大正

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日本の歴史

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関東大震災


大正(たいしょう)は、日本元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である大正元年(1912年7月30日から大正15年(1926年12月25日までの期間を指す。

改元[編集]

  • 大正元年(1912年)7月30日 - 明治天皇が崩御し、皇太子嘉仁親王(大正天皇)が践祚したため、改元の詔書を公布、即日施行した。
  • 大正15年(1926年)12月25日 - 大正天皇が崩御し、皇太子裕仁親王(昭和天皇)が践祚したため、昭和に改元、同日は昭和元年12月25日となった。裕仁親王は大正10年(1921年)11月25日に、病が篤くなった大正天皇に代わり、皇太子として摂政宮に就き、以来天皇の名代としての務めを行っていた。

出典[編集]

「大正」の由来は『易経』彖伝・臨卦の「亨以、天之道也」(大いに亨(とお)りて以て正しきは、天の道なり)から。「大正」は過去に4回候補に上がったが、5回目で採用された。

なお大正天皇実録によれば元号案として「大正」「天興」「興化」「永安」「乾徳」「昭徳」の案があったが、最終案で「大正」「天興」「興化」に絞られ、枢密顧問の審議により「大正」に決定した。

時代の概要[編集]

本時代は後世から振り返った時、大正デモクラシーに基づいた安定期として見られることが多い。しかし、同時代的には、近代日本の象徴であった明治天皇の崩御、そして病弱であった大正天皇の即位、という不安感を拭いきれない状況から始まったのである。また、大正期を通じて都市に享楽的な文化が生まれる反面、スラムの形成、民衆騒擾の発生、労働争議の激化など社会的な矛盾が深まっていった。

大正年間には、2度に及ぶ護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、明治以来の藩閥支配体制が揺らいで、政党勢力が進出した。それは大正デモクラシーと呼ばれ、尾崎行雄犬養毅らがその指導層となった。大正デモクラシー時代は、大正7年(1918年)の米騒動の前と後で分けられることが多いが、米騒動後、初めて爵位を持たず、衆議院に議席を持つ平民宰相原敬が内閣を組織した。

しかし、原はその登場期に期待された程の改革もなさないままに終わり、一青年により東京駅頭で暗殺された。普選運動が活発化し、平塚雷鳥市川房枝らの婦人参政権運動も活発となった。大正14年(1925年)には、普通選挙法が成立したが、同時に治安維持法が制定された。言論界も活況を呈し、君主制民主主義を折衷しようとした吉野作造の民本主義や美濃部達吉天皇機関説などが現れた。

大正12年(1923年)に関東大震災が起こり、首都が壊滅的な打撃を受けたが、程なく復興した。震災後、山本権兵衛内閣が成立した。その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。大正末期には、ベルサイユワシントン体制に順応的な幣原外交(加藤内閣)が展開され、中国への内政不干渉、ソ連と国交回復など、一定の民主的な色彩を示した。

護憲運動と政治[編集]

明治末期にかけては軍部元老山縣有朋の下で藩閥政治が続いていたが、大正初期にかけては山県系列の桂太郎と比較的リベラルな西園寺公望が交代で組閣し、桂園時代とも呼ばれていた。明治45年(1912年)、第2次西園寺内閣の陸軍大臣上原勇作が、内閣が2個師団増設を否決したことに抗議して単独辞任し、陸軍は後任陸相を出さなかったため軍部大臣現役武官制によって陸相を欠いた西園寺内閣は総辞職した。

その後、桂太郎が議会での交代のルールを無視して宮中侍従長から3度目の首相に返り咲こうとした。この桂の返り咲きに対して、都市部の知識階級を中心にその反発は強まった。そして尾崎行雄犬養毅らによる憲政擁護運動(護憲運動)が起こり、新聞の批判も起こった外、民衆が国会を取り囲む事態も生じ、ついには僅か数ヶ月で倒閣となった(第一次護憲運動、大正政変)。

このため山本権兵衛(第1次)に組閣の命が下った。立憲政友会の援助を受け、原敬内相の下、安定した政権運営を行った。軍部大臣現役武官制を緩和するなど、政党寄りの姿勢を示したが、シーメンス事件をきっかけに再び世論の反発を受け、最終的には貴族院との関係悪化から倒れた。

次いで元老井上馨の後押しにより、庶民的で大衆に人気のあった大隈重信が組閣した。大正3年(1914年)に勃発した第一次世界大戦では、加藤高明外相が中国に二十一か条の要求を提出した(対華21ヶ条要求)。

