赤穂浪士

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赤穂浪士(あこうろうし)とは元禄15年12月14日1703年1月30日:2007年の暦と一致)に旧主浅野内匠頭長矩の仇である高家吉良上野介義央の屋敷に討ち入り、仇討ちをした元赤穂藩大石内蔵助良雄以下47人の武士である。
義士祭が行われる赤穂市では赤穂義士(あこうぎし)と呼ばれ、忠孝の教えの観点から戦前は全国的にも赤穂義士の名称が一般的だったが、戦後、大佛次郎の小説がテレビドラマ化されてからは、赤穂浪士の方が周知されている。四十七士(しじゅうしちし)ともいう。(事件の経緯の詳細は元禄赤穂事件を参照)

概説[編集]

元禄14年(1701年)3月14日の江戸城松之大廊下で浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に対して刃傷におよんだ。殿中での刃傷に征夷大将軍徳川綱吉は激怒し、浅野長矩は即日切腹、赤穂浅野家は断絶と決まった。対して、吉良義央には何の咎めもなかった。

家老大石良雄(内蔵助)以下、赤穂藩士の多くは、喧嘩両成敗の武家の定法に反するこの幕府の裁定を一方的なものであると強い不満を持った。赤穂城での評定では幕府に恭順して開城するか、抗議して篭城か殉死かで紛糾した。大石良雄は殉死を希望する藩士たちから誓紙を取り、吉良義央の処断と赤穂浅野家再興を幕府に求める義盟を結んだ。赤穂城は開城され、旧藩士たちは浪人となり江戸上方の各地へ散った。

大石良雄の御家再興運動に多くの旧藩士たちが集まり、義盟への参加者は120名に達した。大石良雄は浅野長矩の弟浅野長広(大学)を擁立しての御家再興を目指したが、堀部武庸(安兵衛)ら江戸の急進派はこれにあきたらず、吉良義央への仇討ちを強硬に主張した。大石良雄は各方面に御家再興を働きかけるが容易ではなく、その間に浪人となった旧藩士たちの生活も困窮し、脱落者も出始める。

元禄15年(1702年)7月、浅野長広の広島浅野宗家への永預けが決まり、赤穂浅野家再興は絶望的となった。大石良雄は京都円山で会議を開き、吉良義央への仇討ちを決定した(円山会議)。大石良雄は仇討ち決定に際して、同志の向背を確かめるべく義盟への誓紙を一旦返却させた(神文返し)。すると、高禄の者をはじめ半数以上の同志が脱落してしまった。誓紙の返却を拒んだ者にのみ仇討ちの真意を伝えさせた。最終的に同志は47人となった。

元禄15年12月15日未明(1703年1月31日未明)、47人の赤穂浪士は本所松阪の吉良義央の屋敷に討ち入り、討ち果たした。[1]一党は浅野長矩の墓所のある泉岳寺へ引き上げ首級を墓前に供え、仇討ちの成功を報告した(この前後に寺坂信行(吉右衛門)が立ち退き、赤穂浪士は46人となった)。

大石良雄は出頭して処分を幕府の裁定に委ねることにし、幕府は浪士たちを4大名家へお預けとした。江戸では旧主への忠義を遂げた義士であるとして大きな人気を呼んだ。幕府の許可がなく、しかも徒党を組んでの仇討ちは死罪にあたるが、忠義を大いに奨励していた将軍徳川綱吉以下の幕閣は死罪か助命かで対応に苦慮した。赤穂浪士は義士であるから助命すべきという意見も強かったが、法を曲げることは天下に乱を引き起こす元になるという意見を綱吉は採用し、武士としての体面を重んじた上での切腹を命じた。元禄16年(1703年)2月4日、46人の赤穂浪士はお預かりの大名屋敷で切腹した。

庶民のあいだではこの措置に対する不満は大きかったようであり、のちに人形浄瑠璃仮名手本忠臣蔵』など彼らを題材にとった物語(義士物)が成立することになる。特に、仮名手本忠臣蔵の成立以降はこれらの作品を総称して忠臣蔵と呼ぶようにもなった。

赤穂浪士は泉岳寺に葬られ、泉岳寺では現在も毎年討ち入りの日に義士祭を催している(討ち入りの日は旧暦12月14日深夜[2]であるが、義士祭は新暦12月14日に行われる)。

注釈[編集]

