長谷川宣以

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長谷川 宣以(はせがわ のぶため、延享3年(1746年) - 寛政7年5月10日1795年6月26日))は江戸時代旗本である。『釣洋一』によれば、諸書が生年を延享2年(1745年)とするのは誤りで正しくは延享3年(1746年)であるという。通称は平蔵(へいぞう)。これは長谷川氏の当主が代々受け継ぐ通称で、家督相続以前は銕三郎(てつさぶろう)と名乗った。池波正太郎小説鬼平犯科帳』の主人公として描かれていることから、日本の時代劇ファンによく知られている。子に長谷川宣義1772年 - 1837年)がいる。

史実における長谷川平蔵[編集]

寛政重修諸家譜』によると明和5年(1768年)、400石の旗本である長谷川宣雄の嫡男として(母は「某氏」と記されている。某氏とは農民・町人の娘のことである)、23歳の時に10代将軍・家治に御目見えし、長谷川家の家督相続人となる。時期は不明であるが旗本の大橋与惣兵衛親英の娘と結婚し、明和8年(1771年)に嫡男である宣義を授かっている。

青年時代は放蕩無頼の風来坊だったようで、「本所の銕」などと呼ばれて恐れられたと記録にある。父の宣雄は火付盗賊改方を経て京都西町奉行の役に付き、平蔵も父と妻子と共に京都に赴く。父の死去に伴って平蔵は江戸に戻り、28歳で家督を継ぐ(安永2年・1773年)。

安永3年(1774年)、31歳で江戸城西の丸御書院番士(将軍世子の警護役)に任ぜられたのを振り出しに、天明4年(1784年)、39歳で西の丸御徒士頭、天明6年(1786年)、41歳で御先手組弓頭に任ぜられ、順調に出世していく。火付盗賊改方の長官に任ぜられたのは天明7年(1787年)、42歳の時である。

寛政の改革人足寄場(犯罪者の更生施設)の建設を立案し、石川島人足寄場の設立などで功績を挙げた。しかし、この時上司である老中首座・松平定信に予算の増額を訴え出たが受け入れられず、やむなく平蔵は幕府から預かった資金を銭相場に投じるという方法で資金を得る。辣腕とも言えなくは無いが、当時の道徳的には認められるようなものではなく(もちろん現代の価値観・法においても、役人が国家予算を相場投機で殖やすのは認められるものではない)、またこのような手法はかつての田沼意次を思い起こさせるようなものであり、このため意次を毛嫌いしていた定信とは折り合いが悪かった。定信は自伝『宇下人言』において敢えて名を呼ばず「長谷川(なにがし)」とまで記し、功績は認めたものの「山師などと言われ兎角の評判のある人物だ」と述べたほどであった。また前述のように清廉潔白というわけでもなかったので『よしの冊子』(定信の元に集まってきた隠密情報を整理した文書)によると「長谷川平蔵のようなものを、なんで加役に仰せ付けるのか」と同僚の旗本たちは口々に不満を訴えたという。

寛政元年(1789年)4月、関八州を荒らしまわっていた大盗、神道(真刀・神稲とも書かれている)徳次郎一味を一網打尽にし、その勇名を天下に響き渡らせる。

寛政3年5月3日1791年6月4日)、江戸市中で強盗及び婦女暴行を繰り返していた凶悪盗賊団の首領・葵小僧逮捕、処刑した。被害者に配慮し、逮捕後わずか3日で処刑している。三田村鳶魚は宣以が機転を利かせたためであり、幕府もこれを了承したとしている。このとき名刀・井上真改を用いたとも言われている。

非常に有能だが幕閣(特に前述の定信)や同僚からはあまり信頼されていなかったようで出世はままならなかったが、的確で人情味溢れる仕事振りに庶民からは「本所の平蔵さま」「今大岡」と呼ばれ、非常に人気があった。平蔵も出世できないことを愚痴っていることもあったが「越中殿(定信)の信頼だけが心の支え」と勤務に励んでいたという。

寛政7年(1795年)、8年間勤め上げた火付盗賊改方の御役御免を申し出て、認められた直後(退官の3ヵ月後)に死去。死の直前、11代将軍・家斉から懇ろな労いの言葉を受け、高貴薬「瓊玉膏」(けいぎょくこう)を下賜された。東京都新宿区須賀町の戒行寺に供養碑がある。

なお、長谷川平蔵の住居跡に数十年後遠山景元(遠山の金さん)が住んだという。これは全くの偶然らしい。

鬼平犯科帳における長谷川平蔵[編集]

幼名は銕三郎。実母であるお園は巣鴨村の大百姓である三沢仙右衛門の娘。父である宣雄と共に実母の実家で暮らす。宣雄は長谷川家の跡継ぎとなるため新しい妻として兄の妹である波津を迎え、長谷川家に戻ることになるが、その直後にお園が死去。義母の反対により銕三郎は17歳まで母の実家で過ごすことになる。父の尽力により実家である長谷川家に迎えられてからも波津とはそりが合わず「妾腹の子」と手酷く蔑まれ、その反発から遂に家を飛び出す。

それからは本所・深川界隈の無頼漢の頭となり、放蕩三昧の日々。「本所の鬼」「入江町の銕さん」などと恐れられ、行いの悪さから長谷川家を勘当寸前になる(ただし宣雄は銕三郎を庇い、キッパリとそれを撥ね付けた)。時を同じくして剣術を一刀流の高杉銀平に学び、腕を磨いた。

宣雄が亡くなり、長谷川家を継ぐ。堀帯力の後任として火付盗賊改方の長官に就任。鋭い推理力と観察眼を持ち、峻厳なる取り締まりに悪党からは「鬼の平蔵」と恐れられる。妻は旗本の大橋与惣兵衛親英の娘である久栄。子供は久栄との間に2男2女(後に養女を1人迎える)。

昼夜を問わず続く火付盗賊改の激務のせいか、体調を崩して臥せっていることも多い。久栄からは大好物である酒を止めるよう言われるが、その目を掠めて盗み飲みしていることもある。

煙草も嗜む。愛用の煙管は亡父から譲られた家紋(釘抜)入りの銀煙管(ただし盗賊に盗まれたこともある)。

愛刀は「粟田口国綱」「井上真改」。脇差に「備前兼光」。

長谷川平蔵を演じた俳優[編集]

関連項目[編集]


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