大隈内閣退陣後には、二大政党制を目指し、大正2年(1913年)に桂が死の直前に結成した立憲同志会が他党を取り込むかたちで憲政会へと拡大した。

これとほぼ同時に組閣した寺内正毅内閣が成立した。大正6年(1917年)のロシア革命ソ連が成立したが、日本は革命政権の転覆のためシベリアに出兵した。折から、大戦景気によるインフレとシベリア出兵をきっかけとして国内では米価が暴騰し、富山県から米騒動が起こり、全国に広がった。政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は退陣した。

代わって初めて爵位がなく、また衆議院に議席を持つ平民宰相として政友会原敬が首相となり、大正7年(1918年)本格的政党内閣として原敬内閣が成立する。しかし、大正10年(1921年)に原が東京駅頭で一青年に暗殺された(原敬暗殺事件)。

続いて政友会総裁となった高橋是清が首相となったが、政友会の調整能力に欠き、高橋内閣倒閣後は非政党内閣が続いた。

その後、関東大震災や虎ノ門事件の発生は、それまでの藩閥に危機意識を抱かせ、第2次山本権兵衛内閣が虎ノ門事件で倒れた後、枢密院議長から天下って清浦奎吾が内閣を組織しようとした。それに対し憲政会・革新倶楽部・政友会の三派は、普選の採用、政党内閣制の樹立を掲げて、藩閥・官僚勢力を主体とした政友本党に対抗した。護憲三派(憲政会、政友会、革新倶楽部)は選挙で勝利し、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した(大正13年(1924年)、第二次大正政変)。

加藤高明内閣は大正14年(1925年)、普通選挙法を成立させ、ついに身分や財産によらず成人男子すべてに選挙権を与える普通選挙が実現することになる。普選は、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった。

またそれは「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、それと同時に治安維持法を成立させ、「国体の変革」「私有財産否定」の活動を厳重に取り締まった。しかし、これによって政党政治が定着するようになった。この後、昭和7年(1932年)に犬養毅内閣が五・一五事件で倒れるまで、政党政治が続き、明治以来の藩閥政治は一応終焉した。政党内閣時代はこのときまで続き(憲政の常道)、政治は、官僚や軍部を基盤にしつつも政党を中心に動いていくこととなった。

第一次世界大戦と景気[編集]

大正3年(1914年)には第一次世界大戦が勃発した。日本は直接的戦闘地域はほとんどなかったにもかかわらず元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦し戦勝国の一員となった。

発生直後こそは世界的規模への拡大に対する混乱から一時恐慌寸前にまで陥ったが、やがて戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本米国両新興国家が物資の生産拠点として貿易を加速させ、日本経済は空前の好景気となり、大きく経済を発展させた。特に世界的に品不足となった影響で造船業繊維業製鉄業が飛躍的に発展し、後進産業であった化学工業も最大の輸入先であるドイツとの交戦によって自国による生産が必要とされて、一気に近代化が進んだ。こうした中で多数の「成金」が出現する。また、政府財政も日露戦争以来続いた財政難を克服することに成功する。

だが、大正7年(1918年)に戦争が終結すると過剰な設備投資と在庫の滞留が原因となって反動不況が発生して景気が悪化した。更に戦時中停止していた金輸出禁止の解除(いわゆる「金解禁」)の時期を逸したために、日本銀行に大量のが滞留して金本位制による通貨調整の機能を失って、政府・日銀ともに景気対策が後手後手に回った。更に関東大震災による京浜工業地帯の壊滅と緊急輸入による在庫の更なる膨張、震災手形とその不良債権化問題の発生などによって、景気回復の見通しが全く立たないままに昭和金融恐慌世界恐慌を迎えることになる。

震災復興[編集]

大正12年(1923年)には関東大震災が生じた。この未曾有の大災害に東京は大きな損害を受けるが、震災後、山本権兵衛内閣が成立し、その内務相となった後藤新平が辣腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行いインフラが整備され、大変革を遂げた。

またラジオ放送が始まるなど近代都市へと復興を遂げた。しかし、一部に計画されたパリロンドンを参考にした環状道路や放射状道路等の理想的な近代都市への建設は行われず、日本は戦後の自動車社会になってそれを思い知らされることとなり、戦後の首都高速の建設につながる。一方、この震災に乗じて、暴動が生じるというデマが振り撒かれ、朝鮮人や共産主義者の虐殺が行われた亀戸事件などが起こったことや、震災直後の緊急対策であった筈の震災手形の処理を遅らせて不良債権化させた結果として金融恐慌を招いたことは歴史の負の側面であろう。

大正文化[編集]

明治時代末から大正時代後にかけて当時の経済文化の中心地であった大阪神戸において都市を背景にした大衆文化が成立し(阪神間モダニズム)、全国へ波及した。今日に続く日本人の生活様式もこの時代にルーツが求められるものが多い。

