飛鳥寺

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飛鳥寺(あすかでら)は奈良県高市郡明日香村にある寺院である。蘇我氏の氏寺で、日本最古の本格的寺院でもある法興寺(仏法が興った寺という意味)の後身である。この寺にはいくつもの呼び名がある。すなわち蘇我馬子が建立した寺院の法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)であり、法興寺中金堂跡に現在建つ小寺院の公称は「安居院」(あんごいん)だが「飛鳥寺」の呼称は江戸時代の紀行文などにも見え、「飛鳥寺式伽藍配置」など学術用語にも使われている。

本項では馬子が建立した寺院とその法灯を継いで現存する寺院とを包括して、「飛鳥寺」と呼称することとする。安居院は真言宗豊山派に属する。本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基(創立者)は馬子である。山号を鳥形山(とりがたやま)と称するが古代の寺院には山号はなく、後になって付けられた山号である。なお「鳥形山」は寺の北東、飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)のある山を指す。

起源と歴史[編集]

創建[編集]

現在の飛鳥寺の前身である法興寺は蘇我氏の氏寺として6世紀末から7世紀初頭にかけて造営されたもので、明日香村豊浦の豊浦寺(尼寺。現在の向原寺がその後身)と並び日本最古の本格的仏教寺院である。

日本書紀』によると、法興寺は用明天皇2年(587年)に蘇我馬子が建立を発願したものである。馬子は排仏派の物部守屋との戦いに際し、この戦いに勝利したら仏寺を建立することを誓い無事に勝利したので、飛鳥の真神原(まかみのはら)の地に寺を建てることにしたという。

一方、天平19年(747年)成立の『元興寺縁起』には発願の年は『書紀』と同じながら内容の異なる記載がある。『縁起』によると丁未年(用明天皇2年、587年)、「百済の客」が当時の日本には尼寺しかなかったので法師寺を作るべきであることを上申し、用明天皇が後の推古天皇聖徳太子に命じて寺を建てるべき土地を検討させたという(当時の日本には百済に留学した善信尼などの尼はいたが、日本人の正式の男僧はいなかったと見られる)。

『書紀』によれば翌崇峻天皇元年(588年)、百済から僧と技術者が派遣され飛鳥の真神原(まかみのはら)の地にあった飛鳥衣縫造祖樹葉(あすかきぬぬいのみやつこおやこのは)の邸宅を壊して法興寺の造営が始められた。『書紀』の崇峻天皇5年(592年)の条には「大法興寺の仏堂と歩廊とを起(た)つ」とあり、整地工事や木材の調達が終わって本格的な造営が始まったのはこの年からとする説もある。

『書紀』の推古天皇元年正月15日593年2月21日)の条には「法興寺の刹柱(塔の心柱)の礎の中に仏舎利を置く」との記事があり、翌日の16日2月22日)に「刹柱を建てた」とある。なお昭和32年(1957年)の発掘調査の結果、塔跡の地下に埋まっていた心礎(塔の心柱の礎石)に舎利容器が埋納されていたことが確認されている。

『書紀』の推古天皇4年(596年)11月条に「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」との記事がある。しかし後述のように法興寺本尊の釈迦三尊像が完成したのはそれから少なくとも9年後のことであり寺は完成したが、9年間は本尊が存在しなかったということになってしまう。この点については研究者によってさまざまな解釈があり、一説には推古天皇4年(596年)にはまず塔が完成し他の堂宇はその後順次建立されたのではないかという。

昭和31~32年(1956~1957年)の発掘調査の結果によれば当初の法興寺は中心の五重塔を囲んで中金堂、東金堂、西金堂が建つ一塔三金堂式の壮大な伽藍であった。

法興寺中金堂本尊の釈迦三尊像について『書紀』は推古天皇13年(605年)に造り始められ翌14年(606年)完成、作者は鞍作鳥(くらつくりのとり)であるという。なお、『元興寺縁起』に引く「丈六光銘」(「一丈六尺の仏像の光背銘」の意)には乙丑年(推古天皇13年、605年)に「敬造」(謹んで造るの意)し、己巳年(609年)に「畢竟」(造り終わるの意)とある。

大化の改新による蘇我氏宗家滅亡以後も内外の信仰を集め、天武天皇の時代には大官大寺川原寺薬師寺と並ぶ「四大寺」の一とされて朝廷の保護を受けるようになった。これに関連して飛鳥寺近くの飛鳥池遺跡からは大量の富本銭が発見され、その位置づけを巡って(飛鳥寺との関係も含めて)様々な議論が行われている。

平城遷都以後[編集]

都が平城京へ移るとともに法興寺も現在の奈良市に移転し元興寺となったが、飛鳥の法興寺も存続し本元興寺と称された。建久7年(1196年)の火災による焼失後、中世以降の衰退は著しく江戸時代には仮堂一宇を残すのみであった。江戸時代の学者・本居宣長の『菅笠日記』には、彼が明和9年(1772年)に飛鳥を訪ねた時の様子が書かれているが、当時の飛鳥寺は「門などもなく」「かりそめなる堂」に本尊釈迦如来像が安置されるのみだったという。

現在、参道入口に立つ「飛鳥大仏」の石碑は寛政4年(1792年)のもので当時すでに「飛鳥大仏」と呼ばれていたことがわかる。現・本堂は江戸末期の文政8年(1825年)に大坂の篤志家の援助で再建されたもので、創建当時の壮大な伽藍をしのぶべくもない。しかし発掘調査の結果、現在の飛鳥寺本堂の建つ場所はまさしく馬子の建てた法興寺中金堂の跡地であり、本尊の釈迦如来像(飛鳥大仏)は補修が甚だしいとはいえ飛鳥時代と同じ場所に安置されていることがわかった。日本最古の寺院・法興寺は衰退したとはいえ、21世紀の今日までその法灯を守り続けているわけである。

札所[編集]

文化財[編集]

  • 銅造釈迦如来坐像(国の重要文化財) - 飛鳥寺(安居院)の本尊。飛鳥大仏の通称で知られる。「起源と歴史」の項で述べたとおり7世紀初頭、鞍作鳥の作とされる。作鳥は、法隆寺金堂本尊釈迦三尊像の作者である「司馬鞍首止利」(しばくらつくりのおびととり)と同一人物とみるのが一般的理解である。当初は法隆寺釈迦三尊像と同様の三尊形式だったはずだが両脇侍像は失われ、釈迦像も鎌倉時代の建久7年(1196年)の落雷のための火災で甚大な損害を受けており当初の部分は顔の上半分、左耳、右手の第2・3・4指に残るのみだといわれる。亀裂の入った部分を粘土で埋め紙を張って墨を塗った部分などがあり、大幅な補修が加えられていることは確かで当初部分がどの程度残存しているのか正確にはわかっていない。右手の第2・3・4指については、掌の部分にほぞ差しされていることがエックス線撮影によって確認されている。アーモンド形の眼の表現などは現存する他の飛鳥仏に共通する表現が見られる。体部のほとんどが後補とみられるが胸前に紐の結び目を表す服制は古様であり、当初像の表現を踏襲している可能性がある。

参考文献[編集]

  • 飛鳥の文明開化、大橋一章、吉川弘文館歴史文化ライブラリー、1997

関連項目[編集]

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