本能寺の変

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本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年6月2日1582年6月21日)、織田信長の重臣明智光秀謀反を起こし、京都本能寺に宿泊していた主君信長を攻め、自刃させた事件[1]

光秀が反旗を翻した原因については定説がない。

情勢[編集]

天正10年(1582年)5月までに信長は東は信濃、西は播磨あたりに至るまで広大な領土を手にし、順調に進めば天下は信長のものになると思われる情勢であった。

経緯[編集]

5月15日から、明智光秀は安土城で徳川家康の接待役を務めていた。羽柴秀吉から応援の要請が届いたため、5月17日に信長は光秀に出撃を命じた。26日、光秀は丹波の丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めた。愛宕大権現に参篭し、5月28日・29日に「時は今 天が下なる 五月哉」の発句で知られる連歌の会を催した。

5月29日、信長も秀吉の応援に出陣するため、小姓を中心とするわずかの供回りを連れ安土を発ち、京都・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待った。同時に、信長の嫡男信忠は妙覚寺に入った。

翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いていた。一方、光秀は1万3000の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し、「信長の閲兵を受けるのだ」と称し京都に向かった。光秀は桂川手前に1万の兵を残し、3000を率いて京に入った。


本能寺の変[編集]

6月2日未明、明智軍3000は本能寺を包囲した。

物音に目覚めた信長は、家来の喧嘩だと思い、近習に様子を探らせた。すると「本能寺は軍勢に囲まれており、紋は桔梗(明智光秀の家紋)である」と報告された。信長は「是非に及ばず」と言い、弓を持ち表で戦ったが、弦が切れたので次に槍を取り敵を突き伏せた。しかし槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念、奥に篭り、信長の小姓であった森蘭丸に火を放たせ、自刃したとされる(信長の家臣太田牛一の著作『信長公記』による)。信長の遺骸は発見されなかった。一説には、信長が帰依していた阿弥陀寺(上立売大宮)の住職清玉が密かに運び出し荼毘に付したと伝える。この縁で阿弥陀寺(上京区鶴山町に移転)には、「織田信長公本廟」が現存する。自害の際に信長が本能寺の地下の火薬庫に火をつけて自爆したため、信長の遺体は発見されなかったという説もある。

一方、ルイス・フロイスの『日本史』(Historia de Iapan)では、「(午前3時頃と言われる)明智の(少数の)兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入して(6月2日に御所前で馬揃えをする予定であったのを織田の門番たちは知っていたので油断したと思われる)、信長がから出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。直後に信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら明智の兵達に対して応戦していたが、明智の鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。直後に障子の戸を閉じた(火を放ち自害した)」という内容になっている。

明智謀反の報を受けた信忠は、妙覚寺を出た。そこで京都の行政担当者である村井貞勝に会った。村井は「すでに本能寺は焼け落ちているので、二条城(二条新造御所)に立て篭もるべき」と進言し、信忠はこれを容れた。

明智勢は続いて二条城を包囲した。二条城に住んでいた誠仁親王は光秀に使者を送り「自分はどうすべきか。切腹すべきか」と問うた。光秀は親王に手出しするつもりはないといい、これを逃がした。その後、信忠らとその馬廻が明智勢と戦闘を行ったが、守りきれず自刃。

  • なお、妙覚寺には、信忠とともに、信長の弟である織田長益(のちの織田有楽斎)も滞在していたと言われ、信忠とともに二条城に移ったが、二条城の落城前に逃げ出して、安土城を経て岐阜へと逃れ、無事であった。信忠が長益の勧めに従い自害したのに対し、長益は自害せずに逃げ出したため、そのことを京の民衆に「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ召させておいて われは安土へ逃げる源五 6月2日に大水出て 織田の源なる名を流す」と皮肉られたと言われている。
  • また、信忠が二条城で奮戦した際、黒人の家臣ヤスケも戦ったという。ヤスケはもともと、宣教師との謁見の際に信長の要望で献上された黒人の奴隷である。ヤスケは、この戦いの後捕まったものの殺されずに生き延びたが、その後の消息は不明である。本能寺の変に触れるドラマの中には、ヤスケが信長に殉じて討ち死にする描かれ方をされることもある。

謀叛の動機[編集]

光秀の挙兵の動機には怨恨、天下取りの野望、朝廷守護など数多くの説があり、意見の一致をみていない。いずれも決定力に欠け、今後も定説をみることはないであろう。

一般に知られる怨恨説によると、徳川家康の接待役を解任されて面目を失った、出雲伯耆もしくは石見に国替えを命ぜられた、母を信長のために死なせてしまったなど、江戸時代以降さまざまな講談話がおもしろおかしく創作された。しかしこれらにはいずれも明確な裏付けはない。 むしろ本能寺の変前年に光秀が記した『明智家法』によれば『自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない』という趣旨の文を書いており、信長に対しては尊崇の念を抱いている。 そのため、怨恨ではない別の動機を求める説も支持されており、特に光秀以外の黒幕の存在を想定する説が多く行われている。