  1. 討ち入りに際しては、長崎喧嘩騒動における深堀氏側の高木彦衛門貞親邸への討ち入りをおおいに参考にしたという。(外山幹夫『長崎奉行』中公新書、1988年版、157頁を参照)
  2. 当時は武家においては現代と同様に深夜0時が1日の境界、庶民においては日の出が1日の境界とされていた。そのため、討ち入りは武家の時法では12月15日未明であるが、庶民の時法では12月14日深夜となる。また元禄15年12月15日は西暦の1703年1月31日となる。

カブキ者[編集]

近年の研究では赤穂浪士は当時取締りをされはじめていた平和な社会の秩序に反抗する戦国の気風を色濃く残し、ことさらに奇矯な振る舞いをしたカブキ者ではなかったかと考証されている。かぶき者による類似事件は当事すくなからず発生していた。

彼らは自らの命を軽んじ、武士としての「一分」を通すためには軽々と命を捨てた。赤穂浪士が当初主張した殉死(江戸時代初期に流行し江戸幕府厳罰をもって禁じた)や天下の法を無視し、死罪覚悟の上での吉良義央の屋敷への討ち入りも、単なる主君への忠義によるものではなく、自らの武士としての「一分」を立てるための行為であり、浅野長矩の切腹、赤穂浅野家断絶という不公平な裁定を行った(と彼らが考えた)江戸幕府への抗議であった。討ち入りは忠義にもとづくものではなく、当時のかぶき者として無頼の心性に根ざしたものと考えられる。

演劇やテレビなどでは、忠臣蔵として広く知られている赤穂浪士であるが、実際の討ち入り当日の服装も各個人違い、天候も夜間ではあったが雪は降っていなかった。

四十七士[編集]

