蒋琬

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蒋 琬(しょう えん、? - 246年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての政治家公琰(こうえん)[1]。子に蒋斌蒋顕。 諸葛亮の後継者として丞相に就任した。

生涯[編集]

劉備・諸葛亮の時代[編集]

荊州零陵湘郷県の出身[1]劉備益州に入ると広郡の長に任命された[1]。劉備が遊覧の途中、突然広郡を訪れたことがあったが、蒋琬は仕事を放置している上にちょうどその時泥酔していた[1]。明らかな失態で劉備は処罰しようとしたが、随行していた諸葛亮が「蒋琬は国家を背負う大器であり、100里四方の県の土地を治めるような人物ではありません。蒋琬の行政は住民を安定させる事を基本にしており、外見を良くすることを第一とは思っていないのです」と弁護した[1]。このため劉備は処罰はせずその場で赦免した[1]

蒋琬は取り調べを受けた後、嫌な夢を見た[1]。牛の首が門前に転がっていてたらたらと血を流している[2]。蒋琬は不快になり不安になり、夢占いを呼んで訊ねた[2]。夢占い師は「血を見たというのは政治に明るいこと。つまり宰相にふさわしい資質であることを意味します。牛の角と鼻とで公という字の形となります。貴方は必ず公まで昇進するに違いありません。大吉の印です」と述べた[2]。間もなく什邡県令(現在の四川省綿竹)となる[2]

223年に劉備が崩御し、諸葛亮が蜀の全権を担う立場になると蒋琬は諸葛亮に召し出されて東曹掾となる[2]。茂才にも推挙されたが、蒋琬は廖化に譲り自らはあくまで受けなかった[2]。このため諸葛亮は「親しい者の期待を裏切り、推挙の恩恵を無視し、その結果人民を破滅に導くのは人々の同情を得られない行為である。その上実際、遠くの人にも近くの人にも、その辞退という行為の理由を理解させられない。それ故、君は過去の実績を踏まえて推挙されたことをはっきりと示し、よってこの選抜の妥当さ、重要さを明らかにすべきである」と述べて諭した[2]。後に参軍に昇進し、諸葛亮の南征北伐が始まると留守を任され、丞相府の事務を取り仕切り、常に蜀軍の兵糧と兵力を充足して遠征軍の供給に努めた[2]。諸葛亮の蒋琬に対する信任は厚く、主君である劉禅に対して自分の死後の後継者に蒋琬を当てるように密かに上表した[2][3]

国家を背負う[編集]

234年に諸葛亮が陣没すると尚書令となる[3]。当時の蜀では諸葛亮の死で混乱していたが、蒋琬のみは「悲しみの様子もなければ喜びの色もなく、心ばせも態度も全くいつもと変わらなかった。そのため次第に人々の心服を得るようになった」とある[3]

蒋琬は人を処断する時、好悪の感情を別にして道理をもととした態度を貫き公正そのものだった[3]。東曹掾の楊戯は大まかな性格で蒋琬と議論している時にも返事をしない時があり、周囲から不遜だと言われていた[3]。すると蒋琬は「人の心が同じでないのはそれぞれの顔が違うのと同じだ。面と向かい合っている時には従い、後で文句を言うのは昔の人が戒めているところである。楊戯はわしの方針に賛成すれば彼の本心に違うことになり、わしの言葉に反対すればわしの非を明らかにすることになると考え、それで沈黙していたのだ。これこそ彼のさわやかな態度ではないか」と述べたという[3]

蒋琬は諸葛亮の北伐が成功しなかったのは北への悪路に問題があったと考えて、川を利用して東進する策を推進した[3]。多くの船舶を造船し、漢水を利用して東進しようと計画した[4]。しかし蒋琬は持病があり、この計画の推進中に再発してしまう[4]。このため東進策は実行に移せないまま病が悪化していき、246年に死去した[4]。後任には費禕が就任した。

評価[編集]

蒋琬は諸葛亮から相当な信任を得ていたようであり、「公琰は忠義公正を旨としており、わしと共に王業を支えるべき人物だ」と常に評価していた[2]。また諸葛亮・費禕・董允とともに「四相」あるいは「四英」と称された。

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 伴野朗『英傑たちの三国志』、P213
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 2.9 伴野朗『英傑たちの三国志』、P214
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 伴野朗『英傑たちの三国志』、P215
  4. 4.0 4.1 4.2 伴野朗『英傑たちの三国志』、P216

参考文献[編集]