋太郎
先代:
櫻内義雄
自由民主党政務調査会長
1972年 - 1973年
次代:
水田三喜男
先代:
中曽根康弘
自由民主党総務会長
1978年 - 1979年
次代:
鈴木善幸
先代:
古井喜実
法務大臣
1979年 - 1980年
次代:
奥野誠亮