首謀者[編集]

光秀自身の動機ではなく、何らかの黒幕の存在を想定する説には以下のようなものがある。

足利義昭説(藤田達生)[編集]

自分を追放し、室町幕府を滅亡に追いやった信長に恨みを抱く足利義昭が、その権力を奪い返すために光秀をそそのかしたとする説である。 信長に仕えるようになる前からの光秀と義昭のつながりや、打倒信長のために諸大名の同盟を呼びかけた義昭の過去の行動などから導かれた説であろう。 しかしこの説では、義昭を庇護していた毛利氏が(定説によれば)本能寺の変を知らなかった事の説明が付かない。仮に義昭が黒幕であれば当然毛利氏も知っているはずと考えられる。この辺で説得力に欠けると言われている。

太閤記佐久間軍記などでは和議の時点ですでに事変を知っていたことが描かれており、小早川隆景が「信長に代わって天下を治めるのは秀吉であるから、今のうちに恩を売るべきである」として和議を支持する進言をしている。仮にこれが事実だとすれば、義昭説とも矛盾はしないことになるが、この時点で秀吉が天下を取ることを予想できた者など当の秀吉くらいしかおらず、これは考え過ぎであろう。

朝廷説[編集]

朝廷黒幕説も、黒幕は正親町天皇なのか、誠仁親王なのか、あるいは近衛前久等の公家衆主体なのかで意見が分かれる。背景としては「三職推任問題」での信長の対応が、朝廷を滅ぼす意思を持っているのではないかという恐れがあるというのが朝廷黒幕説の根拠の一つに挙げられる。事実光秀は信長・信忠を討った後朝廷に参内し、金品を下賜されている。また、山崎の戦いの後、織田信孝が近衛前久に対し追討令を出して執拗に行方を捜した事、吉田兼見が事情聴取を受けている事、更に兼見の日記で当時の一級史料でもある『兼見卿記』原本の内容が本能寺の変の前後一ヶ月が欠けており、あまつさえ再度天正10年の項目を新たに書き直したという事実も、朝廷黒幕説を匂わせているが、確たる証拠となるものに欠けている。加えて、「三職推任問題」自体が本能寺の変の直前の出来事であり、その性質上即答可能な問題ではなくむしろ京都立ち寄りの理由の一つにその返答があったと考えられている(逆に信長が返答することを阻止するためにこの日程で本能寺を襲ったと解する事は可能ではある)。更に黒幕として名前が挙げられている近衛前久に対しては本能寺の変の当日に出家しており(数日後とも)、これは細川藤孝の出家と同様に信長に殉じたと解釈するのが適切である事や後々まで信長の死を惜しんだ和歌を残している事などの反証が挙げられている。また、正親町天皇や誠仁親王に関しても具体的な証拠があるわけではなくこれも仮説の域を出ない。

その他[編集]

  • イエズス会説(立花京子) - 日本の政権交代をもくろんだもの、とする説
  • 羽柴秀吉説要出典
  • 毛利輝元(あるいは小早川隆景)説要出典
  • 長宗我部元親説 - 元親の妻が明智家臣斎藤利三の娘であったことから(井沢元彦著『逆説の日本史』より)
  • 朝廷と羽柴秀吉の共謀説要出典
  • 徳川家康説要出典

動機と首謀者に関するその他の考察[編集]

  • 光秀がいつごろから謀反を決意していたかは明らかではないが、亀山城出陣を前にして、愛宕権現での連歌の会で光秀が詠んだ発句、「時は今 天が下知る 五月哉」は、「時(とき)」は源氏の流れをくむ土岐氏の一族である光秀自身を示し、「天が下知る」は、「天(あめ)が下(した)治る(しる)」、すなわち天下を治めることを暗示していると解し、この時点で謀反の決意を固めていたのだとする説もあるが、これは間違いで、本当は「時は今 雨が下る 五月哉」と詠んでいた。前述の改変は秀吉が「天正記」で広めたものである。

本能寺の変後の諸将の動向[編集]

明智光秀[編集]

光秀は3~4日、諸将に書状を送り協力を求め、5日に安土城に入り、そこにあった財産を分配した。9日、上洛し朝廷工作を開始するが、秀吉の大返しの報を受けて山崎に出陣。13日の山崎の戦いに敗れ、同日深夜、小栗栖(京都市伏見区)で土民に討たれた。三日天下と呼ばれた。

期待していた細川忠興筒井順慶ら近畿の有力大名の支持を得られなかったことが戦力不足につながり、敗因の一つであったが、総合的に見て、もともと勝算はほとんど無かったと言える。

羽柴秀吉[編集]

