阪神教育事件

提供: Yourpedia
移動: 案内検索
デモ隊を鎮圧する大阪市警

阪神教育事件(はんしんきょういくじけん)は、昭和23年(1948年4月14日から同年4月26日にかけて大阪府兵庫県で発生した在日韓国・朝鮮人日本共産党による民族教育闘争、騒乱事件。阪神教育闘争とも呼ばれる。GHQは、戦後唯一の非常事態宣言を布告した。

事件の発端[編集]

当時の民族教育

昭和22年(1947年)10月、連合国軍最高司令官総司令部総司令官・ダグラス・マッカーサーは、日本政府に対して、「在日朝鮮人を日本の教育基本法学校教育法に従わせるよう」に指令した。

このころ、在日朝鮮人の子供たちは、戦前・戦中の皇民化教育により、朝鮮語の読み書きが充分にできなかった。それで、日本各地で、国語講習会が開催され、文字と言葉を知ったものが先生となり、在日朝鮮人の子供たちに、朝鮮語を教えた。教材は、独自にプリントされて作成された。国語講習会は、在日本朝鮮人連盟(略称は朝連)事務所や工場跡地、地元の小学校校舎などを借りて開かれた。その後、国語講習会は、朝鮮人学校に、改組されていった。学校は全国に500数十校、生徒数は6万余人を数えた。

昭和23年(1948年1月24日文部省学校局長は、各都道府県知事に対して、「朝鮮人設立学校の取扱いについて」という通達を出し、朝鮮人学校の閉鎖と生徒の日本人学校への編入を指示した。(朝鮮学校閉鎖令)。

同年1月27日、朝連は、第13回中央委員会を開催し、朝鮮学校閉鎖令に対し反対を表明した。さらに、「三・一独立運動闘争記念日」に合わせて、民族教育を守る闘争を全国で展開するように訴えた。

大阪府兵庫県ではこの通達に基づき、朝鮮学校の閉鎖を命じた。阪神では、朝連の宋性澈が闘争の指導に当たった。

事件の概要[編集]

大阪府[編集]

昭和23年(1948年4月23日午前9時、大阪府大阪城前の大手前公園で、朝鮮人学校弾圧反対人民大会が開催された。集会には、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余が集結した。16人の代表が選出され、大阪府庁舎で、大阪府府知事との交渉を行うことになった。

同日午後0時30分、大阪府庁知事室において、副知事(知事は当日不在だった)と朝鮮人代表者16人との交渉が始まった。交渉は合意には至らなかった。

同日午後3時、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余の中から、シュプレヒコールが起こった。50人余の青年が、行動隊を編成し、スクラムを組んで、大阪府庁前の阻止線を突破した。

同日午後3時30分、行動隊に続いて、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余も、大阪府庁に突入し、3階までの廊下を占拠した。副知事は警察官の誘導により、戦時中に作られていた地下道を通って、脱出した。

同日午後5時ごろ、群集は知事室になだれ込んだ。それから、群集はドアや調度品を破壊した。

日本共産党大阪地方委員会に派遣されていた増山太助は、川上貫一衆議院議員とともに、知事室に駆けつけたが、どうにもできなかった。

同日夜、大阪城周辺の各所で、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人は、篝火を焚いた。

同日、朝連は、川上貫一を代表として交渉の場を作ろうとしたが、アメリカ軍が到着した。さらに、武装警官も到着した。その後、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人らは、武装警官隊と乱闘となった。在日朝鮮人1人が死亡し、在日朝鮮人20人が負傷した。警官31人が負傷した。179人が騒擾罪で検挙された。