大石内蔵助良雄 おおいしくらのすけよしお(よしたか)
国家老、1500石(譜代)。討ち入りの指導者。享年45。「あら楽や思ひは晴るゝ身は捨つる浮世の月にかゝる雲なし」
大石主税良金 おおいしちからよしかね
部屋住み。大石内蔵助の長男。討ち入りのときは裏門の大将をつとめる。最年少の同志。享年16。「あふ時はかたりつくすとおもへども別れとなればのこる言の葉」
原惣右衛門元辰 はらそうえもんもととき
足軽頭、300石(新参)。早くから江戸の急進派に同調していた。享年56。「君がため思もつもる白雪を散らすは今朝の嶺の松風」
片岡源五右衛門高房 かたおかげんごえもんたかふさ
側用人・児小姓頭、350石(譜代)。忠臣蔵では浅野内匠頭切腹の際に最後の対面をした。仇討ちを強硬に主張し独自の行動をとっていた。
堀部弥兵衛金丸 ほりべやへえかなまる(あきざね)
前江戸留守居、前300石、隠居料20石(譜代)。同志のうち最年長者。享年77。「雪はれて思ひを遂るあしたかな」
堀部安兵衛武庸 ほりべやすべえたけつね
馬廻、200石。越後国新発田藩出身、旧姓中山。父の代に新発田藩を放逐となり浪人していたが、高田馬場の決闘での活躍により、堀部弥兵衛の婿養子となり、赤穂浅野家の家臣となる。仇討ち急進派の中心人物。討ち入りでは大太刀を持って大いに奮戦したと伝わる。享年34。「梓弓ためしにも引け武士の道は迷はぬ跡と思はば」
吉田忠左衛門兼亮 よしだちゅうざえもんかねすけ
足軽頭・郡奉行、200石役料50石(譜代)。浪士の中では大石内蔵助に次ぐ人物として、これを補佐した。享年64。「かねてより君と母とにしらせんと人よりいそぐ死出の山道」
吉田沢右衛門兼貞 よしださわえもんかねさだ
部屋住み。蔵奉行吉田忠左衛門の長男。享年29。
近松勘六行重 ちかまつかんろくゆきしげ
馬廻、250石(譜代)。討ち入りの際に負傷する。享年34。
間瀬久太夫正明 ませきゅうだゆうまさあき
大目付、200石役料50石(二代)。享年63。
間瀬孫九郎正辰 ませまごくろうまさとき
部屋住み。間瀬久太夫の長男。享年23。
赤埴源蔵重賢 あかばねげんぞうしげかた
馬廻、200石(譜代)。忠臣蔵では「徳利の別れ」で有名。享年35。
潮田又之丞高教 うしおだまたのじょうたかのり
郡奉行、絵図奉行、200石(譜代)。享年35。「武士の道とばかりを一筋に思ひ立ぬる死出の旅路を」
富森助右衛門正因 とみのもりすけえもんまさより
馬廻・使番、200石(二代)。享年34。「先立し人もありけりけふの日をつひの旅路の思ひ出にして」
不破数右衛門正種 ふわかずえもんまさたね
元馬廻・浜奉行、元100石(譜代)。浪人していたが懇願して義盟に加わる。討ち入りでは最もめざましい働きをしたと伝わる。享年34。
岡野金右衛門包秀 おかのきんえもんかねひで
部屋住み。美男で忠臣蔵の物語では大工の娘を通じて吉良屋敷の図面を手に入れている。享年24。「その匂ひ雪のあさぢの野梅かな」
小野寺十内秀和 おのでらじゅうないひでかず
京都留守居番、150石役料70石(譜代)。享年61。「今ははや言の葉草もなかりけり何のためとて露結ぶらむ」
小野寺幸右衛門秀富 おのでらこうえもんひでとみ
部屋住み。小野寺十内の養子。享年28。
木村岡右衛門貞行 きむらおかえもんさだゆき
馬廻・絵図奉行、150石(譜代)。享年46。「おもひきや我が武士の道ならで御法のゑんにあふとは」
奥田孫太夫重盛 おくだまごだゆうしげもり
武具奉行・江戸定府、150石(新参)。仇討ち急進派の中心人物。享年57。
奥田貞右衛門行高 おくださだえもんゆきたか
部屋住み。奥田孫太夫の養子。享年26。
早水藤左衛門満尭 はやみとうざえもんみつたか
馬廻、150石(二代)。刃傷事件の第一報を江戸から赤穂へ伝える。享年42。「地水火風空のうちより出し身のたどりて帰るもとのすみかに」
矢田五郎右衛門助武 やだごろうえもんすけたけ
馬廻・江戸定府、150石(二代)。享年29。
大石瀬左衛門信清 おおいしせざえもんのぶきよ
馬廻、150石(譜代)。享年27。
礒貝十郎左衛門正久 いそがいじゅうろうざえもんまさひさ
物頭・側用人、150石(新参)。享年25。
間喜兵衛光延 はざまきへえみつのぶ
勝手方吟味役、100石(二代)。享年69。「草枕むすぶ仮寐の夢さめて常世にかへる春の曙」
間十次郎光興 はざまじゅうじろうみつおき
部屋住み。間喜兵衛の長男。吉良上野介に一番槍をつけ、その首級をあげた。享年26。「終にその待つにぞ露の玉の緒のけふ絶えて行く死出の山道」
間新六郎光風 はざましんろくろうみつかぜ
間喜兵衛の次男。養子に出されたが養父と折り合いが悪く江戸に出て浪人になっていた。願い出て義盟に加えられた。享年24。
中村勘助正辰 なかむらかんすけまさとき
書物役、100石(譜代)。享年46。「梅が香や日足を伝ふ大書院」
千馬三郎兵衛光忠 せんば(ちば)さぶろべえみつただ
馬廻、100石(二代)。享年51。
菅谷半之丞政利 すがやはんのじょうまさとし
馬廻・郡代、100石(譜代)。享年44。
村松喜兵衛秀直 むらまつきへえひでなお
扶持奉行・江戸定府、20石5人扶持(二代)。享年62。「命にもかえぬ一をうしなはば逃げかくれてもこゝを逃れん」
村松三太夫高直 むらまつさんだゆうたかなお
部屋住み。村松喜兵衛の長男。享年27。「極楽を断りなしに通らばや弥陀諸共に四十八人」
倉橋伝助武幸 くらはしでんすけたけゆき
扶持奉行・中小姓、20石5人扶持(二代)。享年34。
岡嶋八十右衛門常樹 おかじまやそえもんつねしげ
札座勘定奉行、20石5人扶持(二代)。享年38。
大高源五忠雄 おおたかげんごただお(ただたけ)
金奉行・膳番元方・腰物方、20石5人扶持。吉良家出入りの茶人に接近して12月14日の吉良屋敷で茶会があることを聞きつけた。俳諧をよくして俳人宝井其角と交流があり、これをもととして「松浦の太鼓」の外伝が作られた。享年38。「梅で呑む茶屋もあるべし死出の山」
矢頭右衛門七教兼 やとう(やこうべ)えもしちのりかね
部屋住み(譜代)。父長助ともに義盟に加わったが仇討ち決行前に父は病死した。享年17。
勝田新左衛門武尭 かつたしんざえもんたけたか
札座横目、15石3人扶持(譜代)。享年24。
武林唯七隆重 たけばやしただしちたかしげ
馬廻、15両3人扶持(二代)。吉良上野介の養子吉良左兵衛義周と切り結び負傷させ、炭小屋に隠れていた吉良上野介を討ち取った。享年32。「三十年来一夢中 捨レ身取レ義夢尚同 双親臥レ病故郷在 取レ義捨レ恩夢共空」(「レ」は漢詩文訓読の返り点)
前原伊助宗房 まえばらいすけむねふさ
金奉行・中小姓、10石3人扶持(二代)。江戸で呉服屋を開き吉良屋敷を探索した。享年40。
貝賀弥左衛門友信 かいがやざえもんとものぶ
中小姓・蔵奉行、10両3人扶持(新参)。享年54。
杉野十平次次房 すぎのじゅうへいじつぎふさ
札座横目、8両3人扶持(二代)。享年28。
神崎与五郎則休 かんざきよごろうのりやす
徒目付、5両3人扶持(新参)。享年38。「余の星はよそ目づかひや天の川」
三村次郎左衛門包常 みむらじろうざえもんかねつね
台所奉行・酒奉行、7石2人扶持(二代)。享年37。
横川勘平宗利 よこかわかんべいむねとし
徒目付、5両3人扶持(新参)。12月14日に吉良屋敷で茶会があることを調べる。享年37。「まてしばし死出の遅速はあらんともまつさきかけて道しるべせむ」
茅野和助常成 かやのわすけつねなり
横目付、5両3人扶持(新参)。享年37。「天地の外にあらじな千種だにもと咲く野辺に枯ると思へば」
寺坂吉右衛門信行 てらさかきちえもんのぶゆき
吉田忠左衛門の足軽、3両2分2人扶持。足軽では唯一の参加者。討ち入り後に一行から立ち退いている。討ち入り時は39歳。事件後に幾つかの家に仕えた後、江戸で没。享年83。