大阪では、東京よりも先におびただしい私鉄網が完成し、なかんずく阪神急行電鉄の巧みな経営術により、阪神間に多くの住宅衛星都市群が出現した。一方、日清戦争(明治27~28年)を経て東洋一の貿易港となっていた神戸港に夥しく流入する最新の欧米文化を彼ら衛星都市の富裕層が受け入れて広まり、モダンな芸術・文化・生活様式が生まれたのである。大阪・神戸は関東大震災(大正12年)後に東京から文化人の移住等もあって、文化的に更なる隆盛をみた。

東京においては、震災の影響が総じて少なかった丸の内大手町地区にエレベーターの付いたビルディングの建設が相次ぎ、一大オフィス街が成立した。下町で焼け出された人々が世田谷、杉並等それまで純然たる農村であった地域に移住して、新宿、渋谷を単なる盛り場から「副都心」へと成長させた。東京帝大の卒業生の半数が民間企業に就職するようになり、「サラリーマン」が大衆の主人公となった。明治時代まで呉服屋であった老舗が次々に「百貨店」に変身を遂げ、銀座はデパート街へと変貌した。

明治神宮外苑に「神宮外苑野球場」ができたのが大正15年(1926年)で、その前年出発した「東京六大学野球」が愈々隆盛をきわめるようなる。「大阪朝日新聞」、「大阪毎日新聞」が100万部を突破して東京に進出、それに対抗した読売新聞も成長を果たして、今日「三大紙」といわれるようになる新聞業界の基礎が築かれた。

大正14年(1925年)3月には、東京、大阪、名古屋でラジオ放送が始まり、新しいメディアが社会に刺激を与えるようになる。震災で鉄道が被害を受けたこともあって、「自動車」が都市交通の桧舞台にのし上がり、「円タク」の登場もあって、旅客か貨物であるかを問わず陸運手段として大きな地位を占めるようになる。都市部では新たに登場した中産階級を中心に“洋食”が広まり「カフェ」「レストラン」が成長、飲食店のあり方に変革をもたらした。

コロッケなどの登場により、洋食とは縁のなかった庶民の食卓にまで影響が及ぶこととなった。明治時代まで庶民には縁のなかった「欧米式美容室」、「ダンスホール」が都市では珍しい存在ではなくなり、男性の洋装が当たり前になったのもこの時代である。一方、地方(特に農漁村)ではそういった近代的な文化の恩恵を受けることはまれで、都市と地方の格差は拡大していった。

文学界には、芥川龍之介有島武郎白樺派人道主義(ヒューマニズム)が台頭した。

このころまでに近代日本語が多くの文筆家らの努力で形成された。今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、上記の他に武者小路実篤志賀直哉白樺派中里介山の『大菩薩峠』や『文藝春秋』の経営にも当った菊池寛などの文芸作品が登場した。

同時期の大正10年(1921年)には、小牧近江らによって雑誌『種蒔く人』が創刊され、昭和初期にかけてプロレタリア文学運動に発展した。また大正13年(1924年)には、演劇で小山内薫築地小劇場を創立し、新劇を確立させた。新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、写真や「活動写真」と呼ばれた映画などの娯楽も徐々に充実した。

社会問題[編集]

この当時、社会事業をめぐる議論が盛んとなり、米騒動後には政府・地方で社会局および方面委員制度の創設が相次いで行われ、それらの機関によって都市の貧民調査や公設市場の設置などが進められていった。

また大正8年(1919年)には、第一次世界大戦を契機とした国民の思想・生活の変動に対処するという目的で内務省の主導による民力涵養運動が開始されており、後の教化総動員運動の先駆けともなる、国家が国民の生活の隅々まで統制を行おうとする傾向がこの時期から見られるようになる。

こうして大正時代において社会事業が活発となった原因として、小作争議の頻発や労働運動の大規模化など、地方改良運動に見られるような従来の生産拡大方針では解決不可能な問題が深刻化したことが指摘されている。

エピソード[編集]

大正改元に際し、新元号をスクープしたのが朝日新聞記者の緒方竹虎である。このスクープにより出世し、同社政治部長、主筆など幹部を経て、後に党人派の大物政治家へと栄転した。

略年表[編集]

西暦との対照表[編集]

大正 元年 2年 3年 4年 5年 6年 7年 8年 9年 10年
西暦 1912年 1913年 1914年 1915年 1916年 1917年 1918年 1919年 1920年 1921年
干支 壬子 癸丑 甲寅 乙卯 丙辰 丁巳 戊午 己未 庚申 辛酉
大正 11年 12年 13年 14年 15年
西暦 1922年 1923年 1924年 1925年 1926年
干支 壬戌 癸亥 甲子 乙丑 丙寅

大正を名乗る企業・団体・人物[編集]

関連項目[編集]


前の元号:
明治
日本の元号
次の元号:
昭和
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