日亜化学工業

提供: Yourpedia
移動: 案内検索
主力製品の一つである青色LED

日亜化学工業株式会社(にちあかがくこうぎょう)は徳島県阿南市に本社を持つ化学会社。略称として、日亜日亜化学等と言われる。

発光ダイオードなどの電子デバイス蛍光灯などに使われる蛍光体を扱う。以前はストレプトマイシンの製造にも携わっていた。

概要[編集]

1956年小川信雄が徳島県阿南市に設立した。蛍光灯用の蛍光体、ブラウン管テレビ用の蛍光体のメーカーとして成長した。高輝度青色発光LEDを製品化以降は、製品で会社が世界的に知られるようになった。なお現在の主力製品は青色LEDと蛍光体を組み合わせて製品化した白色LEDであり、主に携帯電話のバックライト用として生産されている。

社名[編集]

「日亜」(NICHIA)は、日本の「日」(NICHI)とアジア、アメリカ、オーストラリアの「亜」(A)を表している[1]。社史によれば、この社名には、創業者の「日本を中心に四海仲良く肩を並べて発展していこうという思い」が込められている[1]

拠点[編集]

徳島県内(阿南市、徳島市、鳴門市)に本社のほか4工場を構えている。台湾、中国、マレーシアに現地子会社の工場がある。

本社
徳島県阿南市。1964年12月、上中工業所として開設[1]。1972年から本社。
新野工場(A工場)
徳島県阿南市。会社設立の1956年12月から操業の旧本社[1]。電池材料を製造[1]
辰巳工場(TN工場、TS工場)
徳島県阿南市。1995年2月から操業[1]。敷地面積41万1千平方メートル[1]。蛍光体、LED、電池材料、医薬品原材料、蒸着材料・薄膜材料を製造[1]
徳島工場(V工場)
徳島県徳島市。1974年5月から操業[1]。遷移金属触媒、電子材料を製造[1]
鳴門工場(N工場)
徳島県鳴門市。日本たばこ産業徳島工場跡地で2006年11月から操業[1]。LED応用製品を製造[1]
鹿児島工場(K工場)
鹿児島県南九州市。EMSメーカーの高槻電器工業の拠点を利用して2007年1月から操業[1]。LEDを製造[1]

ダイオード開発[編集]

日亜化学工業は、20世紀中には困難と言われていた高輝度の青色発光LEDを1993年11月に製品化した。そのほか、青色LEDと蛍光体を組み合わせた白色LEDを開発し、携帯機器のバックライトや車載照明などへの利用が進んだ。また、次世代DVDに不可欠の青紫色LDも開発するなど、同分野の技術開発は大きく進展した。開発を担当した中村修二は2014年のノーベル物理学賞受賞のインタビューで、感謝したい人物の筆頭として在職時の社長であった小川信雄の名を挙げ、「開発したいという私の提案を5秒で決断し、米国留学と中小企業としては破格の研究開発費を用意して支援してくれた。彼は私が知る最高のベンチャー投資家だ」との主旨を述べた[2]。中村と日亜は下記のように長らく対立が続いており、中村が2014年の文化勲章授与時にマスコミを通じて日亜に感謝を述べ和解を申し出たものの、日亜は中村が求めた社長との面会を断った[3]

ツーフローMOCVD技術特許訴訟[編集]

日亜化学工業の元社員である中村修二が、在職時に小川信雄社長(当時)の支援を受けて、窒化ガリウム化合物単結晶膜の製造に利用可能な「ツーフローMOCVD技術」(通称404特許)を発明した。2001年8月、この特許権帰属確認と後に譲渡対価請求を求めて日亜化学工業を提訴し、注目を集めた。なお、訴訟提起時には小川信雄は既に社長を退いており、娘婿の小川英治が社長に就いていた。2005年1月、裁判所が和解を促し中村も裁判のこれ以上の長期化を嫌ったため両者は和解した。中村は裁判後弁護士とは異なる記者会見を設け「日本の司法は腐っている」と述べた。この訴訟などを機に職務発明の扱いが社会問題になり、特許法の改正が行われた[4]。本訴訟中に日亜化学工業は404特許を「量産には必要のない技術」であるとして無価値であることを幾度も述べ、その特許権を2006年2月に放棄した。日亜化学工業は「アニールp型化現象」が量産化の鍵であったと主張している[5]。中村修二は後にノーベル物理学賞を受賞したが、そのときの共同受賞者である天野浩は中村の功績について、「中村さんは実験の神様みたいな人。あの人がやったから実用化が急速に進んだ。この材料が注目された最大の功績者は中村さんじゃないかと思う」と語っている[6]

偽装請負問題[編集]

2006年10月、日亜に就業していた労働者7名が、偽装請負であるとして徳島労働局に申告した。翌11月、徳島県の仲介もあって、日亜は同社工場で働く請負労働者1600人ほぼ全員について、採用選考の後に順次直接雇用するなどと提示したため、労働者側は申告を取り下げた[7]

しかし、上記7名が就業していた職場は廃止され、2007年1月と5月から行われた選考試験でも全員不採用になり、職を失った。そこで同年7月23日、上記7名は、日亜に対し直接雇用と契約解除の撤回を指導、勧告するよう、徳島労働局に申告した。

日亜化学は2007年中に日本共産党議員調査団との協議の中で、全日本金属情報機器労働組合(JMIU)との間で交わした「請負労働者の直接雇用」の合意内容を撤回し、請負労働者の直接雇用を行わないことを発表した。 [8]

参照[編集]

  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 日亜化学工業株式会社総務部(編)『日亜50年のあゆみ』(日亜化学工業株式会社、2008年12月)
  2. 毎日新聞. “ノーベル賞:中村氏 研究の原動力は「怒り」”. 2014年10月8日閲覧。
  3. 読売新聞. “中村氏の「感謝で十分」、社長との面会は断る”. 2014年11月4日閲覧。
  4. 日経BP. “2004年度の特許法改正と職務発明訴訟に関する留意点(下)”. 2014年10月8日閲覧。
  5. 日経BP. “日亜化学工業社長の小川英治氏 訴訟騒動の真実を今こそ明らかにする”. 2014年10月8日閲覧。
  6. 読売新聞. “天野浩教授「平均的な日本人の私でも取れた」”. 2014年10月8日閲覧。
  7. 朝日新聞. “日亜化学、請負1600人を雇用へ 正社員の道も”. 2010年5月1日閲覧。
  8. しんぶん赤旗. “日亜化学へ批判高まる/徳島 偽装請負是正の約束ほご/労働局 “調査を進める”/共産党が抗議 「青年の希望砕く」”. 2010年5月1日閲覧。

外部リンク[編集]

Wikipedia-logo.svg このページはウィキペディア日本語版のコンテンツ・日亜化学工業を利用して作成されています。変更履歴はこちらです。