秀吉は清水宗治の篭る備中高松城を包囲して毛利氏と対陣していた。

早くも6月3日には信長横死の報を受け、急遽毛利との和平を取りまとめた。6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を帰し、12日には摂津まで進んだ。ここで摂津の武将中川清秀池田恒興と合流し、さらに四国出兵のためにいた織田信孝丹羽長秀と合流した。これらの諸軍勢とともに都に向かい、13日の山崎の戦い(天王山の戦い)で光秀を破った。この非常に短い期間での中国からの移動を中国大返しと呼ぶ。

以後、秀吉は下克上を狙って活動する。

信長の死の報をいち早く入手した事、兵糧攻めによりほとんど戦力を失っていなかった事など、秀吉はあまりに都合の良い状況で光秀と戦って勝利を収めたこと、本能寺の変をきっかけに秀吉が天下人となり、結果的に一番利益を得ていること。これらの経緯から、秀吉こそが本能寺の変の黒幕だとする意見もあるが、その場合、光秀だけがリスクを負いすぎていることが指摘される。

柴田勝家[編集]

勝家は佐々成政前田利家とともに、6月3日上杉氏の越中国魚津城を3ヶ月の攻城戦の末攻略に成功。しかしその頃信長は既に亡かった。変報が届くと、上杉景勝の反撃や地侍の蜂起によって秀吉のように軍を迅速に京へ返す事ができなかった。ようやく勝家が軍を率いて江北に着いた頃、既に明智光秀は討たれていた。その後清洲会議で秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いで敗北、自害した。

徳川家康[編集]

家康は、信長の招きで5月に安土城を訪れた後、家臣30余名とともに堺に滞在した。6月2日朝、返礼のため長尾街道を京へ向かっていたところ、四条畷付近で京から駆けつけた茶屋四郎次郎に会い、本能寺の変を知る。家康はうろたえ、一時は京に行き本能寺で信長に殉じるとまで言ったが、家臣に説得され帰国を図る。山城綴喜・近江・加太峠・伊賀の山中を通って伊勢へ抜け、伊勢湾を渡って本国三河に戻った。後に「神君伊賀越え」と称される。

後年、「神君のご艱難」と称される家康最大の危機であった。実際、堺まで同行しながら伊賀越えで別行動を取った穴山信君は、山城綴喜の河原の渡しで土豪の襲撃を受けて死んでいる。この時、家康の苦難の伊賀越えに協力したのが伊賀衆であり、その際の伊賀の棟梁、服部半蔵の功で江戸城に「半蔵門」が作られる。なお、で討たれたと言う伝説も存在し、市内の南宗寺には彼の名前が刻まれた墓が現存するが、実はこれは後の大坂の陣の際に生まれた伝説である。

三河に帰り光秀を討とうと出陣し、熱田神宮まで来たが山崎の戦いの報を聞き、引き返した。一説によると酒井忠次は北伊勢まで進軍していたと言う。もし、これが事実なら家康は美濃~京へ進軍する方と、伊勢~京に進軍する二手に分かれることになる。

その後、家康は天正壬午の乱を経て領土を増やした。

織田信雄[編集]

信長の次男・織田信雄は領国の伊勢にいた。本能寺の変の後明智光秀を討とうと近江の土山へ進軍したが、そこで光秀の死を知り、帰還した。

清洲会議では織田家の跡継ぎにならなかった。これを不服として一時家康と共に秀吉と相対するが、結局講和して秀吉の下に下った(小牧・長久手の戦い)。


滝川一益[編集]

滝川一益は関東の上野国厩橋城にいた。本能寺の変の報を聞いた小田原の北条氏直が上野国奪取を目指して進出してきた。一益はこれを迎撃しようとしたが敗北し、領国の伊勢長島城へ帰還した(神流川の戦い)。帰還した時、すでに清洲会議は終わっていた。

織田信孝・丹羽長秀[編集]

織田信孝丹羽長秀、信長の甥・津田信澄(父は織田信勝(信行))らとともに大坂にて四国長宗我部元親討伐の準備を進めていた。本能寺の変の報が伝わると、すぐさま丹羽長秀は信孝の指示に従って信澄を殺害した。その後、丹羽長秀は信孝とともに京都に向かう羽柴軍に合流した。

信澄殺害は、信澄の父・信勝がかつて信長に謀反を企てて殺されている事や彼が光秀の娘婿であった事から光秀と通じていると見なされた事による。しかしながら、「父信長だけでなく兄信忠も死んだ事を知った信孝が、予想される織田氏の家督争いの有力者の一人になる可能性のある信澄を言いがかりをつけて殺害した」とする見方もある。

長宗我部元親[編集]

長宗我部元親は信長の四国征伐の影響もあり、兵を白地城に休ませていたが、信長横死を知るや、兵を阿波讃岐に兵を出し、完全に勢力下に入れた。


脚注[編集]

  1. 信長の死の目撃者がいないか、いたとしても死亡しているため、自刃か焼死かは不明。


関連事項[編集]

  • 信長協奏曲(信長コンツェルト)。映画版で登場。公開当日の特番でメイキング放送された