関係人物[編集]

赤穂藩[編集]

浅野内匠頭長矩
赤穂藩主。松之大廊下で吉良上野介に刃傷に及び切腹。「風さそふ花よりも猶我はまた春の名残をいかにとか(や)せん」
瑤泉院
浅野内匠頭の正室。事件後に赤穂浪士の遺児の赦免に尽くした。
浅野大学長広
浅野内匠頭の実弟。浅野内匠頭の養嗣子となる。刃傷事件後に閉門となり、後に領地召し上げ、浅野宗家へ永預けとなる。この処分により大石内蔵助は仇討ちを決定する。
大野九郎兵衛知房
国家老650石。有能な経済官僚として重用されたが、刃傷事件後に開城恭順を主張して大石内蔵助と対立し、逐電している。後世に不忠臣の代表として悪名を受けた。
安井彦右衛門
江戸家老650石江戸扶持9人半。勅使御馳走役となった主君浅野内匠頭の補佐に失敗する。
藤井又左衛門宗茂
家老800石。勅使御馳走役となった主君浅野内匠頭の補佐に失敗する。
近藤源八正憲
1000石。大石内蔵助の縁者。義盟には参加していない。
岡林杢之助直之
組頭1000石。開城恭順派で義盟には不参加。討ち入り後、親族に不参加を責められて切腹した。
寺井玄渓
藩医300石5人扶持。大石内蔵助を助けた。

脱盟した元赤穂藩士[編集]