同年4月25日、朝連や日本人約300人が、大阪南警察署に押しかけ、逮捕者の釈放を要求した。警官隊は、約300人に向けて威嚇射撃を行い、追い返した。

同年4月26日、朝連は、大阪東成区旭区などで、朝鮮人学校弾圧反対人民大会を開催した。

同日午後、朝鮮人代表者と大阪府知事との間で再度交渉が行われた。

同日午後3時40分、別室に待機していた大阪軍政部のクレーグ大佐が、交渉の中止と、大手前公園に集結していた在日朝鮮人2万人の解散を指示した。

同日、在日朝鮮人1600人のデモ隊が、再び大阪府庁に向かった。デモ隊は、武装警官隊の阻止線で、投石を開始した。武装警官隊は、消防車に放水をさせ、デモ隊に突入した。警官隊はデモ隊に向けて拳銃で発砲した。在日朝鮮人1人が死亡した。

検挙者は軍事裁判にかけられた。日本人9人と在日朝鮮人8人が、重労働4年以下の判決を受けた。

事件解決後、大阪市警察局は、アメリカ陸軍第25師団司令部より感謝状が贈呈された。

兵庫県[編集]

昭和23年(1948年)4月10日、兵庫県県知事岸田幸雄は、朝鮮人学校に対して、封鎖命令を出した。

同年4月14日、朝連は、兵庫県庁を訪れ、岸田幸雄との交渉を要求した。

同年4月23日、警官隊とMPは、朝鮮人学校灘校と東神戸校を封鎖した。

同年4月24日、朝鮮人学校灘校と東神戸校の封鎖に抗議する在日朝鮮人や日本人が、兵庫県県庁前に集結した。

同日午前9時30分、兵庫県庁知事室で、岸田幸雄、神戸市市長小寺謙吉検事正ら15人は、朝鮮人学校閉鎖仮処分執行問題と、在日朝鮮人の抗議集会対策を協議した。朝連は兵庫県知事室での密談の情報を入手し、約100人の在日朝鮮人や日本人が兵庫県庁内に突入し、知事応接室を占拠して備品などを破壊した後、壁を打ち破って知事室になだれ込み、岸田幸雄やMPを監禁した。在日朝鮮人や日本人約100人は、電話線を切断して外部との連絡を絶ち、「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」などを岸田幸雄に要求した。

同日午後5時、岸田幸雄は、「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」を誓約した。

同日午後10時、岸田幸雄、吉川兵庫県副知事、市丸検事正、田辺次席検事、出井兵庫県警察長、古山神戸市警察局長らは、占領軍兵庫県軍政部に集められた。

同日午後11時、兵庫県軍政部は「非常事態宣言」を発令した。これによって、全警察官はアメリカ軍憲兵司令官の指揮下に入った。兵庫県庁への乱入者の徹底検挙が命じられ、岸田幸雄が誓約した「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」などはすべて無効とされた。

同年4月25日早朝、アメリカ軍憲兵や日本警察官は、兵庫県庁への乱入者を検挙し始めた。

同年4月28日、非常事態宣言が解除された。

同日4月25日から同年4月29日までに、1590人もしくは7295人[1]が検挙された。日本共産党神戸市市議会議員堀川一知も検挙された。

検挙した者から主だった者を、拘留し、23人を軍事裁判にかけた。日本人は堀川一知のみで、重労働10年の判決を受けた。在日朝鮮人は、最高重労働15年の判決が出され、刑期終了後は本国に強制送還されることになった。

阪神教育闘争の決着[編集]

同年5月5日、朝連教育対策委員長と文部大臣との間で、「教育基本法と学校教育法を遵守する」「私立学校の自主性の範囲の中で朝鮮人独自の教育を認、朝鮮人学校を私立学校として認可する」との覚書が交わされた。

脚注[編集]

  1. 兵庫県警察史編纂委員会『兵庫県警察史 昭和編』では、1590人。公安資料では、7295人

参考文献[編集]

  • 宮崎学『不逞者』幻冬舎 幻冬舎アウトロー文庫、1999年、ISBN 4-87728-734-5
  • 神戸市警察史編集委員会『神戸市警察史』1956年
  • 大阪府警察史編集委員会『大阪府警察史 第3巻』1973年
  • 兵庫県警察史編さん委員会『兵庫県警察史 昭和編』1975年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]