高田郡兵衛
江戸詰200石15人扶持。義盟に加わり、強硬な急進派として活動したが、最初に脱盟した。
萱野三平重実
中小姓近習12両2分3人扶持。刃傷事件の第一報を赤穂へもたらした。義盟に加わるが、家族から再仕官を勧められ、板ばさみになり自害した。仮名手本忠臣蔵の早野勘平のモデル。
橋本平左衛門
馬廻100石。義盟に加わるが、後に大坂遊女心中する。
奥野将監定良
組頭1000石。義盟に加わり大石内蔵助を補佐したが、仇討ちを決定した円山会議の直後に脱盟した
進藤源四郎俊式
足軽頭400石。大石内蔵助の親類で義盟に加わるが、円山会議後に脱盟。
小山源五左衛門良師
足軽頭300石。大石内蔵助の親類で義盟に加わるが、円山会議後に脱盟。
田中貞四郎
150石。浅野内匠頭の遺骸を引き取り埋葬した。片岡源五右衛門と行動を伴にする急進派。討ち入りを前に逐電した。酒色に溺れ身を持ち崩したとされる。
小山田庄左衛門
江戸詰100石。義盟に加わるが、後に金品を盗んで脱走。討ち入り後に父が恥じて自害している。
瀬尾孫左衛門
大石内蔵助の家来。大石内蔵助を助けて行動するが逐電してしまう。
毛利小平太
大納戸役20石5人扶持。義盟に加わり、吉良邸の探索などに活躍したが、討ち入りの直前になって脱落。最後の脱盟者となった。脱盟の経緯が不明の為、小説や映画ではそれぞれの作者が創作に腕を振るう。肺病を患い、雪の中を這いつくばりながら吉良邸に向かい、塀の外から勝ちどきの声を聞きながら血を吐き、息果てる物語等がある。

浅野家親族[編集]

戸田采女正氏定
美濃国大垣藩主。浅野内匠頭の親類。刃傷事件後に連座して出仕を止められた。
安部丹波守信峯
武蔵国岡部藩主。浅野内匠頭の親類。刃傷事件後に連座して出仕を止められた。
浅野美濃守長恒
幕府旗本。浅野内匠頭と大石内蔵助の親類。刃傷事件と討ち入りに連座して出仕を止められた。
浅野左兵衛長武
幕府旗本。浅野内匠頭と大石内蔵助の親類。浅野長恒の弟。刃傷事件と討ち入りに連座して出仕を止められた。
浅野安芸守綱長
安芸国広島藩主。赤穂浅野家の本家筋。連座を恐れて吉良邸討ち入りを妨害した。が、討ち入り後、浪士たちが英雄化されると態度を一転させて大石内蔵助の遺児大石大三郎を召抱えた。
浅野土佐守長澄
備後国三次藩主。綱長の弟。三好浅野家は瑤泉院の実家で、赤穂藩改易後、瑤泉院を引き取った。

赤穂浪士の親族[編集]

大石りく
大石内蔵助の妻。主税の母。
大石くう
大石内蔵助の長女。大石主税の妹。
大石吉之進
大石内蔵助の次男。大石主税の弟。
大石るり
大石内蔵助の次女。大石主税の妹。浅野氏一族浅野長道に嫁ぐ。
大石大三郎
大石内蔵助の三男。大石主税の弟。広島浅野本家に父と同じ1500石で仕えた。
堀部ほり
堀部安兵衛の妻。堀部弥兵衛の娘。
内田三郎右衛門元知
旗本。高田郡兵衛を脱盟させる。
萱野七郎左衛門重利
旗本大島伊勢守の家老。萱野三平の父親。三平自刃の原因となった。
松平孫左衛門忠郷
旗本。討ち入りに加わらなかった元赤穂藩士の弟岡林杢之助を責めて切腹させた。
小山田一閃
小山田庄左衛門の父。息子が同志の金を盗んで逃亡したことを恥じて自刃した。

吉良家[編集]

吉良上野介義央
高家旗本。松之大廊下で浅野内匠頭から刃傷を受ける。赤穂浪士の討ち入りを受けて討ち果たされた。
吉良富子
吉良上野介の正室。
吉良左兵衛義周
高家旗本。吉良上野介の養子。刃傷事件後は吉良家の当主となる。討ち入りの際に戦って重傷を負う。事件後に吉良家は領地召し上げとなり、信州高島へ配流された。
小林平八郎央通
吉良家家老。討ち入りの際に討死した。忠臣蔵では剣客として描かれている。
左右田孫兵衛重次
吉良家家老。事件後、吉良左兵衛の配流に従う。
斎藤宮内忠長
吉良家筆頭家老。戦わずに生き残った。
清水一学義久
吉良家家臣。討ち入りの際に討死した。忠臣蔵ではもっとも奮戦した剣客として描かれている。吉良家庭の凍った池の石橋の上で奮戦し池に倒れ落ちるシーンがよく描かれる。
山吉新八郎盛侍
吉良家家臣。討ち入りの際に最も奮戦した。事件後、吉良左兵衛の配流に従う。
鳥居利右衛門正次
吉良家家臣。討ち入りの際に討死した。

米沢藩[編集]

上杉弾正大弼綱憲
出羽国米沢藩主。吉良上野介の実子。
千坂兵部高房
上杉家家老。忠臣蔵ものでは吉良上野介に援軍を送ろうとする綱憲を押し止める。実際には事件の2年前に死去している。
色部又四郎安長
上杉家家老。忠臣蔵ものでは吉良上野介に援軍を送ろうとする綱憲を押し止める。実際には事件の時は出仕していない。

幕府[編集]

徳川綱吉
江戸幕府第5代将軍浅野内匠頭を即日切腹、改易に処した。
柳沢出羽守保明
徳川綱吉側用人大老格として幕政を主導。多門が浅野の慎重な取調べを求めたのを却下する。
仙石伯耆守久尚
幕府大目付。討ち入り後に赤穂浪士たちが自首し、浪士たちの処分にあたった。
梶川与惣兵衛頼照
吉良上野介に刃傷に及んだ浅野内匠頭を取り押さえた旗本。刃傷事件の史料となる『梶川与惣兵衛日記』を残した。
庄田下総守安利
幕府大目付。浅野内匠頭の切腹の検死役をつとめる。
多門伝八郎重共
幕府目付。目付として浅野内匠頭の切腹の副検死役をつとめる。刃傷事件の史料として『多門筆記』を残した。
大久保権左衛門忠鎮
幕府目付。刃傷事件後、吉良の取調べにあたり、また浅野内匠頭の切腹の副検死役をつとめた。
荒木十郎左衛門政羽
収城目付として赤穂城へ赴き、大石内蔵助から三回の嘆願を受ける。赤穂浪士の切腹に際しては大石内蔵助らの検死役をつとめる。
榊原采女政殊
収城目付として赤穂城へ赴き、大石内蔵助から三回の嘆願を受ける。
石原新左衛門正氏
幕府代官。赤穂藩が天領となったのち、その統治のため赤穂へ赴き、大石内蔵助から三回の嘆願を受ける。
岡田庄大夫俊陳
幕府代官。赤穂藩が天領となったのち、その統治のため赤穂へ赴き、大石内蔵助から三回の嘆願を受ける。
土屋主税逵直
旗本。吉良家の隣家。討ち入りの際に赤穂浪士を助けたとされる。

朝廷・京都[編集]

東山天皇
第113代天皇。勅使として柳原と高野を江戸へ派遣した。
霊元上皇
第112代天皇。退位以来院政を敷いている。院使として清閑寺を江戸へ派遣した。
公弁法親王
後西天皇の第六皇子で、天台座主。徳川綱吉が赤穂浪士の処分について相談した。
柳原資廉
前権大納言。刃傷事件の際に東山天皇の勅使として江戸へ下向していた。
高野保春
前権中納言。刃傷事件の際に東山天皇の勅使として江戸へ下向していた。
清閑寺熈定
前権大納言。刃傷事件の際に霊元上皇の院使として江戸へ下向していた。
進藤刑部大輔長之
近衛家諸大夫。進藤源四郎の一族。
お軽
山科での大石内蔵助の妾。

大名[編集]

伊達左京亮宗春
伊予国吉田藩主。院使御馳走役として浅野内匠頭の相役だった。
田村右京大夫建顕
陸奥国一関藩主。藩邸の庭先で浅野内匠頭が切腹した。
脇坂淡路守安照
播磨国龍野藩主。収城使として赤穂城を受け取る。
木下肥後守公定
備中国足守藩主。収城使として赤穂城を受け取る。
亀井能登守茲親
石見国津和野藩主。吉良上野介義央からイジメを受けたといわれる。『仮名手本忠臣蔵』の桃井若狭助のモデル。
多胡外記真蔭
石見国津和野藩家老。『仮名手本忠臣蔵』の加古川本蔵のモデル。

その他[編集]

宝井其角
大高源五と交流のあった俳諧師
山田宗偏
吉良邸茶会の日をさぐるため大高源五が弟子入りしていた茶人。
細井広沢
堀部安兵衛の親友の儒者。「堀部武庸筆記」を託された。
栗崎道有
蘭学医。刃傷を受けた吉良上野介を治療した。
天野屋利兵衛
大阪商人。浅野家のお出入り商人で赤穂浪士達の武器を調達したといわれる。
妙海尼
堀部安兵衛の妻を名乗って人々からのお布施を騙し取っていた女性。堀部ほりの偽者。

関連項目[編集]

赤穂浪士終焉の地[編集]

外部リンク[編集]